ACT14「エクスと絵描きのプローラ・1」
「うーん。確かにここをもっと刻めればカッコいいけど、それだと運指が忙しすぎて――」
「でしたら、直前で主旋律を交代しましょう。ここで魅せるべきは表現力よりむしろ正確かつ迅速な弓捌きですから、私向きかと」
「言うようになったねえ。だったら、F辺りからは俺に譲ってよ。君の上達スピードには驚かされるけど、まだまだニュアンスを乗せきれてない」
「今はその方がオーディエンスへの訴求力を高められそうですね。でしたらお任せします」
「……そんな顔するなよ。単に一日の長があるってだけさ。そのうちここも入れ替わりながら出来るようになる」
夕暮れが迫り、ステージから降りてからも、エクスとテンデットは身に宿る熱をそのままに、本日初お披露目となった4曲目のアレンジについて語り合っています。
初舞台からおおよそひと月経ち、更なる研鑽を重ねたエクスの腕は、互いの得意分野を意識してのパート分けが提案出来る程に上達を見せていました。
いくら働かなくても良い立場であり、余暇の全てを練習に費やしていたとしても、テンデットはその上達速度と正確さに驚くばかり。初めは先生のようにいちいち手を取って導いていたものの、気付けば横で聴く音の中に、自分の演奏では届いていない光るものを見出した彼は、既にエクスへの視線を同じ立場の演奏仲間へ向けるものにしていました。
「……まあ、ここはパーカスとの兼ね合いもあるから、細かい所は実際に合わせてみて、かな」
「呼んだ?」
手書きの文字がびっしりと入った楽譜の一点をとん、と指さしてひと息を吐くテンデットの後ろから、大柄な男性が覗き込んできました。エクスは几帳面に視線を合わせて一度頭を下げ、食い入るように楽譜を見つめる男性の体に半ば押しつぶされる形となっているテンデットの代わりに、話題を引き継ぎます。
「ええ、今ここの部分をどう表現するか話し合ってまして」
「お、俺としては……今の派手さを抑えて、少しメロウな感じにしたい……っていうか、苦しい」
出っ張った腹の下から呻きにも似た声を上げるテンデット。流石にいつもの快活な明るさは鳴りを潜めているその声に慌てて身を起こした男性が、悪い悪いと片目をつぶって手を合わせます。
重圧から解放されて、萎んだ肺を元に戻すように何度も息を深く吸い込むテンデットをしばらく見つめてから、男性は名案を思い付いたと軽く手を叩きました。
「だったら今から少し合わせないか?他にも声掛ければやってくれると思うけど」
「いいのかい?」
思わぬ提案に深呼吸を一度止めて、テンデットは男性を見やります。彼は返答の代わりに顎先をくいと上げ、2人に周りを見てみろと無言の促しをしました。
2人は議論に熱中するあまり気付いていませんでしたが、広場はすっかり日が落ちています。先週までであれば聴衆も他の演奏者もとっくに帰路に着く頃、しかし今日に限ってはぽつぽつと灯る街灯の下、みんなが楽器や椅子の片付けもそこそこにあちらこちらで話声を上げていました。
「みんな名残惜しいのさ。今日で最後ってのがな」
呆けた顔で辺りを見回すエクスとテンデットを見て、頬を緩ませながら話す男性の声にも、名残惜しさがありありと浮かんでいます。
「もっとやりたいのは山々なんだけどね……」
そのうち幾人かと目が合い、軽く上げた手を振り終えて、テンデットが小さく呟きます。
世間には段々と年末の足音が近づいて来ているこの時期、来年も変わらずに過ごす為、誰しもが身の回りにある機械のメンテナンスを急ぎます。そうなれば腕利きの技術者である彼や彼の弟は引っ張りだこ。これから少なくとも新年を迎えるまで、彼らは昼夜、そして週末を問わずあちこちの現場を飛び回らなければなりません。
そんな中でどうにか確保できる練習の時間を考えた結果、あの祭りから全ての週末で欠かすことなくこの広場を大いに賑わかせたエクスとテンデットと、彼らの賛同者たちによる演奏は、今日でひとまずの最終幕を迎える事と決まったのです。
「残念です」
釣られてエクスも寂しげに呟き、その横顔を見たテンデットが素直にありがとう、と返します。決断を下した張本人達のそんなやり取りにも、今や誰からも反論の声は上がりません。
当初、聴衆や他の演奏者の間から、たとえテンデットを抜いたとしても続けてはどうか、という打診はありました。エクスかテンデット、どちらかさえ居れば十分に場を盛り上げることが出来る、と。
しかしそんな発案に、エクスは二の句を告げられる前に首を振っていました。今日に続くこの舞台を作り上げたのは自分ひとりの力ではなく、むしろそれより大きな存在としてテンデットを捉えており、そして何よりも彼と並んで弓を弾かない光景を想像するたび、どうしても拭いようのない物足りなさを感じていたのです。
エクスにとって幸いだったのは、その思いを本人が寂しさであると分析する前に汲み取って、彼の判断を尊重できる。そんな人たちばかりが周囲に集まってくれていた事でした。お陰でどこにも険が建つことなく皆が穏やかに、そして満足と共に最後のステージを降りられたのです。
とはいえ、襲い来る空虚さが消える訳ではありません。名残を惜しむ二人から広がる、消える前の蠟燭に灯る火のようにしゅんとした空気に静まる噴水の前に、急に無遠慮な声が割り込みました。
「あんだよ、まだ片付けてねえのか」
