ACT6「エクスと演奏家のテンデット」

「ウィル博士、か……是非一度お話を伺ってみたかったなあ」



 喫茶店『エルシオールカフェ』の右最奥、喫煙スペースの一角。話を終えて押し黙ったエクスの向かいで、テンデットは四杯目のコーヒーを空にして、深く息を吐きました。

 カップをソーサーに置く、かちゃんという音が場を締め、それから何を切り出す訳でもないテンデットから視線を外したエクスが半身を捻って後ろの窓から外を見やると、街は気が付かないうちに降り出した強い雨脚に煙っています。

 エクスは時間が掛からない様に要点だけをかいつまみ、時には大胆に省略して身の上を話していました。しかし事ある毎にテンデットが――主にその体に宿る技術に関しての――質問を挟んできたせいで、店に入ってから既に3時間余りが経っています。

 始めはASHと一緒に入って来たテンデットに物珍しげな視線を投げかけていた周囲のお客さんもすっかり入れ替わり、もはや昼過ぎというより夕方の入り口と言って差し支えない時刻になっていました。




「もうこんな時間か」



 ややあって周囲を見回し、入れ替わったお客さんすらも既に自分たちに関心を払っていない事に気付いたテンデットが呟きました。やっと時間の経過を実感したのか、左手に巻いているクラシカルな腕時計に目を落とし、逆の手でテーブルに備え付けられた注文用のガラス製タブレットを引き寄せます。



「ここのチーズケーキ、チェーンにしてはなかなかいけるんだ。エクス君もどう?」



 片手で収まる、枠以外の全てが透明な板の表面を何度か指で擦り、スイーツのページにあるケーキの一つを拡大して目の前へと突き出てくるテンデットに、エクスはかぶりを振りました。



「有機物経口変換システムを用いずとも、現状バッテリーの残駆動時間はおよそ34時間――」

「そういうのじゃないんだって」



 エクスの言葉を遮って、テンデットが笑います。



「別に俺だって、今食わなきゃ餓死するって訳じゃないさ」



 彼の言う事の意味が解らないエクスは首を傾げます。ヴァージョンアップを終えて再起動してから4日の間に経験した物事で、エクスは僅かずつですが確実に人に近い情緒を覚え、また浮かべるようになっていました。しかし唯一センサーとして一度も機能しなかった『味覚』だけは実感としてエクスの中に存在しておらず、人が何かを食べる事の意味を単なるエネルギーの補給以上に捉えられていなかったのです。



「心を動かすのは音楽や映画だけじゃないって事。5感検知システムを積み込んでるなら、ここのケーキとコーヒーの食べ合わせを試さないのは損ってもんだよ」

「ですが――」

「ま、いいからいいから」


 先日のお返しとばかりに半ば強引にエクスの反論を封じ込めるテンデット。結局5分ほど経った後、二人を挟む小さな円形のテーブルには二人分のケーキとコーヒーが並んでいました。




「丁度、これくらいの時間がいいのさ。一口食べて、後味が消えないうちにコーヒーを啜って目を閉じるんだ」

「それは、味覚を先鋭化させる為ですか?」

「それだけじゃないんだな。ま、百聞は一見に如かずってね」



 得意気なテンデットに促され、エクスは言われた通りにフォークで三角形の頂点を削り、淡い黄色の欠片を口へと運びます。



「――!」



 途端に口の中を支配した、僅かな酸味に後押しされる優しく濃厚な甘さ、鼻に抜けるチーズの豊かな風味。それだけで湧き上がるプラスの欠片手を止めそうになりながら、それでもエクスは律儀にコーヒーを手に取りました。

 テンデットの所作を真似しただけの若干不慣れなその手つきが、香ばしく漂う湯気ごと燻した茶色を口の中に流し込むと、丁寧に深く炒られたコーヒーが持つ角のない苦みが残っていた甘味と香りと混ざり合って、それぞれをただ足し合わせただけでは決してたどり着けない、全く新たな表情を浮かべます。



