ACT2「エクスと雄弁なスィード」
翌日の昼、エクスは人気のない郊外の墓地に居ました。目の前にある腰部程の高さの墓石にはウィル博士の名前と生きた年月、そして『R.I.P』という3文字だけが刻まれ、霧のように煙る雨がその表面を満遍なく濡らしています。
「埋葬が遅くなって申し訳ありません。博士」
決して言葉を返す事のないモニュメントの前で一人呟くエクスの後ろに、モーターの回る、低い唸りにも似た音が近づいてきました。
「悔やむことはありません、エクス」
音の正体はプロペラを2つ付けた、リンゴ程の大きさの黒い真球。中央に備え付けられたスピーカーから、スィードの声が響きます。
「あなたが目覚めた時点で、博士の腐敗は始まっていた。彼の体は貴方のヴァージョンアップを終えてすぐ、その活動を停止しましたから」
故に蒸着槽のスタンバイはおろか、以前のエクスに蓄積されていたメモリーのバックアップもままならなかった。続くスィードの説明を、エクスはただ黙って聞いています。
「私が物理的に対して干渉できるのは、この遠隔ユニットを通してだけ……死体を運ぶことはもとより、死亡届を提出することもままなりませんでした。責を問われるべきは私でしょう」
「不可抗力です。私も貴方を追求する意図を以って、先の言葉を発したわけではありません」
いくら心と共に先進の学習システムを備えているとはいえ、目覚めたての機械二つのやりとりには、まだぎこちなさが残ります。
「今、私の心には根源も対処法も不明な、マイナスの感情が生まれています。感情を持って目覚めた事による高揚も消えている」
「こちらでも既に、感情波形図の低下を確認しています」
無機質に分析による事実を突き付けるスィード。その対応がまた、エクスの声を低く沈めていきました。
「心は、プラスよりマイナスの事象により大きな補正を掛けるのですね」
誰に充てる訳でもなく呟くエクス。彼の頭脳でもとうに、土の下に収めるまでに博士の死体が痛んでしまったのは仕方のない事であると判断がついています。
ですがそれでも、彼は訊く者もいない謝罪を止める事はしませんでした。
「しかし、私はその中にあっても、ただ粛々と博士をここに連れて来る手順を遂行していた。本当の心を持つ人間でも、同様に行えるでしょうか」
スィードは答えず、ただその遠隔行動ユニットを鉛色の空を緩やかに上下させているだけ。間に流れる長い沈黙を、少しずつ強さを増す雨脚が埋めていきます。
「……失敗だったのでは」
僅か震えるその声を遮る様に流れた小さなホワイトノイズ。それを小さな息継ぎとするように、やがてスィードが静かに語り掛けました。
「エクス。貴方は遺体を発見してすぐ、埋葬の手続きに奔走しました。最効率化された最短時間を以って、博士は安らかな眠りに就くことが出来た」
その声に今まで墓石へとレンズを向けていたエクスの頭部が、肩の上を漂う黒い球体にそのレンズをフォーカスします。
「博士に作られた者の一つとして、私は貴方の一連の行動に、感謝と喜びを覚えていますよ」
それはマイナスの感情にパフォーマンスを低下させた自分へのフォローである。そう判断したエクスは何ら感情を乗せない、平らな音声を返します。
「だからといって、遺体の損傷状態が変わる訳ではありません」
それだけ言葉にしたきり、再び墓石に向き直ろうとするエクス。しかし即座に、その二つを遮るようにその間に割り込んだスィードが訊ねます。
「ならばなぜ、最低限の防水処理だけを施して外に出たのです?関節部のように可動の激しい個所では、あのコーティング剤は5時間と効果を発揮しませんよ」
その問いに、エクスは自身の腕を曲げます。人工皮膚を張り付けていない、上腕と下腕を繋ぐジョイントがむき出しになった肘の内側には、防水加工が剥がれかけている事を示す、不均一な光の照り返しがありました。万が一そこから水が入れば、エクスを形作る物は内外共に深刻なダメージを負ってしまうでしょう。
「幸いにして現時点で浸水の影響は見られませんが、この雨が不具合をもたらす可能性は高かった。遺体の損傷が不可逆な変化ならば、嗅覚のセンサーだけを殺して、皮膚の蒸着処理を優先する。それが論理的な判断だったのではありませんか?」
「それは……」
