ACT8「エクスと楽器屋のトレムマン(後編・2)」



「んあ……?」



 間の抜けた形に整形された雲がドームの中をあてどなく漂う、気だるい午後の昼下がり。事務所の軋む椅子にもたれ掛って舟を漕いでいたトレムマンは、遠慮がちに捻られたドアノブの立てる音に微睡まどろむ意識を引き上げられました。



「ごめんください」

「はいはい、今お伺いしますよ……っと」


 椅子から背中を剥がして立ち上がり、大きく伸びを一つ。それからトレムマンは右手の袖口で口元のよだれを拭いていそいそとレジへ向かいます。今日は平日、それもこんな昼間から店を覗こうとする客となれば、大方余生を過ごすお金持ちの好事家であることを、彼は長い経験から学んでいました。

 久々に大きな儲けがあるかもしれない……頭の中でそんな皮算用を浮かべながら手櫛で寝ぐせを整え、無精髭に似合わない精一杯の笑顔を貼り付けて、トレムマンはお店に続くドアを開け――



「……なんだよ、いつかの猿真似ロボットか」



 その顔を一瞬でゆがめました。



「先日はお世話になりました」

「あー、大道芸が受けたかよ。結構結構」



 そう吐き捨てるなり慌てて起きて損したと言わんばかりに、トレムマンはさっさと半身をひるがえし、昼寝の続きに戻ろうとします。



「ご主人がレジにいらっしゃらないと、買い物ができません」

「うるせえなあ。俺は忙しいんだよ」



 ドアに手を掛ける背中を呼び止められ、面倒くさそうに振り返ったトレムマンは受け答えの終わりにわざと大あくびを浮かべ、浮かんでもいない目端の涙を擦るそぶりを添えました。



「何かご用事が?」



 しかしそんなあからさまな嘘にも一向に動じないエクスに、トレムマンが小さく舌を打ちます。


 

「てめえには関係ねえだろ」

「来客を追い返すほど大切な用事とは、一体どういったものなのですか」

「……買ってきたコーヒーを飲みながらLPの33回転を延々眺めるってだーいじな用だ」



 まあ、コーヒーは今から買いに行くんだけどよ。文言と声色にあからさまな悪意を込めて、トレムマンは口の端を歪めて笑いました。



「分かったらとっとと――」


 

 しかしそれでも、エクスは表情ひとつ――それこそ、アイカメラのシャッターひとつ――動かさずに、淡々と返します。




「周囲の地図情報を検索。現在地より半径200メートル以内のコーヒーショップはいずれも混雑しています」

「なら尚の事さっさと並ばねえと――」

「混雑状況は以降解消される傾向にあると予測されます。商取引を終えてから向かっても所要時間は変わらないでしょう。でしたらこのような問答を続けるより、互いに目的を果たした方が短時間かつ有意義かと存じます」



 エクスは嘘を看破するのではなく、あえて機械的にトレムマンの逃げ道を塞ぐと同時に自らに引き下がる意志がない事を主張しました。正論を突き付けられてぐっと喉を詰まらせたトレムマンがいくら睨みつけようが、凄みをきかせようが、たじろぎ一つ見せずにレジの前から動かないエクスの態度に、一文字に塞がっていたその口がやがて大きな苛立ちを込めたため息によって開きました。



「ったく面倒臭ぇ……で、ロボット様は何をご所望で?」

「ありがとうございます。では、こちらの本を」



 それまでじっとトレムマンを見つめ返すだけだったエクスはそこで初めて柔らかな笑顔を浮かべて礼を述べ、一枚のメモ書きを差し出します。

 表紙のデザインまで記載されている通販ページをタブレットに表示させて見せなかったのは、彼の古風な性格を鑑みたスィードが、手書きの方が印象を損ねるリスクが低く、また話が早いとエクスへ助言したからでした。



「『登竜門への道Grundlage einer Ehrenpforte』だ?……こんな古くて殆ど誰も読まねえようなもん、デジタルデータにもなっていねえぞ。そもそも楽典じゃねえ」

「演奏するにあたって、この曲がどういった経緯で作られたのかや、作曲した方の背景を理解しておきたいと思いまして。先日テンデットさんに教えて頂きました」




 受け取ったメモを読み上げ、さっきとは違った意味合いで眉を顰めるトレムマンに、エクスは戸惑い一つなく答えます。しかしそれを聞いて今までどこか調子を外されていたトレムマンが勢いを取り戻すように鼻で笑い飛ばしました。