「それで、目を閉じてみる」



 ニコニコと笑うテンデットの助言がなければ、エクスはすっかりと次のアクションを忘れている所でした。どこか漂うような心地の中ゆっくりと視覚を遮断して、初めてエクスはその意味を知りました。ひとつの感覚を遮断することで単純により口の中を満たす和を感じやすくなる……だけではなく、一緒に澄まされた聴覚は店の中の音を余すところなく拾っていきます。


 沸騰するお湯に踊るポットの蓋。

 ゆっくりと身を回して豆を挽くミル。

 窓を叩く途切れない雨粒。

 パンを色づけるトースターの唸り。

 革靴が床を叩くリズム。

 周囲の人達が立てる、決して音の大きさを主張しない、耳に心地よいざわめき――



「なるほど、事に、意味があるのですね」

「なんか、いいだろ?」

「……ええ、今はそれが、最も適切な表現に思えます」



 カップを置いて静かに目を開いたエクスが呟き、テンデットは大きく頷いてまた笑いました。一切れのケーキとコーヒー、そしてお店そのもの。たったそれだけでまるで小さく完成された一つの世界を作り終えたような感慨。エクスは経験の少なさから、テンデットは生まれ持った感覚的な表現を好む心から、そんな枠にはまった形容を口にしない二人。ですが、それは確かに心を一にした瞬間でした。



「それが分かれば完璧だ。博士に言ってあげたいよ。貴方の研究は確かに実を結んだって」

「ありがとうございます……ですが、彼はそうは思わなかったようです」


 

 全てを肯定するテンデットにお礼を述べたエクスはふと、こうして相対しながらも正反対に口の端を歪ませた楽器屋の店主の顔を思い出し、手元のカップの中へと広がる暗色に目線落として空しく自嘲しました。



「トレムマンさんねぇ……」



 意図せずトピックを戻したことで沈むエクスの心中を察して、テンデットも緩んだ顔を難しい物へと変えます。



「私は何故、彼の気分をあそこまで害してしまったのでしょう」



 同じものを飲んでいるはずなのに、ぽつりと呟いてからエクスが口に含んだコーヒーは、その味覚にさっきよりも強い苦みを伝えてきました。



「店構えと一緒で、昔気質な人なんだよ……でも、彼の気持ちも少しわかる」

 


 予期しないところで相手の肩を持たれ、エクスは反射的にコーヒーから視線を上げます。水平に戻した視線の先には今まで惜しみない賞賛を送っていた技術者ではなく、真摯に音楽に向き合ってきた一人の奏者の顔をしたテンデットが、じっとエクスを見つめ返していました。 



「君は音源と演奏会の映像を見て、所作を真似ただけだろ?それじゃあどんな完璧に弾きこなした所でにはならない」



 まさに演奏者と再生機器プレーヤー違いだね、と続けてテンデットはわざと軽快な笑いを浮かべますが、エクスはそんな掛詞に反応する余裕も失い、突き付けられた答えにただ愕然とするばかり。



「……君自身も弾き終わった後納得がいかなかったんじゃないか?」



 慌てて咳を一つ払い、口調に真剣味を戻して尋ねるテンデット。かいつまんで話したせいで省略したはずの部分をまるで見ていたかのように言い当てられ、エクスの目が見開かれていきます。



「やっぱりね……ただでさえ技術の進歩に置いてかれ気味なんだ。彼にとっては機械が模倣に上辺を塗って人間の振りをしたようにしか見えなかったんだろう。それじゃあ心を動かせるはずもない」

「では、どうすれば」



 間髪を入れずに救いを求めるエクスに、テンデットは落ち着きを求めるように微温待ってきたコーヒーをゆっくりと啜ってから、ぴんと人差し指を立てました。



「簡単な事さ。まず君の中から演奏会の映像も、音源のデータも消す」

「それでは、演奏が出来なくなってしまいます」



 抗弁を立てるエクスの反応も織り込み済みだと言わんばかりに、テンデットはあっさり「だろうね」と返して指を下ろします。そんな彼の本意が解わないエクスはただ黙り込んで、言葉の続きを待ちました。