エクスはそこで、次に発するべき言葉を見失っていました。他の存在に提示された質問に対して『回答を持たない』という答えを返すらも出来ず、ただ黙り込む。それは人を介助するべくして生まれたASHにあるまじき、そして同時に初となる反応でした。
「答えの見つからないその沈黙こそ、貴方に心が宿った証である。私はそう判断します」
はっきりと告げられた肯定にエクスの頭部が上を向くと、映り込んだ厚い雲から止めどなく落ちる雨の雫がレンズを覆い、エクスの映像解析の精度を下げます。
全ての輪郭があいまいになる、外部活動を主として作られたロボットとしては致命的なその様子はしかし、今の感情へと妙な合致を示すような――いうなれば、自分に欠落しているものを埋めているような――光景に映り、エクスは暫く動くことが出来ませんでした。
「ですから、伝えさせてください。私の感謝を」
改めて重ねられた穏やかなスィードの声が、今度ははっきりとエクスの心に変化をもたらします。しかし先ほどのように、スィードは彼の心に対し本人に先回りしそ心の浮き沈みを読むような真似はしませんでした。
「ありがとう」
「礼を言うべき立場なのは私の方です。博士が亡くなったと判明した今、貴方の言動と存在に感謝を感じています」
それが予期していない、あるいは可能性の低い反応だと判断していたのでしょうか、スィードは飛行する軌道にいくぶんか曲線を混ぜた後、その口調を早くします。
「直接的な表現をされると、照れてしまいますね」
「……私には
豊かな感情の表出を次々と見せられたエクスが、ふらふらと動くスィードを自身のカメラで追います。羨望の籠った声はその実、冗談を交わすという高位の交流手段を取っているのですが、彼はその複雑さに気付く様子すらありません。
「単に経験が蓄積されているだけです。私にとってはシステムがダウンサイジングされた分、自由に外を動ける貴方の方が羨ましい」
そんな彼を見ながらスィードの返す自嘲めいた声と共に、備え付けられたカメラとスピーカーの間に、遠隔ユニットのバッテリー残量が低下していることを示す赤色のランプが灯りました。
「そろそろ戻りましょう、エクス。蒸着槽のスタンバイも終わる頃です」
※ ※ ※
「貴方には可能性がある」
研究所に戻り、換気の為に開けていた窓を閉めて回るエクスに向かって、遠隔ユニットをマウントさせてその機能をターミナルに戻したスィードが急に話しかけました。
「可能性?」
自身も椅子に座りバッテリーへの給電を始めながら鸚鵡に返すエクスへ、スィードはわざわざユニットを一瞬飛ばして肯定を表します。
「ええ。システムとしての論理的な判断、演算能力、そして人の心が持つ感性や情緒。対極に当たるその二つを人の社会に不都合なく参画できるボディに宿すことが出来る」
エクスは再び幾条ものケーブルに繋がれた自身の体に目をやります。その一瞬の間にメンテナンスは終了し、重大な異常が発生していないことを示す短い電子音が二回鳴りました。
人間で言えば健康管理に当たるこのシークエンスにも大した時間が掛かる事はなく、日中に失ったエネルギーの充電も、一時間と経たないうちに終わる見込みが出ています。それは食事を摂る時間と大差はなく、更に口に当たる部分から吸収した有機物をエネルギーに変換する技術までも搭載しています。
極めつけには眠る必要がないエクスの体は、なるほどスィードの言う通り人間の生活を遥かに効率化して真似する事など造作もない事でした。
「貴方が越えていくものは、不気味の谷だけではないかもしれません。ですがその為には、様々な経験を積む必要があります。今日1日のデータを分析する限り、感情にとってプラスの経験が圧倒的に不足している」
そこで一度言葉を切ったスィードは再びモニターへと蒸着槽の方向を示す矢印を浮かべ、感慨を込めた声で続けます。
「博士は生前こう仰っていました。『能動的な行動の果てにこそ、感情の素晴らしさがある』と……まずは彼の遺言通り『思うままに生きる』準備を整えましょう」
指し示された方へとエクスが首を回すと、スタンバイの終えた人工皮膚の蒸着槽がその口を開けて、湯気と共に納めるべき主の到来を待っていました。
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