「んな事しなくたって、いつでも一流の演奏を再生できんだろうが」



 そのまま彼の頼みを無下にしようと息まくトレムマン。しかしここに来るまでにスィード、そしてテンデットと共に彼の反論のパターンを予期し尽くしていたエクスにはまるで効果がありませんでした。



「先日購入したディスクのデータの事でしたら、既に消去しています」

「……は?」



 エクスにとってはただ用意していた返答を口にしただけでしたが、その言葉の意味が解らないトレムマンの表情が一瞬にして固まり、閉じ切らない口から間抜けな声が漏れました。



「お望みでしたら、記憶領域の開示も致しますが」



 結果としてエクスが手近なモニターに自分の頭の中を映し出すことなく、トレムマンはその主張を信じていました。

 機械が行う事としてはあまりに合理的でなく、にもかかわらず確たる目的を持っており、しかしその結果にさしたる目新しさも、まして演奏の完璧さも求めていない。

 エクスの言動に見え隠れするそんなが、その主張に真実味を帯びさせていました。



「……どうやらただの猿真似をするつもりじゃあ、ねえみたいだな。だけど肝心の楽器がねえだろが」



 重い足取りで棚を探って戻って来たトレムマンが、不承不承に写本を袋に包みながら漏らします。トーンの低まったその声は軽薄さを薄れさせてはいましたが、それでも未だに消えない侮蔑が、彼の内心に段々と渦巻き始めている予感を必死に否定している事を表していました。  



「生憎だが、俺は楽器まで売る気は――」

「心配には及びません」



 意固地なその言葉を遮り身を屈めたエクスは、レジカウンターの向こうに立つトレムマンにとって死角となっていた足下からケースを持ち上げ、ラッチを持ち上げます。

 そして中から現れた、すっかり傷の消えたヴァイオリンと反りの直された弓を目にしたトレムマンの目が、一瞬大きく見開かれました。



「……ふん、どっかから手に入れてきたってか。さてはテンデットのお古か?」



 泳ぐ目のままどうにか平静を取り繕い、現れたヴァイオリンの最も可能性が高い――同時に、自分にとって最も望ましい――出自を推測するトレムマンでしたが、エクスは自信を込めた大仰さで首を振り、ケースの中から取り出して裏返しました。



「こいつは――」



 四つの糸巻きペグのさらに上、スクロールと呼ばれる渦巻いた部分に一か所だけ残された、見覚えのある稲妻型の傷を見たトレムマンは、自分の推論が全く間違っていたことを悟り、しばらく言葉を失いました。

 


「……直したってのか、自分で」

「ええ、初めて手にした自分の楽器ですから、も沸きますよ」



 仮に修理を専門の業者に頼んだとしたら、裏側とはいえ決して目立たないとは言えない部分の傷を残す筈がありません。それ以前に修理を受け付けず、入門用の安価なモノでだから新品を買う方が安価だと勧めすらするでしょう。

 そんな、またしても効率をまるで無視したエクスの行動に、トレムマンはもはや単なる人の真似事では到底醸し出せない、執念のようなものを感じ取っていました。



「今週末、中央広場でテンデットさんと小さなアンサンブルコンサートを開催します。是非、いらして下さいね」

「あ、ああ……」



 その凄みに気圧され、続けた勧誘に釣られるまま頷くトレムマンを見て、スィードの無念をある程度晴らしたと確信を得て目を細めたエクスは、そのまま支払いを終えて一礼し、しゃんと背を伸ばした優雅な足取りで店を後にして行きました。

                  





 ※     ※     ※



「なんだってんだよ……あいつは」



 ドアが閉まり、再び静寂を取り戻した店内でしばらく放心していたトレムマンが、ぽつりと呟きます。ある種の圧といえるものから解放されて椅子へ座り込むその額には、一筋の脂汗が浮かんでいました。

 物腰こそ柔らかかったものの、あのロボットは明らかに自分へと反骨心を顕わしていた。トレムマンにとって未熟や不足を指摘された者が、あげつらった自分を見返す為に再び姿を現したようにしか見えませんでした。

 機械やシステムには無用の長物であるそれは、まるで――



「今週末……」



 トレムマンは小さく呟きます。今頭を過ったものが奴に本当に宿っているのか。それを確かめる為に休日を潰すのも悪くない。かもしれない。



「今週末、ね……」



 トレムマンは小さく繰り返します。そのうちいつしか断ればどうなるかという怖れ以外に、エクスがどんな演奏を見せるのかという興味が彼の中を満たしていきました。

 

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