ACT3「エクスと弓弦のゆさぶり」


 「袋に入れなくて平気?」

 「大丈夫。今日は雨が降らない日だから」



 「そんなに急がなくても……」

 「何言ってるの!次の便逃したら、今日中にこっち帰れないじゃない!」 


 

 次の日、エクスは賑わう昼下がりの街中を歩いていました。左右の側頭部にそれぞれ着いたセンサーが、仕事を終えて自由な時間を過ごす生き生きとした人々の声を方々から拾ってきます。その中に込められた感情を解析し終える度、几帳面に声の主へと視界を動かすエクスは、まるで初めて違う国が治めるドームに降り立った旅行者のようでした。


 

 「これ旧星のクラシックLPじゃあないか?」

 「うわっ、圧縮されてないんだろこれ?……超レアじゃん?」



 「お買い得だよー。カルチュア培養でもアーティフィシャル人工でもない、本物の牛挽肉だよー!」

 「たまには食べたいけど……まだ高いな」



 まるで天気と連動しているみたいだ――。周囲360度に絶え間なく生まれてくる、様々な楽しいという感情の真ん中に立ちながら、エクスは頭部を上へと向けました。

 レンズ一杯に映る空は昨日と打って変わって、雲一つない快晴に設定されています。本来必要のない、しかし暮らす人々の為に天候を変えるの機能を備えた、最新型の空中設置型完全環境都市エアルコロジーは透明の有害物質遮断幕アトモスクリーンに覆われ、その向こうでは太陽が群青色の中央で輝きを放ち、時折空中に舞う塵にその光が反射して、きらきらと輝いています。

 ……不完全とはいえ、蒸着が間に合って良かった。エクスは艶消しの薄灰色となった自分の上腕をさすって、弾力のある手触りを確かめます。

 可視・不可視の別なく、アトモスクリーンは人にとって有害な光線、および塵を完全に遮りますが、光の強さそのものまでは旧星と同じレベルまで透過してしまいます。もし金属のボディが剥き出しになっていた昨日までのエクスが街を行けば、もしかしたら太陽光の照り返しが道行く人の顔を曇らせていたかもしれません。

 そうなればあるいは誰かに、外を歩くことを咎められていたかもしれない。皮膚の蒸着を担ってくれたスィードへの感謝を思い浮かべながら、エクスは更に目抜き通りを歩いていきます。


 「珍しい、ASHが一人で歩いてる、しかもプレーンスキン?」

 「本当だ。目的設定もないし……でも完全自律型が出来たなんて話、知らないけどなあ?」


 すれ違った夫婦がしげしげと眺めて不思議そうに上げる声へと、エクスは自動的に向き合い一礼を返します。そんなASH本来のプログラムとは別の場所で、また新たな感情が生まれていました。

 それは博士を見知らぬ人間がその功績を言葉の外で讃えるという事が意味する、彼の偉大さへの誇りと喜び。昨日までに澱のように溜まっていたマイナス感情の断片フラグメンテーションが、また一つ消えていきます。

 そうして心のプラスとマイナスが天秤の傾きを緩やかにしていく度、向上するパフォーマンスがエクスの感知の範囲を広げると同時に分析の速度を速め、結果として歩く速度も徐々に上がっていきました。

 ――そうか、これが『足取りが軽くなる』という気分なのかな。エクスはそんな慣用句をライブラリーから参照しながら、自分の内にある心の確かさを強めていきました。






 ※      ※      ※ 






「明日、街に?」

 粘り気のある真っ白な液体にその身を沈めながら、エクスは背中に繋がれたケーブルを通して、蒸着槽を制御するスィードへと問いを返しました。



「はい。先程も言いましたが、不慮のアクシデント……によるバックアップの消失は貴方にとって大きな損失です。とはいえ過去のヴァージョンまでに……蓄積された交感データの復旧が望めない……以上、貴方には新たな……いわばを積む必要がある。物事は早い方がいい」



 槽の制御にメモリを多く割いているせいか、時折音声が途切れるスィードの声は、まるで作業に集中する繊細さを表現しているようです。



「スィード、外界との接触は貴方との交流を図ってから漸次的に進める方がよりスムーズではありませんか」



 しかしそんな語調が論理の正当性とは裏腹に、エクスへ否定の言葉を再生させてしまいます。彼の中へと生まれた感情が何であるか。意図的に有線接続での相互同期を切っていても、スィードはそれをすぐに理解していました。



