ACT4「エクスと楽器屋のトレムマン(前編)」

 重い真鍮で出来た研究所のドアノブが静かに傾き、それを合図としてスリープ状態であったスィードの意識が引き戻され、部屋に明かりが灯ります。



「お帰りなさい、エクス……おや」



 開いたドアから現れたエクスは、右手に長方形の古びたケースを下げていました。プラスチックでできた表面の安っぽい光沢が、次々と部屋に灯るコンピューターの再駆動開始リブートを示す無数のランプを照り返します。

 その中身に興味を示したスィードの呼び掛けにも声を返さないまま、エクスは椅子へと腰掛け、ケースを床に置きました。

 自重に沈み込むシートのたわみを合図として、再びエクスの体に無数のコードが伸びていきます。それは外で得た学習の情報をターミナルコンピューター、すなわちスィードへと同期する処理が開始される合図です。部屋には更に多くのランプが光り、まるで来月に迫った生誕祭のイルミネーションを先取りするような赤と緑の光が、静まり返る部屋と対照的に騒がしさを増していきました。



「……あまり、良い出会いはなかったみたいですね」



 否応なしに流れ込んでくる学習情報を分析しながら発せられた、スィードの責める訳でも慰める訳でもない静かな口調に、エクスは力なく首を振ります。



「街は色々な感情が溢れていて、確かに楽しかった……私が上手な交流をこなせなかっただけです」

「それは、持って帰って来たそのケースと関係がありますか?」



 返答の代わりにケースに手を伸ばし膝の上に置いて、静かに二つのラッチ取っ手を持ち上げるエクスの前に飛んできたスィードの遠隔ユニットが、開かれる蓋へとカメラを向けました。



「これは……」



 錆び付いたヒンジが立てる耳障りな摩擦音といっしょに中から顔を覗かせたのは、一目で使い古しとわかるぼろぼろのヴァイオリンでした。

 表面はあちらこちらに傷や抉れが刻まれ、劣化を防ぐ為に満遍なく塗られているはずのニスは剥がれたというよりも、まだ付着している所を探す方が難しい有様です。

 2つのf字孔の中央に直立してなければならない駒はスィードが真横にカメラを向けずとも傾いていることが見て取れ、更に錆び付いたスチールの弦は伸びきっているだけでなく、そのうち2本は糸巻きペグとエンドピンを繋げることなく、切れた先端がめいめい外へと飛び出しています。



「博士の口座にはまだ、新品の楽器を買うことが出来るくらいの残高があったはずですが……」

「いいえ、これしか売ってもらえなかったのです。私の対応が悪かった所為で」



 呟きながらエクスは、楽器というよりただのガラクタと表現した方が相応しいヴァイオリンの成れの果てを手に取り、ペグを巻いて残っている2本の弦にどうにか緊張を戻すと、これまた碌に手入れも行われていない、反りきった弓を構えます。



「なかなか様になっているではありませんか」



 顎を乗せたその姿勢だけは、熟練の奏者に引けを取らない風格を醸し出すエクスに、スィードは感嘆の声を送りますが、エクスの心は何ら波立ちません。



「……映像を解析しただけです」



 エクスは両の目をケースへと向けます。空となったはずの底には、二枚のディスクが透明のケースへ収められ、裏面が天井の光を反射していました。放射状にプリズムの輝きを放つそれぞれのディスクをカメラ映し、しばしの合間の後に分析を終えた向けたスィードがふむ、と一拍を置きます。



「演奏会の模様を収めた映像ディスクと、こちらは単なる音源ですね。同じ曲目が収録されているようですが」

「私でなくとも、ASHレベルの機能を有していれば、どんなヒューマノイドだって再現可能ですよ」



 吐き捨てるような口調と共に、エクスが構えた弓を引くと、部屋中に先ほどのヒンジの音を何倍にも膨らませたような、不快な音が響き渡りました。



「――っ!」



 エクスが持ち帰った膨大なデータの分岐と同期にリソースの多くを割いていたスィードは、瞬時に音声入力を切ることが出来ず、代わりに声にならない悲鳴を上げます



「……私に手があれば、と思ったのはこれで二度目です」



 ヴァイオリンから顎を外したエクスへとスィードは皮肉を送ります。その苦々しい口調に力なく笑いを返しながら、エクスは得た経験を自身でも振り替える為、静かに瞼を下ろしました。






※     ※     ※






「……はあ?お前さんが?」



 あれから3度も同じ演奏をせがみ、辟易しきった男性が逃げるように楽器屋を去った後、エクスは自分を無視するようにそそくさと蓄音機を片付ける店主に向かって声を掛けました。



「ご主人様の前で披露したいってか」

「いいえ、私は私の意志で、この音を鳴らしてみたいと思っています」

「んだよそりゃ……気味の悪い」



 自分の後を追って店の中に入って来るエクスの迷い無い言葉に、店主は顔をしかめて眉を顰めます。

 それは敢えて設えた、店の中をうす暗く照らす電球式照明と同じ。古き良き音楽を愛する彼が抱く、単なる機械嫌いな性格を差し引いたとしても無理のない事でした。

 昼間の夫婦がそうであったように、完全自律型のASHはまだ正式に世に受け入れられているわけではありません。そして、いまだ学習の途上であるエクスの言動はぎこちなく、まるで古い映画に出てくるような、精一杯人間のふりをしているロボットにしか映りません。

