第106話 移り香

 ドリーが謹慎処分をくらい、翌日からは別の召使が寄越されたリリアナは非常にやり難い物を感じていた。当然、相手も突然任された王女の世話役に動揺を隠し切れない様子でいる。

 城に来てからずっとドリーの世話になってばかりいたリリアナは、ただじっと新しい世話係の落ち着かない様子に任せっきりには出来ず、ついできる事は自分で先にやってしまう。

「お、王女様。そ、それは私の仕事でございますから……」

「あ……うん。そうだよね。ごめん、やっちゃった」

 困ったように笑いながら謝りつつも、いかにドリーが自分のことを毎日のように見てくれていたのか。それが今身に染みて分かる。

 新しい世話係が悪いわけではない。彼女なりに一生懸命やってくれているのはわかるのだが、やはり物足りなさを感じて仕方が無かった。

 いつもならもう終わっているはずの着替えも少しだけ時間がかかり、リリアナは召使が夜着を抱えて部屋を後にすると小さくため息をこぼす。

「一ヶ月、こんな調子なんだよね」

 新しい人でも、慣れればなんて事はなくなるのかもしれない。それでも、包み隠すことなく心通わせられる相手としばらく会えなくなってしまうと、どうしても物足りなく感じてしまいがちだ。

「……ううん。ドリーは自分がこうなるって分かってても、マーヴェラの事を優先するようにしてくれたんだ。だからちゃんとマーヴェラとの溝を埋めなきゃね」

 彼女の気持ちを無碍にはできない。

 そう気持ちを切り替えたリリアナは、再びマーヴェラに会うべくレッスンが始まる前のわずかな時間を利用してレルムの部屋へと向かった。

 レルムの自室へ辿り着くと、相変わらず室内では悪戦苦闘している様子が聞き取れる。リリアナはすっと息を吸い、トントン、とドアをノックした。

「……リリアナ様」

「おはようございます。レルムさん」

 リリアナは努めてニッコリ微笑みながら挨拶をすると、レルムは相変わらず申し訳なさそうにこちらを見落ろしてくる。

「傷は、大丈夫ですか?」

「はい。問題ありません。その事で、ドリーが謹慎処分になっちゃいましたけど……」

 少しばかり困ったように微笑み返しながらそう言うと、彼もまたその話を聞いていたようで力なくうなずき返した。

「あの、マーヴェラと会っても大丈夫ですか?」

「……えぇ、それは構いませんが……」

 昨日傷を負わせたばかりなのを気にしてかレルムの返事はどこか歯切れの悪いものだったが、リリアナはそれに構わずそっと部屋の中を覗き込んだ。

 マーヴェラは昨日と同様に器に盛られた料理を全てひっくり返し、床に散らばった食べ物を鼻を近づけて臭いを嗅いでは不快そうに顔を歪め、犬がそうするように手でそれを後ろへと掻きだしている。

「マーヴェラ」

 そんな彼女の後ろから静かに声をかけると、彼女はビクッと体を震わせてこちらを振り返った。そしてそこにいるのがリリアナだと分かると急いでその場から四足で駆け出し、カーテンの後ろに身を隠した。

 リリアナはゆっくりとした歩調でマーヴェラと一定の間隔を保ってしゃがみこむと、彼女に声をかける。

「昨日はごめんね。突然のことでビックリしたよね。でも、あたし、あなたの事苛めたくてあんな事したんじゃないんだ」

「……」

 ひとまず昨日彼女にしてしまった仕打ちを謝罪したリリアナは、ニッコリと笑って静かに声をかけた。

「あたし、あなたと友達になりたい。いきなりは難しいかもしれないけど、仲良くしたいと思ってる」

 リリアナは、自分はマーヴェラの敵ではないと言う事を示すために、そっと手を伸ばしてみる。するとマーヴェラはカーテンの傍からわずかに顔を覗かせるも、近くに寄ってくることはしなかった。

