第2話 村医者の娘

 ある晴れた昼下がり。間も無く一年に二度行われる麦の収穫のうち、二度目の秋の収穫が近づく初秋の頃。まだ夏の余韻を残してはいるものの、空は高く透き通り雲は薄く掃き流したかのようで、村の北に延びる街道の木々たちは鮮やかなオレンジや黄色に染まり始めている。


 まだ着る衣が厚くなるほどではないにしろ、徐々に秋が深まる事を自然は教えてくれていた。


 レグリアナ大陸の最南端に位置する小さな農村、ルク。

 17年以上、大陸北部や世界で続く侵略戦争から逃れて集まった人々が、少しでも慎ましやかな生活が送れるようにと創られたこのルク村は、貧しいながらもとても平和で長閑な場所だった。


 そのルク村の中心部に、村としては珍しい診療所があった。診療所は、中規模の街や王国にしか存在しない事が多いのだが、唯一この村にだけはある程度の医療が整った診療所が設けられている。

 診療所の院長を務めるのは、まだ年若いゲーリと呼ばれる青年である。


「それでは、私は往診に行ってきますからね」


 診療所の入り口に、「往診中」の札を下げながら部屋の中に声をかけるゲーリは、すずめの尻尾ほどの髪を一つに結わえ、鼻骨で止める鼻眼鏡をつけて白い法衣のようなたっぷりとした衣服を着て、手には大きな黒いバッグを一つ抱えている。

 声を掛けた部屋の奥からゲーリを送り出すために出てきたのは、彼の妹のリリアナだった。


「はいはい。いってらっしゃ~い」


 ニコニコと微笑みながら送り出すリリアナは、艶やかで黒く、腰まである長い髪はそのままに動きやすい恰好をした見るからに元気そうな少女である。


「ゆっくりでいいからね」


 満面の笑みを浮かべたままヒラヒラと手を振るリリアナに、ゲーリはじっと疑いの眼差しで彼女を見据えた。

 その眼差しを受けて、リリアナの表情が僅かに固まる。


「もしかして、私が居ないのをいいことにまた遊びに行くつもりじゃないでしょうね?」

「……は? んなわけないじゃん! ちゃんと出された課題はやりますって」


 じとっと疑いの晴れない目を向けられたリリアナは、苦笑いを浮かべながらその言葉を否定する。

 内心、焦ってはいたもののそれをおくびにも出さないで平静を保とうとするのは、ある意味彼女の得意技ともいえるかもしれない。しかし、またその上を行くのはやはりゲーリだった。


「どうでしょうね。あなたはそう言いながらまともにやったことが、これまで一度としてあったでしょうか?」

「……信じてくれてない」

「当たり前です。これまであなたがしてきた事を思えば、当然の結果ですよ」


 頬をぷっと膨らませ、ふてくされたように口を尖らせるリリアナに、ゲーリは呆れたようなため息を漏らす。


 こう言われてしまうのは確かに仕方がないことかもしれない。これまで、何かと理由をつけては出された課題を放り出して部屋を抜け出し、遊び呆けていたのは事実。今更信じろと言う方が難しい。


「だからちゃんとやるってば。ゲーリが帰ってきたら課題は全部出せるようにしとくから」

「絶対ですか?」

「絶対」

「嘘じゃありませんね?」

「嘘じゃない」

「本当ですね?」

「……」


 念には念を押すようにしつこいほど確認をしてくるゲーリに、リリアナはぐっと口を閉ざして眉間に皺を寄せた。


「だぁかぁらぁっ! 本当だって言ってるでしょっ! しつこいっ!!」

「分かりました。じゃあ、今回はあなたを信じる事にします。でも、次はないですよ」


 次はない。それを聞いたのは一度だけではないのだが、お互いその辺はおざなりにしていた。


 ゲーリは村の老人達のカルテと、薬や聴診器などが入った重たい鞄を持ち上げると診療所を後にする。残されたリリアナは中へ戻り、家の奥にある調剤室へと向かった。

 こぢんまりとした室内には、沢山の薬草の種類が書かれた分厚い本がぎっしりと四方の壁側にある本棚に押し込まれ、床の上にも何十冊と積み上げられている。その本の山の中に、薬を調合する小さな机がぽつんと置かれていた。

