第20話 眠れない夜

「うぅ……。も、もう駄目。動けない……」

 朝から始まったモーデルとのレッスンは、間に休憩と昼食を挟みつつもみっちり夕食まで続けられた。

 前半は意気込んで出来ても、後半はもはや気力と体力の勝負。そして根性を見せなければならないような状況に追い込まれていた。

 歩くという簡単な動作でさえ、細やかな決まりであったり歩き方が決まっているなどと知るはずもなく、今回のリリアナはただしごかれるままだった。

 部屋に帰るまでの道のりがとても長くて、もう歩いて帰るのすらめんどくさいと感じてしまうが、それでも帰らなければ休む場所はどこにもない。

 やっとの思いで帰り着くと、リリアナはそのままソファにうつ伏せに倒れこんでしまった。

「リリアナ様、着替えましょう。夕食のお時間が迫っておりますわ」

 そう言いながら背中のリボンを解くドリーに、動く事がままならないリリアナはうつぶせたまま視線だけをチラリと彼女に投げかける。

「お腹は空いてるけど、もう一ミリも動けない……」

「まぁ……。それでは今日はお部屋でお召し上がりになりますか?」

「うん……出来るならそうしたい……」

 柔らかなクッションに埋もれながらそう呟くと、ドリーはそれを了解した。

「かしこまりましたわ。ではお着替えが終わりましたらお持ちいたしますわね」

「あ。ねぇ……王妃様に謝っといてもらえるかな。一緒にご飯食べられないと残念に思うかもしれないし……」

「はい。お伝えしておきます」

 スルリ、と固く結ばれていたリボンが解けると、息苦しさから解放され自然と深いため息が漏れる。

 王族や貴族の人々は皆こんな窮屈な思いをしてまで毎日ドレスを着ていると思うと、尊敬してしまう。ポルカもそうだ。

 生まれながらに当然のように教育を受けて、ドレスを着ていれば苦にはならないだろうが、血筋は真っ当でも途中から入ったリリアナにはただの苦行でしかない。

 のそりと最後の力を振り絞って上体を起こし、着ていたドレスを脱いでコルセットを外してもらうと、体の重たさがハッキリと分かった。

 何とか夜着に袖を通すと、リリアナは再びソファに倒れこむ。

「リリアナ様。それではお夕食をお持ちいたしますね。しばらくお待ちくださいませ」

「うーん……」

 ドリーの声が遠くに聞こえる。

 リリアナは抗うことのできない眠気に襲われ、ドリーが部屋を出る頃にはスヤスヤと寝息を立てて眠ってしまっていた。



 夢を見た。

 それは村にいた時の、まだ楽しかった頃の夢。

 いつものように朝目を覚ましてゲーリの作った朝食を食べ、診療所を始める為の準備をするために、診察室や待合室の掃除を始める。

 棚を拭き、薬の補充をし、カルテの整理をして受付を開く。すると村のお年寄り達は待っていましたとばかりに朝早くから診療所を訊ねてくるのだ。

『おはよう、リリアナちゃん。今日も元気だねぇ』

 そう言いながらにこやかに笑うお向かいのお爺ちゃん。

『もうそろそろ休憩よね? ゲーリ先生の手はいつ空くかしら?!』

 ゲーリ目的で昼休憩の頃合を見計らってやってくるパン屋のお姉さん。

 皆顔馴染みで笑顔が耐えなくて和気藹々と毎日を過ごしていた、まだ何も知らなかったあの頃は本当に楽しかった。

 ほんの少し前の事なのに暖かな雰囲気に包まれた夢が懐かしくて、思わず手を伸ばしてみたくなる。だが、場面が一変し、それまでが嘘のように凄惨な状況へと変わっていた。

 村には悲鳴が響き渡り、次々と倒れていく人々。その中にゲーリも存在していた……。

「……っ!」

 瞬間的に目を開いたリリアナは、ドクドクと不安に鳴る胸の音を聞きながらしばらくその場から動けなかった。

 目の前にある物が現実の物かどうか確証が持てるまで凝視する間、冷ややかな汗が首筋を滑り落ちていく。

 柔らかなクッションの向うに、緩やかにたなびく絹のカーテンが見える。月明かりが細く伸びて、テーブルの上に置かれていた銀色のトレイを照らしていた。

 静か過ぎた部屋の中、少しずつ落ち着きを取り戻したリリアナは緩慢な動きで起き上がると、まだぼんやりとする頭を抱える。

 怖かった……。

 しばし肩で呼吸を繰り返している内にようやく落ち着きを取り戻す。

 ゆっくりと立ち上がってテーブルに近づくと、ドリーのメモ書きが置かれているのに気が付き、それを拾い上げてみる。

『お食事をお運びしましたが、良く眠っておられたようなので軽食に切り替えておきました。 ドリー』