 そんなエクスが人間固有の性分である――と、信じて疑わない――芸術を理解する心を真似ようとしている。本当の心を持つという事実を知らない店主にとって、いわばその歪さが虫の居所をことさらに悪くしていました。



「だったらそこにあんので充分だろ。もう締めたいからさっさとしてくれねえかな」



 店主はぞんざいな口調と伸ばした指先で、レジスターの横にある棚を指します。そこにはエクスやスィードでも読みだしが出来る。光学式のディスクが隙間なく詰め込まれていました。一枚一枚を手に取り、裏側の光沢を読み取りながら、やがてエクスは二枚のディスクに目星を付け、横座りでコーヒーを啜る店主へと持っていきました。



「ふん……所有者の許可は下りているみたいだな」



 決済機に手を置くエクスを睨み上げる店主。信用情報を読み取ったリーダーが浮かべる光を赤から緑へと変えた途端にエクスは手を離し、面倒くさそうに会計を終えようとする彼の前へと向けます。



「……あんだよ」

「楽器も購入したいのですが」



 店主は聞こえよがしに舌を打ちます。同時に歪めたその表情から、舌打ちという行為が敵意のあらわれであると分析はできても、エクスは何故店主がそれほどまでに気分を害しているかまでは分かりませんでした。

 そのまま再び無視を決め込みケースを突き返そうとする店主を見て、エクスは先ほどと変わらない口調で望みを繰り返そうとしました。



「楽器も――」

「うっせえな聞こえているよ」



 再びの催促に苛立ちを込めて椅子を鳴らし、荒々しく立ち上がった店主はショウケースに飾られている新品のヴァイオリンを手に取ります。



「お手数おかけします」



 戻ってくる店主へと一礼し、再びエクスは支払いを行うべく決済機へ手を伸ばしました。



「同一のアカウントで――」

「早合点すんな。まだこいつを売るって決めたわけじゃねえよ」



 制止するその言葉とは裏腹に手に持ったヴァイオリンを突き出してくる店主の意図が分からず、エクスは首を傾げます。その仕草は自分が再度の演奏を迫った時に男性が浮かべたアクションを寸分の狂いもなく再現していました。再び店主の舌打ちが店に響きます。



「弾いてみろ。そいつを分析すりゃすぐに名人様だろうが」



 店主はいまだ包装もされていないディスクの一枚を指さします。言われた通りにエクスは光沢を両目の前に置き、カメラでその光沢を分析し終えた後、ヴァイオリンを顎へと乗せ、弓を手に取りました。

 その一挙手一投足を観察する店主の眼には、どこか勝ち誇ったような色が浮かんでいますが、エクスはそれに気づきません。そんなことよりも自分が受けたあの感情の動きを、今度は自分の手で再現できるという確信に、その心は確かな高揚に包まれていました。

 事実、音を奏でだしたエクスは先ほど男性の動きを真似た時と同じように、正確に音階をなぞっていきます。

 しかし――。






「やっぱりな」



 演奏を終え、高揚が落胆と疑念に変わって再び首を傾げるエクスへと、賞賛ではなくたっぷりの侮蔑を込めた店主の声が向けられます。



「どうして」



 二枚のディスクを完全に分析し、ただの一度のミスもなく演奏を終えたその技量は、自分に感動を運んできた男性のそれを確かに上回っていました。ですが、薄い笑みを浮かべる店主はもちろん、エクス本人の心にも何一つ湧き上がってくるものがありません。

 その理由も分からず呆然と呟くエクスの手からさっさと楽器を取り上げた店主は、その代わりと言わんばかりににレジの片隅に積み上げられたジャンクへと手を伸ばします。



「それが分からないお前には、こいつで充分だ。こっちも捨てる手間が省けて助かるぜ」



 エクスの内へと渦巻く疑問に答える事も無く、ただ想いを軽んじるように鼻を鳴らしながら、店主は処分する予定だったヴァイオリンの成れの果てをケースに詰め、ディスク一緒に強引に押し付けました。



「精々ディスクで音源流して、そいつで弾き真似でもしてればいいさ」

「違います!私は――」

「あぁ、もしかしたら小銭くらい恵まれるかもねぇぜ?間抜けな大道芸ロボットとしてだがよ……毎度あり」


 

 声を荒げるエクスの心情を慮ることもなくそう言い放った店主は、それきり一言も喋ることなくエクスを店の外へと追い出し、最後に厭らしく上げた口角を見せつけてシャッターへと手を掛けます。

 勢いよく地面とぶつかって鳴った、ぴしゃりという拒絶の音。突き付けられた交流を拒む壁の前には失意に沈むエクスと、垂れた腕に下がるヴァイオリン。そして二枚のディスクだけが取り残されていました。

 陽がすっかりと沈み闇を深くし始めた通りでは、家路を急ぐ人たちがエクスの横を通り過ぎていきます。

 そんな彼らから時折向けられる奇異の目がまた、心にマイナスの欠片をしんしんと降り積もらせていきました。



「わからない……」



 再び傾きを戻した心の天秤が、俯くその口を独りでに動かします。

 エクスのからだはいつまでも、シャッターの降りた店の前に立ち尽くしていました。

 

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