「トレムマンさん」
「はいはい、お前らとっとと撤収しろ撤収」
エクスの挨拶に軽く上げる手もそこそこに、提げたケースを一度負いた彼が大きく両手を鳴らし、皆に呼びかけました。
「……もうちょっと浸らせてくれてもさあ」
敢えて場の空気を無視したその所作にたまらず声を上げる聴衆の一人に、トレムマンはにべもなく何言ってやがる、と眉を下げます。
「利用時間はとっくに過ぎてんだよ。あんまりうだうだしてっと怒られんぞ……来年もここ使うんだろ?」
トレムマンの声により一瞬ざわりと波立った場の雰囲気は、続いた本人の不器用な気遣いによって納得と共に再び穏やかに静まっていきました。仕方ないと三々五々片付けを始める周りを見回し、嘆息と共に肘に手を当てながら、トレムマンは再びケースを持ち上げ、エクスの前に差し出します。
「ほれ、メンテ終わったぞ」
受け取って蓋を開くと、エクスにとって見慣れた傷痕がずいぶんと目立たなくなったヴァイオリンが顔を覗かせ、街灯の光を均一に照り返しました。
「これは……」
「おめえが直した証しみたいなもんだからな。そこだけは交換じゃなくてリペアにした。流石に音は良くねえが、練習には充分だろ」
「……ありがとうございます」
湧き上がる感慨を乗せて深く礼を述べ、さっそく構えようとするエクスを、呆れたようにテンデットが制止しました。
「俺の話聴いていたか?続きは帰ってやれっての」
「すみません。早く鳴らしてみたくって……それに」
エクスは一度言葉を切って、段々と普段の装いを取り戻していく広場を、もう一度見渡します。
「一時的なものとはいえ、最後と思うとどうにも未練が残って」
「じゃあその最後を誰かさんのメンテで見逃した俺はどうなんだよ」
「どうしてもこの日に間に合わせたかったって張り切ってたもんねえ。今日までの頑張りに対する記ね――」
「うるせえよテンデット!」
「おー恐い恐い。じゃ、また来年ね!」
お酒も入っていないのに赤ら顔で怒鳴り散らすトレムマンに、テンデットはからから笑いながら退散していきました。湿っぽい別れを嫌う彼らしく、軽い足取りで遠ざかるその背中を暫く睨み付けていたトレムマンは、やがて腰を折られた話を改める様に、咳を一つ払います。
「ま、アレだ。あいつも次やるまでに腕上げてくんぞ。ああ見えて負けず嫌いだからな」
「いや、私なんてまだ彼には」
「アイツがそう思うかはまた別の話だ。だからしょげてる暇があったら練習しておけ」
「そうそう、来年までの楽しみが出来たって事でいいじゃない」
再び突然割り込んだ声に、エクスとテンデットが振り返ると、そこにはいつの間にか畳んだイーゼルとカンバスを小脇に抱えた女性が立っていました。
「やっとあのお兄さんから解放された思ったら、今度はこのおじさまだもの。やっぱり人気者なのね」
「今日も見に来て頂いて、ありがとうございます。プローラさん」
細い足を忙しなく前後して駆け寄ってきた、自分にとって初めてのファンへと、エクスは深々と頭を下げます。地面を向いたその顔が一瞬、さっきまでとは打って変わってほころんだ事を、彼自身含めて誰一人知る事はありません。
「当然でしょう?それにモデルを見ない事には筆が進まないしね」
「……モデル?」
顔を上げるエクスの視線に、トレムマンの怪訝そうな顔が映りこみます。自身の店を抱えている事もあり、演奏会は今日までずっと、終盤に駆け付けては最後列で見守っていた彼にとって、一番前でカンバスへと筆を走らせる彼女がちょっとした名物になっている事すら知りませんでした。
「ええ。私の絵のモデルをしてもらっているんですよ」
「コイツがか」
意外な事実に驚くトレムマンに柔らかな笑みを浮かべてから、プローラは改めてエクスへと向き直ります。
「残念なのはみんな一緒。でも考え方で気の持ちようはいくらでも変わる」
ね?と上目遣いで念を押す女性に、エクスは僅かに顔を上げました。今目の前にある空しさではなく、もっと上手になった自分が再びテンデットとセッションする日へ思いを馳せながら、こころの内に残った寂しさを振り払います。
「そう、ですね……」
「そうそう。いつまでも暗い顔をされちゃ、表情が描き込めないわ」
そうして暫く笑い合う2人の間に挟まれて、その雰囲気にある種の渋面を浮かべていたトレムマンが、やりとりに引っ掛かりを覚えて眉根を潜めました。
「……描き込めねえっつーことは、まだ完成してねえのか?」
向けられたその疑問に流れる時を止められたように表情を固めたプローラへ、トレムマンの容赦のない追撃が続きます。
「自分で言ったけど、もう暫くこの集まりねえんだぞ」
「そうなのよねえ……年明けまで中断したら、イメージが変わっちゃいそうだし」
イーゼルとカンバスを前抱きにして、ほとほと困り果てた様に腕を組んで唸っていたプローラが、やがてぱっと顔を上げ、長い間反応に迷っていたエクスへと輝いた瞳を向けます。
その後僅かな間を以って打診された、彼女にとっては何のことはないその申し出。
しかしエクスは聴いた途端、今までに一度も覚えた事のないこころの波に翻弄され、暫く返事を返すことが出来ませんでした。
「――ねえ、もし良ければ、明日から私のアトリエに来てくれない?」
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