 机の上には数枚のレシピの書かれた紙と、すり鉢、計量秤、試験管やビーカー、フラスコと言った道具がある。

 リリアナは椅子に腰を下ろすと、テーブルに置いてあったレシピの一枚を摘み上げてみた。


「……とは言ってもねぇ……。こんなの、誰が使用するって言うんだか……」


 ひらひらと動くその紙には「興奮剤」と書かれている。同時にそれを作るための材料と効能、効果などが記されており使用に当たってのメリットとデメリットの記載もされている。


 こんなレシピが4枚ほど。これが、リリアナに与えられた課題だった。


「興奮剤、鎮痛剤、解熱剤、睡眠導入剤ね……」


 大体どれも本を見れば作り方は載っている。分量さえ間違わなければ、何の問題もなく作れる簡単な課題だ。

 しかしリリアナは難しい顔をして腕を組み、低く唸る。


「どれもちょっとばかし癖あるレシピばっかりだなぁ。上手く出来るかな……」


 リリアナは過去に何をどうしたらそうなったのか、薬の調合に失敗をして爆発事件を起こした事がある。器用そうに見られがちだが、実はかなり不器用だ。

 レシピを前に睨めっこをしていたリリアナだったが、やがて諦めたように息を吐き気合を入れて腕まくりをした。


「よし、悩んでても仕方ないもんね! 出せるようにしとくって言っちゃったし、たまには真面目にやらないと。頑張ろう!」


 すぐ側のすり鉢を手に取り、薬箱から薬草を取り出しレシピ本を見ながら丁寧に調合をし始める。


 薬を作る事。それが、医者になるための第一歩。


 リリアナの将来の夢は、ゲーリのように病気に苦しむ人々の役に立てる医者になることだった。

 実際に医師であるゲーリの下で医療の手伝いをしながら、色々な知識を得る。その傍らで簡単な薬の調合を難なくこなせるような薬剤師としての知識も必要になってくるのだ。だが、あまり集中力が続かないリリアナは、どうにも肝心なところで気が抜けてしまいがちになる。


「これを……一滴……」


 薬のベースになる黄金色の液体に、薄い緑色の薬草の絞り汁を入れる瞬間が緊張する。この絞り汁が入る事で化学反応が起きて、鮮やかなオレンジ色になれば成功なのだが……。


 そ~っと試験管を傾けている間に、集中しすぎて息を止めてしまう。試験管からそそぐ一滴が非常に難しい。

 一点集中している時、不意に窓の外からガタッと何かが動いた音が聞こえビクリと体を震わせてしまった。


「あ」


 ヤバイ、と思ったのも束の間。驚いた拍子に試験管に入っていた絞り汁がポタタタ……と流れた。その次の瞬間、黄金色の液体は徐々に茶色く変色し黒ずんでいく。


「うわわわわっ」


 リリアナは急いでテーブルから離れると部屋の本棚の隅に逃げ、さっと頭を抱えてしゃがみこんだ。


 ブスブスと黒い煙を上げる薬品は、やがて小刻みに震えだす。

 ズドーン! と激しい音を立て、家がミシミシと音を立てて揺れ室内の埃が舞い上がった。


 部屋の隅にしゃがみこんでいたリリアナは部屋が落ち着いたのを待ってからゆっくりと顔を持ち上げる。目の前はまだ埃が舞い上がっていて、先ほどの爆発で机の上は真っ黒。ビーカーや試験管などのガラス類は粉々になり、本も爆風で散り散りに飛んでまさしく足の踏み場もない状態になっていた。


「またやっちゃった……」


 深いため息がこぼれる。


 どうして自分はこうなのだろうか。いや、しかし先ほどのは不可抗力と言ってもいい。


 自分でそうなぐさめながら、体についた埃を払いつつ立ち上がると同時に、バタバタと忙しない足音が近づいて来て調剤室の扉が勢い良く開かれた。


「リリアナっ!?」


 現れたのは血相を変え、診察を放り出し髪を振り乱しながら往診先から駆け戻ってきたゲーリだった。


「あ、ゲーリ。ごめんねぇ。また失敗しちゃった」


 えへへ、と後ろ頭を掻きながら苦笑いを浮かべるリリアナに、ゲーリは安堵と呆れの混ざった長いため息を吐き、頭を垂れてその場にしゃがみこんだ。


「もう、いい加減にして下さいよ……。こんな事がある度に心臓が止まりそうになるこっちの身にもなって下さい」


 頭を抱えて若干睨みつけるようにしながらこちらを見るゲーリに、リリアナはただただ苦笑いを浮かべるばかりだった。

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