第83話 戸惑う心

 翌日。リリアナはポルカと共に連れ立ってマルリース離宮へと赴いた。

 道中、馬車の中で窓の外を見つめていたリリアナの表情はいつにも増して緊張したような、強張った顔を浮かべていた。

 父の為にこれまで尽力を尽くしてきたのは言うまでもない。父が城へ戻った時に自分が経過を看られるようにと知識を積んできた事も、もしかすると実を結ぶ時が近いのかもしれない。その時に生まれる新たな壁が、レルムを遠ざける事になると分かっていてもだ。

 以前、レルムと約束をした。どんな事があろうとも父を救いたいと思う願いを貫き通して欲しいと。

 約束通り、自分は自分の望みを貫く為にこれまで勉強に励んできたのだ。そしてこれからも、父の為に尽力を尽くしていく。しかし、それではレルムとの関係がこのまま自然消滅してしまう事も否めなくなる。

 リリアナがいつになく真剣な目をしたまま黙り込んでいる姿を見ていたポルカは、目を細めて声を掛けてきた。

「……不安?」

「え?」

「お父様がお元気になったら、あなた達の関係は完全に認められない物となる……」

「……っ」

 その言葉に、リリアナの表情が更に固くなったのを見たポルカは、複雑そうな表情を浮かべる。

「でも忘れないで。私はあなたが諦めない限り、あなたの味方。あなた達2人の味方です。だから、これから訪れる困難に2人で立ち向かって欲しいと思っているわ」

「お母さん……」

 自分たちの味方だと言うポルカだが、愛してやまない夫のことも裏切りたくない。そんな想いがその表情から読み取れた。

 いつも心配をかけている母だ。本当なら、そんな顔をさせるべきではないのかもしれない。これ以上母の手を焼かせるような事をしてはいけないのかもしれない。それでも、自分はそこまで良い子になれないことはよく分かっていた。

「……ごめんなさい」

 ふいに口をついて出たのは、謝罪の言葉だった。

 今となってはポルカは自分にとって無くてはならない大切な母親だ。心配性で優しくて、時々子供っぽい悪戯をするような母を困らせたくない思いはあるが、今のリリアナには彼の事は何に変えても譲れない物として存在している。

 ポルカはその言葉に驚いた目をしたが、すぐに微笑みながら向かい側に座るリリアナの手を握る。

「謝る必要はないのよ。最初にあなたはあなたらしくあって欲しいと望んだのは私だもの。だけど、お父様は厳格な方。一筋縄ではいかない事は覚悟しておいてください」

「……はい」

 ぎゅっと握り締めてくるポルカの手の強さに、リリアナは頷き返した。

「ところで、ゲーリ殿の手紙は、何て書いてあったの?」

 重苦しい話題を切り替えようと機転を利かせてポルカがそう訊ねると、リリアナは僅かにうろたえつつも口を開く。

「あ、えっと……、お父さんの意識回復があってからすぐ村に戻ったそうなんです。それで、村で待っていてくれたって言う人と結婚をしたみたいです」

「そう。それはおめでたい事ね」

「あと、デルフォスとルシハルンブルクから出た奨励金で、診療所の建て替えと新しい医療器具を買い足して以前より充実した診察が出来ているとも書いてました」

 彼の功績に見合った奨励金だ。デルフォスからでも驚くほどの額のお金が出たのだが、更にルシハルンブルクからも多額のお金が出たのだ。医療器具を充実させない手はないだろう。

 建て替えを行って診療所も以前より大きくなったことで、ゲーリの他にも医師と看護師を雇ったとも書いてあった。病床も僅かだが置く事が出来て、入院患者の受け入れも出来るようになっていると言う。

 これまで自分が育った場所が新しく生まれ変わった事は嬉しくもあり、また寂しくもある。何より、新しくなった診療所を見る事が叶わない事が寂しさに輪を掛けていた。

「ゲーリと、それからその奥さんはとても仲睦まじい様子が手紙からも分かりました。たぶん、そう遠くない内に子供も授かるんじゃないかって思ってます」

「そうね。もしその時が来たら、お祝いの品を贈らせてもらいましょう」

「……はい」

 笑みを浮かべて頷くも、その表情にまだ陰りがある事に気付いたポルカは、リリアナの頭をそっと撫でる。

「どうしたのです?」

「あ、いえ……。ただ、2人に子供が授かっても、見られないのかもしれないなって思って……。形は違ってしまったけど、ゲーリの子供はあたしからしたら、甥か姪みたいなものですし」

