ACT9「エクスと楽器屋のトレムマン(後編・3)」


「おはようエクス……といっても初舞台だし、緊張で寝られなかったかな?」

「いえ、私には疲労という概念が存在しないので、同期と充電さえ出来れば問題ありません」



 週末がやってきました。

 昼前のドームは雲一つ浮かべておらず、エアスクリーンの向こうには深い群青がどこまでも広がっています。冬の始まりを告げる高い陽の下、中央広場にはたくさんの出店が軒を連ねており、人々は正午の開店に向けて慌ただしく行き交っています。

 そんな活気の中心に設えられた急ごしらえのステージの脇で、エクスとテンデットは噴水の縁に腰掛けて各々の楽器を調律しながら、他愛ない話に花を咲かせていました。



「落ち着いてるなあ。俺なんて初めて人前で弾いた時手が震えっぱなしだったのに」

「完璧に弾く必要はないと言ってくれましたし、緊張する要素はありませんよ」

「現在発声速度が平時比112%――」

「……余計な事は言わなくていいんです。スィード」



 慎重に糸巻きペグを回す手を止めたエクスが、2人の手元を興味深そうにフォーカスするスィードの遠隔ユニットへと半眼を向け、舌を打ちます。



「はは、すっかりトレムマンさんの癖が移っているね」



 その視線から逃れる様に高度を上げるスィードを目で追いながら笑うテンデットに、エクスは思わず肩を縮ませました。



「品のない行為だと理解してはいるのですが……反射的に」

「それが分かるだけ彼よりマシかもよ?」

「存外容赦のない事を言いますね」

「流石に目の前じゃ言わないさ」



 エクスとトレムマンは軽口を叩き合い、間に挟まるスィードも混じって三人して笑います。この日を迎えるまでに修理素材の調達や合同での練習と、何かと彼と行動する機会が増えいった為か、その性格に引っ張られるように二人の感情の表現がまた裾野を広げていました。 



「さあて……チューニングはこんなもんかな」



 一足先に調弦を済ませたエクスに続いて、弦に弓を滑らせるたびチューナーと睨みあっていたテンデットが大きく頷きます。



「軽く合わせようか?」

「はい……スィード、お願いできますか?」



 見上げるエクスに任せておけ、と言わんばかりにスィードが一度上下に上下に揺れました。



「勿論。普段通り8小節ごとにテンポを変更すれば良いですか?」

「それでお願いするよ」



 にっこり笑って構えるテンデットの声に了承を返し、スィードはスピーカーから等間隔で1分間に80回の電子音を鳴らし始めます。



「いくよ」

「いつでも」



最大で上下40の落差を以って変わるメトロノームのリズムに合わせて、2人は弦へと弓を躍らせ始めました。





※      ※      ※





「これ以上やると、苦労の跡がばれちゃうね」



 祭りの始まりを告げる号砲が鳴り響き、潮時とばかりにテンデットが楽器を下ろしました。エクスも異論なくそれに続いて顎を外します。

 待ち焦がれていたように溢れ出した人波と活気に、音量を最大に上げてもスピーカーの電子音は聞こえなくなっていました。



「俺達の演奏は14時から30分。10分前には袖に居たいね」

「でしたら、直前のリハーサルも合わせて、40分前にまた合流しましょうか」

「それくらいがちょうどいいか。君達も祭りを見て回るといいよ。美味しいものもたくさんあるしね」

「……確かに」

「……手だけでなく、口や鼻も欲しいと思う日が来るとは」



 丁度辺りの屋台から漂い始めたかぐわしい香りに、鼻を鳴らして目を細めるエクスとテンデット。そんな2人の間を蛇行して、スィードは器用に飛んだ航跡で口惜しさを表現します。


 

「ごめんごめん。改めて話を戻そうか。……本番はもちろんスィード君のメトロノームはなしなんだけど、もともとこのアンサンブルは即応性をいかに見せるかが魅力でもあるから、多少ったり走っても大丈夫」



 ヴァイオリンをケースに戻しながら最後の確認を取るテンデットでしたが、太鼓判を押された当のエクスは不安そうに目を伏せています。



「でしたら、テンポの変更はどう察知すれば?」



 呟くエクスが顔を曇らせるのも無理はありません。今まで速度が変わる1小節前にスィードが声で示唆してくれていたからこそ、演奏が安定していた。彼はそう思い込んでいるのです。