「リリアナ様……」

 背後から近づいてきたレルムに、リリアナはふと気付いて彼を見上げる。

 そう言えばなぜ、マーヴェラはレルムにすぐに懐いたのだろう……? まるで他の人には懐かないと言うのに、レルムには初対面から懐いていた。ふとそれが気になったのだ。

「そう言えば、マーヴェラはどうして他の人には全然懐かないのに、レルムさんにはすぐに懐いたんですか?」

「……どうしてでしょうか。もちろん最初からいきなり彼女が懐いてきたわけではありませんでしたが、そう言われれば最終的にはすんなりいきましたね」

 不思議そうに首をかしげるレルムに、リリアナは眉を寄せて彼を見上げた。

「この人には逆らえないみたいな、目には見えない威厳を感じたとか……」

「それは、どうでしょうか……」

 困ったように笑うレルムに、リリアナは小難しい顔を浮かべて考え込んだ。

 他の人にはなくて、レルムにはあるもの。レルムにだけ懐く理由……。

 じっと考え込んでしまったリリアナに、レルムはそっと肩に手を置いてくる。

「リリアナ様。マーヴェラの事で時間を割いてくださりとても有難いのですが……、そろそろレッスンのお時間が迫っているのでは?」

「……」

 その時、リリアナは何か分かったように顔を上げ、レルムを見た。

「分かった! 匂いですよ!」

「匂い……ですか?」

「そう、匂い。一番最初はリズリーがマーヴェラを拾って来たんですよね? 最初は彼女も悪戦苦闘していたようですけど、しばらく一緒に暮らす内にマーヴェラも彼女の匂いを覚えて敵意が無い事を感じた。だからレルムさんも、きっとリズリーと同じ香りを……」

 そういい掛けて、また自分の胸に芽吹く「嫉妬」と言う思いに胸がチクリと痛んだ。

「……ううん、違う。リズリーはレルムさんと別れてからもずっと、あなたと同じ香料を使っていたんですよ。だから、同じ匂いのするレルムさんのことをマーヴェラも敵じゃないと認識して、すぐに懐いたんだと思います。それしか考えられないです」

 リズリーの彼に対する想いの深さを今また改めて知り、リリアナは小さくうずく嫉妬心に眉を寄せた。

 急に黙り込んでしまったリリアナを見て、レルムはそっと彼女の前に手を差し伸べる。その手に気付いて知らず知らずに難しい顔をしていたリリアナが顔を上げると、レルムはニッコリと微笑みかける。

「……確かに、そうかもしれませんね。それなら……」

「レルムさん……?」

 リリアナは差し伸べられた手を取りってその場にゆっくりと立ち上がると、レルムはいたずらっ子のように目を細めて微笑んだ。

「あなたにも、同じ匂いを移してしまえば早い、と言う事ですよね?」

「え……っ」

 戸惑うリリアナに対し、レルムは握っていた彼女の手を引き寄せて腕の中に閉じ込めると、先日付けた首筋のキスマークをうなじから伸ばした指先でそっと撫でた。

 瞬間的にビクッと体を振るわせたリリアナは、真っ赤になりながらも決して振りほどけない力で抱き寄せられているわけではないその手を振り解けず、ぎゅっと彼の服の裾を握り締めて顔をうつむけた。

「な、何、するんですか……マ、マーヴェラの前で……っ」

「……その彼女の言葉を借りるなら、マーキング……でしょうか」

 さすがにその言葉に驚いたリリアナは、大慌てでレルムの傍を飛びのいた。

 顔は耳までも赤く染め上がり、火が出るほどに熱い。片手の甲で口元を覆い隠し、もう片方の手で撫でられた首筋を押さえながら恥ずかしさのあまりに体がかすかに震える。

「マ、マ、マ、マーキングって……っ!!」

 思わず裏返る声でそう叫びながらも、いつの間にかレルムの手に握られていた香料の入った小瓶が目に留まった。

 蓋を開けてあるその小瓶からは、いつも彼から微かに香っていた同じ香りがするものの、原液なだけに濃厚な香りが漂う。

 自分を引き寄せたついでに、机の上に置いてあった小瓶を手に取って蓋を開け、指先にわずかに湿らせたその香料をキスマークの傍にこすり付けたのだ。

 レルムは小瓶の蓋を閉め、それをテーブルに戻しながらふっと笑って見せた。

「使い続けなければ、いずれその香りも消えますから、安心してください」

「べ、別に、嫌じゃないですけど……っ」

 大好きな人と同じ香りになることぐらい、何の問題も無い。そのつもりで弁解したが、レルムは苦笑いを浮かべながらゆるゆると首を横に振る。

「それではガーランド様に悟られやすくなってしまうだけですから……」

「……そ、そっか。そうですよね」

「香りが原因で私に懐いたと言うのが本当なら、今つけた香料であなたはいくらかマーヴェラの警戒心を解く事が出来るかもしれません」

 やんわりとそう言うレルムに、リリアナは躊躇いがちに頷くともう一度ゆっくりとマーヴェラを振り返った。そしてそろそろとその場にしゃがみ込んだ。

「えぇっと……マーヴェラ?」

 たどたどしく声をかけ、香りの移った指先を彼女に向けて差し伸べてみる。

 それまでカーテンの裏側からこちらを睨みつけるように見ていたマーヴェラは、鼻先を掠める覚えのある香りに目を細めた。

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