 笑ってそう言いながら、本心をぐっと心の奥に押し込む。

 何の反対も受けず、誰からも祝福されて幸せな結婚が出来て、将来授かるであろう子供も皆からの祝福を受けて生まれてくるのだと思うと、醜い自分の心が顔を出す。

 その醜いものが何であるのかはもう分かっていた。それが嫉妬と言う名の心だと言うことも。だからこそ言葉に出さずぐっと飲み込んだのだ。

 自分が選んだ道なのだから後悔はしない。そう思っていても、時々こうして悔いてしまう事が最近増えてきたように思う。

 ポルカはそんな、言葉にしないリリアナの言葉を悟り、何も言わずにぎゅっと彼女を抱きしめた。

「……大丈夫よ。あなたは一人じゃない。一緒に解決策を見つけて行きましょうね」

 その言葉に、リリアナは何も言わず頷き返した。



 マルリース離宮へ辿り着いてすぐにリリアナとポルカはガーランドの部屋へと向かった。

 ベッドサイドに立っていた医師が2人を振り返ると、にこやかに微笑んでくる。

「今丁度、目を覚まされたところです」

 そう言って医師がベッドから離れ、頭を下げて別室へと移動していく。

 リリアナはチラリと隣に立つポルカを見上げると、ポルカもまた緊張した面持ちで真っ直ぐにガーランドを見詰めていた。そしてゆっくりと一歩を踏み出し、ベッドサイドへと近づいていった。

「……ガーランド?」

 椅子に腰を下ろしながらそっと顔を覗き込むと、まだ眠りから覚めたばかりなのか虚ろな眼差しで天蓋を見上げていた視線が、ゆっくりポルカに向けられた。

「……ポル、カ……?」

 もどかしく発せられる言葉は少し掠れた低音の声で、ポルカを呼ぶ声が聞こえてくる。

 6年以上経って、久し振りに聞いたガーランドの自分を呼ぶ声に、ポルカは堪らず涙をこぼしながら笑みを浮かべ彼の手を握り締めた。

「えぇ。私よ……あなた」

「……」

 しっかりと握り締めるポルカの手をガーランドはまだ握り返す事が出来ないが、それでも久々に見る妻の顔に感無量の表情を浮かべていた。

「あなたに報告があるの。娘が、帰ってきたのよ」

「……っ」

 その言葉に、ガーランドは大きく目を見開いた。そして言葉にならない言葉が喉から漏れ、動かし難い腕が僅かに持ち上がる。

 ポルカは部屋の入り口に立っていたリリアナを振り返ると、そっと手を差し伸べてきた。

「いらっしゃい」

 誘われたリリアナは息を飲んでゆっくりと歩み寄ると、ポルカに手を取られ、そしてその手をガーランドの手の上に重ねさせた。

 ガーランドが、自分を見ている視線を感じる。だが、すぐに顔を上げられず緊張しながらゆっくりと視線を上げて、躊躇いがちにガーランドを見つめるとドキリとした。

 こちらを見つめていた彼の目には涙が溢れ、頬を伝い流れている……。

「……リ、リアナ……」

「……っ」

「本当に……リリアナ、なの、か……?」

 目の前にいる事が信じられないと、ガーランドは掠れた声で確かめるようにそう訊ね返してくる。

 リリアナはこみ上げそうになる涙をぐっと堪えて、頷き返した。

「はい……お父さん……」

「……っ。そう、か……戻って、きてくれた、か……」

 ガーランドの手が震えながら持ち上がり何とかリリアナの手に触れると、弱弱しく握り締めてきた。

「……無事で……良かっ、た……」

 震える手で握り締められ、リリアナはぎゅっと胸の奥が掴まれるような気持ちだった。

 この手が、ガーランドの全てを語っている。どれだけ自分の事を心配していたのか、きっと意識を失っていてもずっとそれだけを気にしていたに違いない。

 リリアナは堪らず手を握り締める父の手を逆手で握り返し、堪え切れなかった涙を流しながら何とか微笑んで見せた。

「ただいま、お父さん……」

 そう答えると、ガーランドは何も言わずただ何度も頷いていた。

 こんなにも自分の身を案じてくれていた父とこれから先、諍いを起こす事になるのだろうか? そしてそれは、親子としての繋がりを拗れさせてしまうかもしれない。

 誰にとっても苦い思いしか出来ないような未来を思うと、戸惑いを覚えてしまう。

「リリアナ?」

「す、少し、外に出てきます」

 リリアナは再び眠りについたガーランドの手をそっと離し、ポルカにそう言ってくるりと背を向けると静かに部屋を出て行った。

 後ろ手に扉を閉めて深いため息を吐く。

 複雑な心境に陥り、扉に背を預けたまま足元を見つめていると、ふいに視界に見慣れた靴が映りこむ。それに気付いて顔を上げると、そこにはレルムが立っていた。

「レルムさん……」

「……」

 レルムは静かに微笑んでその場に立っていた。そして、ふっと目を閉じ浅く息を吐き伏せ目がちに視線を逸らしたまま静かに囁く。

「……私は……、私の覚悟は、もう出来ています」

 その言葉に、リリアナは言いようのない不安に心臓を鷲掴みにされたような気持ちに包まれた。

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