「いいかい?そこからもう一度、今度は誰の演奏も取り込まないでただ修練を重ねるんだ。時間は掛かるかもしれないけど、それが君をただのロボットじゃないと分からせるただひとつの手段だと思うよ」



 機械特有の技能を用いず、敢えて人と同じプロセスを踏んだ上で演奏を身に付ける。その姿勢自体が、トレムマンの心を動かす為の唯一の鍵となる――。そこまで聞いてやっとエクスはトレムマンの指し示す意図が理解できました。

 しかし反論こそないものの、エクスの曇った顔は一向に晴れません。僅かな沈黙を挟んだ後、更なる疑問をトレムマンへと投げかけました。



「あのレベルの演奏が可能になる程熟達するには、どれ程の時間が――」

「ん?そんなの目指さなくていいんだよ」



 またしても事もなげに軽く言い放つテンデットに言葉を遮られ、エクスは暫くの間、開いた口を閉じる事が出来ず、呆気に取られていました。そんな彼にテンデットはまるで小さな子に言い聞かせるような穏やかさで続けます。 



「……音を外しても、リズムが走っても、ヴィブが上手く掛からくてもいい。不器用でへったくそな演奏でいいんだ。それこそが、君だけが奏でた音であるという何よりの証明なんだからさ」

「それが、彼の態度を変える……?」

「出来るさ。君が本当に心を持っているなら、それを演奏に込める事も、伝える事も出来る。そんな不思議な力を持っているんだ、音楽ってのは」



 その行為が本当にトレムマンの心を動かすことが出来るのか、その疑念は未だに拭いきれないままです。しかし自分に心があるという事だけは確かな思いを持っているエクスが、たどたどしい仕草ながらも一度大きく頷くと、テンデットもよし、と満足そうに首を縦に振りました。



「……とはいえまるきり独力ってのも心細いよね」

「はい」


 

 正直に答えるエクスの手を笑いながら取り、テンデットは上に向けたその掌へと自分の携帯端末を乗せて、自分のアドレスデータを転送してゆきます。



「これ、僕の連絡先。何か協力できることがあったらいつでも連絡くれよ」






 ※     ※     ※






「やばいな。急がないと弟にどやされる……あいつ飯の時間にはうるさいからなあ」

 


 会計を終えてエクスより一歩先に外へと出たテンデットは、冷え込む夕暮れの風に急いでコートを着込み、ぼやきながら傘を広げました。



「ありがとうございます。おかげで行動の指針が定まりました」

「礼を言うのはこちらの方さ。人と話してこんなに楽しかったのは、久しぶりだ」



 そう言って笑うテンデットの姿を見て、心の中にじわりと広がる温もりを覚えたエクスはもう一度深く頭を下げます。ですが自分がエクスを人と呼んだことに気付かない張本人にとっては、そんな反応の意味が解らずただ曖昧な笑みを返すばかり。それ程までに彼の言葉は無意識のうちから出ており、同時に紛れもない本意でした。



「じゃあ、いつかセッション出来る日を楽しみにしているよ」

「ええ、なるべく早くその日が訪れる様、努力します」

「はは。次までには、その硬い口調もなんとかしてね」



 別れの言葉と握手を交わして踵を返し、エクスは住宅街へと歩いていくテンデットの背中を見送ります。しかし、彼はぴったり3歩歩いたところで何かを思い出したように足を止め、再びエクスの方へと向き直りました。



「そうだ。一つだけ聞き忘れていたんだけど――」








 続いたテンデットの問いに答えることが出来ず、エクスは新たに一つ、大きな疑問を抱いたまま研究所へ帰ることとなりました。

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