 そんな胸に渦巻く不安をあっさり見抜いて、吹き飛ばすように大声で笑ったテンデットがエクスの肩を強く叩きました。



最後のAラストコードに差し掛かったら俺のほうを見てくれればいい。俺が君から見て右足を上げればテンポアップ、逆ならダウンだ」

「……それだけですか?」



 その具体性に掛けて今ひとつ要領を得ない案に、エクスは却ってより不安を煽られてしまいました。しかしテンデットは相変わらず、失敗など頭の片隅にもないように大きく頷きます。



「ああ。あとは俺の目を見れば大丈夫」

「眼……?」

「伝わるものがあるのさ、プレイヤー同士にはね。じゃ、またあとで!」

 


 結局エクスの不安を完全に払拭しないまま、そう言い残して食べ物屋の列へと消えて行くテンデット。その背中がすぐさま紛れ込んでしまった人の群れをしばらく眺め、小さく息を吐いたエクスがケースを片手に立ち上がります。



「大丈夫ですか?エクス」



 それを諦めの溜息と捉え、心配そうに下から覗き上げるスィードに、エクスは慌ててかぶりを振りました。



「問題ありません。テンデットさんは今日まで、何の徳利もないにも関わらず私達に協力を惜しみませんでした」



 相変わらず不安定な軌道で腰元を漂うスィードへと言い含めるようなその口調はその実、半分は自分に向けていたものだったのかも知れません。空いている左手をぐっと握り、エクスは続けます。



「そんな彼が今更悪意による嘘を吐くとは思いません……信じますよ、私は」



 意を決した言葉と共に歩き出すエクス。その左肩へ追従するスィードが、彼に小さく耳打ちをします。


 

「……万一の際は、私がコンマ以下のラグで直接テンポを転送します」

「あはは。ありがとう、スィード。さ、私達も祭りを見て回りましょう」






 ※       ※        ※







「お、また来たな!ミートパイまだあるぞ」

「いえ、もう結構です……すこし、食べすぎたかもしれませんね」



 気のいい店主の申し出をやんわり断り、絶えず供給過剰を訴えてくる有機物消化ユニットのアラートを受けながら、クレープの包み紙を片手にエクスが呻きます。

 あれから休まず広場を歩き回りながら、エクスは常に食べ物を頬張っていました。たっぷり1時間をかけて広場を何周もしたおかげで、周りの人々もASHがひとりで食べ物を両手に歩いているという光景にすっかり慣れきっていました。



「3日は充電しなくても行動できますね」

「何故でしょう……人工素材アーティフィシャルばかりで作られ衛生状況も良いと言えないにも関わらず、購入意欲が止まりませんでした」

「その疑問に対する適切な回答を用意できません」



 敢えてシステマティックで、同時に少し拗ねるようなスィードの声にエクスは再び慌てて頭を下げます。



「全く……本来の目的を失念してはいませんか?」

「勿論絶えず見て回っています。いますが……」



 呆れるようなスィードの声に、エクスはその顔に別の苦みを走らせます。

 スィードの言う本来の目的とは、今日の演奏に誘ったはずのトレムマンを探し出す事でした。

 しかし、歩いている間動かしっぱなしだった口に負けない位せわしなく辺りへと目線を動かしていたものの、彼の姿は一向に見当たりません。



「そろそろテンデットさんと合流しないと……やはり、来ていないのでしょうか」

「……まだ開演まで時間はあります。来なかったと悔やむのは演奏の後でも――」



 励ますスィードの言葉を遮るように、前の人ごみから小さな悲鳴と何かが地面に散らばる音が聞こえてきました。

 ややあって二人の方まで転がって来た何かが足に当たり、その細長い棒のようなものを1本を拾い上げたエクスは首を傾げます。先端に細い繊維が同方向へと無数に取り付けられたそれは、気付けば結構な本数が足元に散らばっていました。

 ひとまずエクスが全てを拾い終えると同時に、緩いウェーブの掛かったショートブロンドの小柄な女性が、腰を曲げたまま転がるように人波を掻き分けて2人の方へと駆けてきます。



「大丈夫ですか?」

「あ、拾ってくれたんですね……助かります」



 気遣いへのに礼もそこそこに、若い女性はエクスの手から棒の群れを受け取って何度もその本数を数え出します。小さな両手でいっぱい握り締めた1本1本の先端にじっと意識を割く女性は、拾った者がASHである事にも気付いていないほど集中していました。