「確かに……ターミナルである私がこの……システムを搭載する根拠の一つに、貴方……との交流で相互にデータを取得、精査する……ことという記述があります」

「それなら」

「ああ、身体を動かさないで」



 期待を込めた声に素早く被せられたスィードの静かな一喝。エクスは一緒に起こしかけた上半身ごと急制動を掛られたように、続きの言葉を声帯の奥へ収めました。これから四半日も経てば人の肌と変わらない柔らかさや温もりを宿す精製液も、今はまだその形を定められていません。停止したボディ一拍遅れて騒ぎ出すその水面が槽の淵から溢れ、床を濡らします。



「必要なのは……量だけではありません。私とだけ……交流を図っていては、取得できるデータに偏差が……生まれてしまう。様々な属性、思考、主義の上に成り立つ無数の心との交流こそが、貴方の心……を洗練させるのですから」

「では、あの遠隔ユニットを使って貴方も」



 そんなエクスにとって最大限の譲歩も、頚椎部のケーブルを通して伝わったスィードのいいえ、という声が無情に却下します。



「申し訳ありませんが、ASHと異なりこのユニットは博士によるワンオフプロダクト単一生産ですから、当然街中に充電設備が存在しないのです。絶えず移動する貴方を追いかけていては、バッテリーが3時間と持ちません」



 慎重を期せばならない段階を終えたのか、エクスに伝わる声に滑らかさが戻っていきます。それは誰の意図でもありませんでしたが、言葉の合間に挟まる沈黙が消えたスィードの口調は、そこに宿る意志の固さを強調しているように聞こえました。



「貴方の提案を聞いてから、私の判断シークエンスに極端な不確定性が生じています」

「不安、と言いたいのですね。街中においては、システムログに類する表現は控えた方が良いですよ」



 どうやらスィードの中では明日、エクスが一人で街へと繰り出すことは決定事項となっているようです。聞き返さずともそう判断し長い沈黙を続けるエクスの様子は、少なくとも前向きに明日の予定を組んでいるようには見えません。



「……精製液の使用量が予測を上回りました。これでは表皮部の精製には不足してしまいますね」



 エクスを補佐する為に存在するスィードのOSも、未だフィードバックを通してより洗練される余地と義務があります。その為にはエクスが外の人間との交流データを効率的に持ち帰れるように尽力する必要がある。

 そこで彼は初めて、うそを吐きました。



「それは、何を意味しますか?」

「防水、防塵、耐衝撃その他の保護は問題なく機能しますが、個性の演出を行うことが出来ません。ASHが所有者の嗜好に合わせて外見をカスタマイズされてから出荷が行われる事は、知っていますね?」

「はい。商品説明に記述があります」

「現在の精製液残量では、その工程が行えないのです。購入時の指定が存在しないケースと同じ、プレーンスキンと呼ばれる全機体同一の外見となります」

「人との交流に、影響は」

「特段の問題はないかと思われます。同モデルの35%は所有者の意思によりプレーンスキンのまま変更されずに稼働しています。多少の希少性は抱かせても不審に思われる事は稀かと。それに」

「それに?」

「万が一、貴方という『個人』が明日、望まざる交流を行い、また強いられたとしても、明後日はその上に任意のパーソナルスキンを被せる事が出来ます。つまり、交流を持つ相手がASHの個体識別番号を全て記憶しているような奇特な人間でもない限り、全くの別人として、48時間後を生きることが出来る、という利点が挙げられます」



 いわば旅の恥は掻き捨て、失敗を無かったことにできるというアンドゥの存在を得て、エクスの思考はようやく前へと進みだしました。



「私達と違って、網膜にスキャナは付いていない、か……。同一性を証明する確認手段は



 エクスは誰に向けるでもなく、先ほどのスィードを見習ってうそを吐きます。

 共通点はそれが悪意のないうそであるということ。

 異なる点を挙げれば、それが自分を騙す為に吐いたうそであるという事でした。

 実際は右部集音マイクのやや下、人で言えば耳の裏に当たる部分には個体識別番号がしっかりと刻まれており、いかなるスキンを被せても物理的に浮き出るような工夫がなされています。

 ASHが予期しない挙動を起こした際、外見に惑わされず当該の個体を素早く判別できるよう法令義務化されたその処置を、エクスはエクスとして目覚める前から書き込まれていた本来のプログラムによって自覚させられていました。

 にも拘らず一人呟いたその詭弁は、不安を抑え付けるための単なるに過ぎない。



「やはり、2.0.0は学習速度の面において非常に優秀ですね」

 ――そんな余計な種明かしをせずに、スィードは素直に称賛を送ります。



「とはいえ、何の必然性もないままアトランダムに話しかける事が円滑な交流を生むケースは稀ですから、まずはその心が赴くままに街を散策することを目的としてはいかがでしょう?」