 蓋を開けてみると、中にはサンドイッチとサラダとフルーツの小鉢がある。

 リリアナは重たさの残る体で椅子に座り、それを手にとって頬張った。

 変な夢を見てしまった。でも、決してあり得ないとは言えない現実……。疲れている時ほど悪い夢を良く見るとは、よく言ったものだ。

 リリアナは食べかけのサンドイッチを手に持ったまま、もう一度深いため息を吐いた。

「……手紙、もう少し落ち着いたら出してみようかな……」

 その後の村の事が気にならないわけじゃない。様子ぐらいなら訊ねてもいいかもしれない。

 前向きになろうと思った矢先にこんな夢を見ては、前に進めなくなってしまいそうになる。

 リリアナは食べかけのサンドイッチを皿の上に戻すと、薄く開いていた窓を開けてバルコニーに出てみる。

 夜風が冷たいが、何となく当たっていたいような気持ちになっていた。

 バルコニー伝いに下に下りる階段を降りて見ると、レルムと会った小さな中庭に出た。そこには城内へ続く木戸が見えて、小さなベンチが一つあるくらいだ。

 リリアナはそのベンチに近づいて座ると、何気なく空を見上げてみる。

 チカチカと瞬く星が見えるが、さすがに村にいた時ほどよくは見えない。

「……こんな事で、足引っ張られてたらダメだよね。前に進むって決めたんだから、ちゃんとこれから先を見ていかないと」

 自分を励ますように呟き、リリアナはもう一度深いため息を吐いた。

「やらなきゃいけない事はたくさんあるんだから、今はとにかくそれを頑張らないと」

 そう言うと、リリアナはベンチから立ち上がる。そしてヒールを履いているつもりで踵を上げながら、モーデルに言われた言葉を思い出し中庭の中を歩いてみた。

 草を踏みしめながら歩き出すと、日中にヒールで痛めたつま先が思い出したようにジンジンと痛みを増してきた。

「うわわっ」

 痛みに気をとられた瞬間、ガクンと体のバランスを崩しその場にドサリと倒れこむ。

「いたたた……」

 草むらの上に座り込み、リリアナは夜着から覗く足首に手を触れた。バランスを崩した拍子に、足首も痛めてしまったようだ。

「やば……どうしよ。明日もレッスンがあるって言ってたのに」

 熱を持ち始めた足首を摩りながらため息を吐いた。

 歩けないほどではないにしろ、明日までに痛みが引くかどうかは怪しいものがある。

「とりあえず、部屋に戻ってドリーに冷やしてもらおう」

 リリアナはそっと立ち上がると、よろよろと足を引きながら階段を目指して歩き出した。すると、背後から誰かが近づいて来る。

「……?」

 振り返るのと同時に、とてもよい香りが鼻先を掠め、体が宙に持ち上がった。

「……足、どうされましたか?」

 頭上から降る優しい低音に、反射的に顔を上げるとレルムの心配そうな顔が飛び込んでくる。

「ふぇっ!?」

 突然の事におかしな声を発してしまい、更に自分が今どんな状況になっているのかを把握した。

 自分は今、レルムに横抱きにされている……?

「あああああの、だ、大丈夫です!」

「とても大丈夫には見えませんが……」

「えええと、そ、そうでなくてですね! じ、自分で歩けますからっ!」

 頭の中がパニックになり真っ赤な顔をしながら固まっていると、レルムは眼を瞬きながらもやがてクスッと笑った。

「王女の王族としての教育が始まった事は存じておりますよ。こんな風に初日からあまり無理をされると、後々で大変な事になります」

 レルムはこちらを気遣うようにそう言いながら、リリアナを横抱きにしたまま階段を登り始める。

 リリアナはもう目の前がグルグルとして、違う意味で胸打つ早鐘のような鼓動で張り裂けそうだった。

 まさか部屋の中まで入ったりするのだろうか? と焦る考えとは裏腹に、レルムは窓の傍でリリアナをそっと下ろした。

「今日は初めてのレッスンでお疲れのはずです。無理をせずにゆっくり休んで下さい」

「は、はい……。あ、ありがとうございます」

 レルムはふっと微笑むと小さく頭を下げ、踵を返して元来た道を戻っていく。

 階段を下りて行くレルムを見送りながら、リリアナは胸打つ鼓動に息苦しさを覚えた。

「……ま、また今日も眠れなさそう」

 高鳴る胸の鼓動に、リリアナはぎゅっと胸元を握り締めた。

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