「お役に立てて光栄です」



 先程のスィードと同様、エクスは敢えてASHお決まりの文句を口に浮かべ、そこで初めて顔を上げた女性が正体に気付いて、一瞬驚きに目を丸くします。



「ありがとう、この筆、とても大切なものなの」

「ふで?」


 

 咄嗟に敬語を取り払った女性でしたが、その声に侮るような色は見受けられません。むしろ親しみが増した感覚を覚えたエクスは、特に機嫌を損ねる事も無く尋ね返します。



「ええ、この毛の先に絵具……顔料と油を混ぜたものを付けて絵を描くの。と同じ、芸術の1種」



 女性はそう言って、短く爪が切り揃えられた指を伸ばします。エクスがすらりと伸びたその指先を目で追うと、彼女はどうやらエクスが提げたケースを指さしているようでした。



「所有者さんのものかしら?」

「いえ、マスターは現在周囲にいません。これは私物です」



 段々と待ち合わせの時間が迫っていました。技術畑出身のテンデットより、彼女はむしろトレムマンに近い理解力だろうと判断し、自分が自律型と信じ込ませるのは困難であるとしたエクスは、そんな嘘とも言い切れない方便で事情を端折ります。



「私物……演奏するの?君が?!」



 しかし付け加えた一言が却って興味を弾いてしまい、女性は目を輝かせてエクスの言葉を待っています。 



「……ええ、この後14時から」



 エクスは諦めた様に、静かに口を動かします。

 あの日のトレムマンと同じように、人の真似ごとなぞするなと怒鳴られてしまうかもしれない――。

 いつしか満腹感も忘れ、代わりにエクスのこころには僅かに影が掛かっていました。 




「すごいじゃない」

「――え」




 一瞬、エクスは集音マイクの誤作動を疑っていました。それほどに彼女の弾んだ声と笑顔は、彼にとって信じがたいものだったのです。しかし願ってすらいなかったそんな反応が間違いではないと後押しするように、彼女は続けます。



「14時、14時ね。観に行く。君がどんな演奏するのか、凄く楽しみだわ……インスピレーションも湧きそう」



 ――頑張ってね。

 付け加えると同時に手を握られたエクスは、今まで覚えた事のない感情の動きを検出していました。なぜか小さな苦しみをも伴う、最大限のプラスの欠片フラグメント。彼がその正体を分析することが出来ずに戸惑っている間に、彼女は手を振って踵を返し、膝丈のコートをひらりとはためかせて人波へと消えて行ってしまいました。



 「エクス……?」



 とうに見えなくなった筈のその後姿をいつまでも見つめる様に、エクスはいつまでもぼうっと立ち尽くしていました。それまで高度を高く保って事の成り行きを見守っていたスィードが声を掛け、そこでやっと我に返ったようにエクスの両目が焦点を合わせます。



「どうしました?」

「いや……」



 訊ねてくるスィードに今度は自分が適切な答えを用意することが出来ず、エクスは口ごもります。延々と答えを探しあぐねている間に、遠くから走り寄る人影がひとつ。



「ああ、いたいた!遅刻だ――って」



 二人の前で止まって肩を上下させながら口を尖らせるテンデットでしたが、エクスの顔を見るなり言葉を失います。



「申し訳ありません……どうしました?」

「なんか、良い事あった?すごい顔してるけど」



 自覚のないまま謝罪の文句と共に首を傾げるエクスへと、テンデットは無言で取り出した手鏡を突き付けます。



「!!」



 そこへ映し出された自分の、そのあまりにも間の抜けた表情に慌ててシステムを呼び出してまでデフォルトに戻すエクス。そんな彼をよそにスィードが事の顛末を伝えると、何かを悟った様にテンデットが含み笑いを浮かべました。



「こりゃ、気合い入れてリハしないとだね」



 ステージへと向かって歩き出しながら、上機嫌で少し軽薄な声を投げかけてくるテンデットに、エクスは表情を変えないままついていきます。



「当たり前ですよ。彼が見に来てくれるのですから」

「彼女も、だろ?そんな照れるなよ」

「「何がですか」」

「ありゃ、スィード君は分かっているからていたんじゃないのか」



 午後の演目を告げるアナウンスが広場に響き渡ります。

 空の太陽は僅かに傾き始め、昼食を食べ終えた人たちや歩き疲れた人たちが少しずつ、未だ幕の下りているステージの前を埋め始めていました。

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