「行動指針を設定せずに、ということですか?」



 誰かのプログラミングと乱数による街の徘徊ではなく、自発的な決定による『目的を得る事を目的とした』行動。ASHとしてのみならず、人が生み出した機械として初めての試みに言葉を砕いて確認を取るエクスの声は上擦っていましたが、そこには全くの未知に対する躊躇だけではなく、ある種の高揚が見え隠れしていました。



「貴方の心が興味を引かれるものの周囲に存在する人は、貴方と同じくその対象に何らかの関心を抱いている。同一の価値観を共有しているという事は、円滑なコミュニケーションへの確かな一助になりえます」



 確かな収穫を予期したのか、そこから延々と続いたスィードのアドバイスに夜は更け、終わる頃にはエクスのボディへと、すっかり薄灰色の人工皮膚が定着していました。

 







 ※      ※       ※







 とはいえ、ここまで興味をそそられるものが多いという事は、エクスにとっても予想の及ばなかった事態でした。

 今や人との交流など二の次で、自身の五感検知システムが伝えてくる情報の多さにただ戸惑うばかり。目抜き通りを何度も往復しているうちに、太陽が段々と傾いてその色を変えていきます。その微細な変化にすら見上げる度に異なる感情と感想を運ばれるのですから、処理すべきデータの量は感情を持たないOSとは比べ物になりません。

 しかし不思議とそれは、エクスにとって大した負担には思えませんでした。むしろ角を曲がるたび、人いきれを抜けるたび、そんな些細な何かを切っ掛けとして積極的に空を見上げています。太陽がその身を低くして空が暮れ行く程に、エクスの心を苦痛の伴わない圧迫が優しく襲い、まだ名前の知らないプラスの欠片が積もっていきます。



「頼むよ!一度だけでいいから……」

「ったく、しょうがねえなあ」



 そんな夕陽も対に沈み、エクスがバッテリーの残量を気にして足を止めると、そこは目抜き通りの端にぽつんと建つ、一軒の楽器屋の前でした。軒先では若い男性が店主に向かって必死に何かを頼み込んでいます。度重なる懇願に根負けした形で、店主は無精髭を撫でながら一度店の奥へと消えていき、その背中を見送った男性が小さく歓喜の声を上げています。

 


「旧星の、クラシックLP……」



 小さく呟くエクスは昼間、その声を一度記憶していました。LPとは遥か昔、まだ鳥が自由に空を飛んでいた時代から存在する、音声専用の記憶媒体の祖にあたるものです。今でも再生機器と共にごく僅かな数ですがに現存し、根強い愛好家が収集しているという補足までをライブラリーから1秒足らずで引き出したエクスは、湧き上がった疑問に事の成り行きを見守る事にしました。

 LPはその特性上、データの保存性に大きな難点を抱えており、また再生できる環境が限られている――何せ、ウィル博士のラボでも中身を知る事すら出来ません――為、記憶媒体としての価値は低い。それなのにどうしてあの男性はあそこまで店主に頭を下げたのか、エクスにはそれが分かりませんでした。



「早く、早く……」

「うるせえな。一回だけだぞ」



 それから3分程経って奥から戻って来た店主は、その両手でアクリルで出来た蓋に覆われた蓄音機を押してきました。透明な蓋を開けてレコードをセットし、その盤面に彫られた溝の上を針の先端が走る事で音声が流れる。仕組みの情報を引き出したエクスは遠巻きに見つめながら、集音マイクのレベルを上げていきます。


 ――ぽつっ。店主が慎重な手付きで針が落とし、素朴な音と共にスィードの遠隔ユニットとはまた異なるホワイトノイズが暫く静寂を埋め、やがてチェロ・コントラバス・チェンバロによる通奏低音の上に、3本のヴァイオリンの音が重なっていきます。多少の劣化は見られるものの、確かに光学とは質を異とする音そのに、エクスはその心にまた夕日を眺めていた時と同じ甘い圧迫を覚えます。



「これだよ、これ。一度バックにってみたかったんだ」



 男性は歓喜の声と共に、背負ったケースから自前のヴァイオリンを取り出し左肩と顎の間に優しく挟み込むと、弓を構えて弦に押し当てます。

 すると――。






「……トレムマンさん。このASH、アンタのかい?」

「いや、違う……なんだ、こいつ?」





 弓が弦の上を踊り、奏で出される音をマイクが拾う1フレームごとに湧き上がり、雪崩れ込んでいくプラスの欠片フラグメンテーション

 最後の音が止み、エクスがその奔流とも言うべき情報量に失っていた自我を取り戻した時、体は独りでに彼らの前に立っており、両の瞳はじっと男性が手にするヴァイオリンを見つめています。



「もう一度、聴かせていただけませんか?」



 そんな自分を見やる怪訝な瞳に全く躊躇う事無く、エクスは初となる人との交流を始めました。

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