第3話

 海岸へと近づくにつれて、夜の闇は濃さを増していく。

 まだ屋敷から出たときは空は薄い朱をひいているような色だったが、見上げるとかすかに残っていた朱は消え、濃い藍色が向こうから迫ってきているようだった。

 歩いているとふいに、頭上に光がさした。夜の暗さに反応して、街頭が灯りをともしたのだ。敦貴たちが歩く道が、白く光っている。

「誰もいませんね」

 隣を歩いていた咲衣が、ぽつりと呟いた。つられて咲衣を見るが、彼女は前を向いたままだ。表情がなく、憂いさえ感じられる顔に、白い灯りがさしていた。

「そうだね」

 敦貴もまわりを見回しながらうなずいてみせる。目で見る範囲に人影はなかった。ただ薄暗い道路と、まわりに家々が建つのみの通り。車さえも通らない。さらに鋭敏な感覚があたりを探るが、こそりと澄ませた耳さえも、音をとらえることは叶わなかった。

「……これが日常なのでしょうか」

「どうだろう。罠かもしれないね」

 敦貴が何気なく言うと、咲衣が緊張してか、背筋がすっと伸びるのがわかった。護衛としての本能が為せるものだろう。罠といったのは思いついたままに口にしたことだが、それが現実であってもおかしくないと思った。敦貴たちは常に誰かから狙われる生活を続けているからだ。この人魚の話自体が罠という可能性もある。

 二人で警戒しながら歩いていくうち、いつのまにか浜辺までたどりついていた。警戒に反して何かが襲ってくることはなく、あっさりとたどりついてしまう。

 通りを抜けた途端に、ひときわ強く潮の香りが漂ってきていた。屋敷をおとずれていたときに感じた香りの比ではない。これほどまでに強いならば、ここから匂いを拾って帰ってくるというのも道理だと思った。

 波の音が聞こえる。ひらけた視界に広がる海は、夜の闇と同化しているように見えた。水平線は完全に黒く塗りつぶされ、空との境界が曖昧になっている。

「……、いませんね」

 咲衣は、敦貴より一足先に浜辺へと降りたっていた。彼女が一歩砂を踏むごとに、ざりざりとした砂の音が風に乗って飛んでくる。

「そうだね」

 敦貴は降りるまえに一通りまわりを見回したが、人の姿は見られなかった。ここは空振りだろうか、と悔しく思いながら、砂浜の上に足を下ろす。砂を砕く感覚が足に伝わってきた。

 数歩先をゆく咲衣は、真剣にあたりを見回していた。もしこれが仕事でなければ、咲衣はもっと肩の力を抜いていたのだろうかと思う。咲衣が敦貴を殺そうとしたあの桜咲く日からずっと、咲衣は人形のように生きている。元々感情豊かな性質ではなかったが、それでも笑ったり、怒ったり、話したりする日もあった。今はそれら全てを意識的に抑えていかねばならないのだ。そばにいるのはあのときと変わらぬ頻度であるのに、彼女の声を聞く頻度はぐっと下がっている。

 咲衣たちの事情を知る者のいない場所というのは、貴重な場であった。もっと楽にしていい、と口にするのは簡単だったが、おそらくそう言ったとして、咲衣がおとなしく従うようには思えない。

 敦貴はゆるりと首を振ってあきらめると、もう一度、砂浜を見回してみる。

 感じられるのは、波の音ばかりだ。数歩先をゆけば、ゆるやかに打ち寄せてくる波がある。暗闇にかすかに泡立つ白い波が見える。

 白く泡立つ波打ち際を追っていくと、遠く離れた波打ち際に、ぽつりと誰かの姿があるように見えた。目を凝らさないとわからない、米粒のような小ささだ。屈んでいるようにも見える。

「あれ、人だよね」

 人らしきものを指し示すと、咲衣は目つきを険しくさせた。ややあって、ゆるやかに頷いてみせる。

「そうですね。確認してきます」

「俺も一緒に行こう」

 たちまち護衛の顔つきになった咲衣が、素早く前へ出ようとするので、敦貴も遅れぬように隣に並んだ。すると咲衣は、あきれがこもったような視線を向けてくるのだ。

「あの」

「何?」

「一緒に来られると、護衛の意味がないんですけど」

 少しまえ、護衛だった頃は常日頃から聞いていた言葉だ。最近めっきり聞くことがなくなってしまったので、それを聞くとなんだか嬉しくなってしまう。

 顔に出ていたのだろうか。咲衣があきれたような表情を浮かべる。

「ほら、とりあえず行こう」

 ここでいつまでも押し問答をしている訳にもいかないので、敦貴は半ば押し切るようにして、歩きはじめた。咲衣も少しだけふてくされたような顔をしていたが、すぐに隣に並んでくる。

 米粒のようにしか見えなかった人は、近づくにつれてはっきりと形をあらわしてきた。女性、いや少女のようだった。着ているものは着物をまとっているらしい。暗闇のなか、かすかに着物の赤が浮かんで見える。

 少女は波打ち際でかがみこんで、何かを探しているようだった。慣れているのか、押し寄せてくる波を気にもせずに、かがんだまま動き回っている。着物は濡れてしまわないのだろうか。だが器用に砂につかないようにしているように見えた。

「探し物ですか?」

 敦貴が思いきって話しかけると、今までかがみこんでいた少女の頭が、ゆらりと動いた。

 まるで人形のようだった。まっすぐな黒髪は胸元まで流れ落ち、吊り上がり気味の目が、まっすぐに敦貴を見据えてくる。

 赤い着物の袂からは、白い手がのぞいている。掌は軽く握られていて、何かを持っているようにも見えた。

 少女はかすかに口の端をあげて、微笑んだようだった。

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