第2話

 遠くから潮のかおりがただよってくる。瞼をとじれば波が押し寄せる音が聞こえてくるのではないかと耳をすませてみたが、残念ながら聞こえてきたのは、車が行きかうかすかな音だった。

 瞼をあけると、薄暗い夕暮れ時の住宅街が目の前に広がっている。行き交う人はなく、閑静な住宅街だった。

「……ここですか」

 すこし前を歩いていた咲衣の声に、敦貴は彼女が見ている方向へと顔を向ける。

「ああ……そうだよ」

「……すごい大きなお屋敷ですね」

 ふたりの目の前に建つのは、立派な門と塀だった。その奥には、二階建ての立派な屋敷が建っている。昔ながらの瓦葺きの屋根に、黒く色を変えた木の壁。あまりに大きすぎて、なかに人がいるのかどうかわからない状態だ。

 二人が門のまえに立つと、人の気配を察知して、センサーライトが点灯した。どこか煤けた色をも感じさせる門の戸が、浮かび上がる。

「とりあえず、呼んでみますね」

 咲衣は、なにか作戦を立てる間もなく、あっさりとインターホンを押してしまう。

 敦貴は少し緊張しながら、ふたりでしばらく待ってみるが、誰かが出てくるような気配はない。

「……誰もいないんでしょうか。こんな大きい屋敷に」

「どうだろう……荒れている様子はないから、誰かはいるかと思うけどな」

 敦貴は門の上を見上げてみた。見上げてみても、門が立派なので、見えるのは瓦葺きの屋根と、二階部分のみだ。もちろん見える部分だけでは、誰かがいるような気配は分からない。

 だが、本当に誰もいないのだろうか。敦貴は瞼を閉ざして、そっと耳をそばだてる。すると、静けさの向こう、かすかに誰かの足音が聞こえてきた。おそらく建物のなか、誰かが歩いているのだ。これは敦貴が吸血鬼であるから、わかる音だろう。

 敦貴が瞼をあけると、横から視線を感じていた。どうやら咲衣にも聞こえたらしい。咲衣も吸血鬼の血が流れている半吸血鬼(ダンピール)であり、普通の人間よりは能力が優れているのだ。

「聞こえましたか」

「うん。ひとりだね」

 一度とらえた音は、逃さずに追うことができる。聞こえてくるのは、建物のなかをそろそろと歩く足音がひとつ。おそらく、成人男性のものだろう。咲衣はそこまではわからなかったらしい。ひとりですか、と頷いている。

「どうします?」

「うーん、門を無理矢理開けても良いけど」

 門はごく普通の木製のもので、しかも年季が入っているようだった。敦貴の力があれば、簡単に壊すことはできる。だがそう答えたとたん、隣からじとりと呆れの含んだ視線が飛んでくる。

「悪くない案ですけど、また新しい伝説を作りますよ?」

「うーん、それも困るかあ」

 咲衣の話はもっともなものだった。見た目はごく普通の青年である敦貴が、急に門をべりべりと壊して中に突入したのが誰かに見つかりでもすれば、話の種になることは間違いない。簡単な方法だとは思ったが、それだと良くないな、と敦貴は腕を組んだ。

 腕を組んで考えている間にも、建物のなかを歩く音は続いている。もしかすると、どこからか敦貴たちを見ているのかもしれない。咲衣がインターホンを押したし、きっとそうだろう。

 それならば、と敦貴は組んでいた腕をほどいた。

「よし」

 意を決して、インターホンに指を乗せる。一度鳴らすが、返事はない。それならば、と敦貴は等間隔で何度もインターホンを押してみる。

「あ、敦貴……」

 あまりにも延々と押し続けているので、隣から困ったような咲衣の声が聞こえてくる。止めて良いものかどうか、悩んでいるのだろう。

 相変わらず誰も出てくる気配はない。それでも、中でうろうろとうごめいていた足音が少しずつ近づいてくるのは分かった。

 履物を履く音が聞こえ、そして玄関の引き戸が開かれる音がする。そこでようやく、敦貴は指を止めた。微細に聞こえていた足音は、はっきりと質量をもって耳に届く。

 やがて、目の前にある門の戸がゆっくりと開かれていた。

 敦貴たちの前に現れたのは、ひとりの青年だった。歳は敦貴とさほど変わらない、二十代後半くらいだろうか。ワイシャツとスラックスという、ごく普通の見た目をしている。

 おとなしそうな印象を受ける男だった。髪は短い黒髪であり、清潔そうな印象を受ける。どこか切れ長に感じられる目には、敵意が込められていた。

「……何でしょうか」

 低い声色。声にも明らかな敵意が込められている。たしかに何度もインターホンを押してしまったし、敵意を向けられるのは必然だろう。だがそれにしても、敵意の向け方が異常ではない気がするのだ。

 敵意というよりも、憎悪、そして殺意に近い感情を抱いているようなのだ。

 咲衣はかすかに気配にのまれているようで、隣で硬直しているのを感じる。敦貴もひととき、のみこまれそうになったが、はねのけるように笑みを浮かべてみせた。

 そして、口をひらこうとした、まさにそのとき。

「すみませんが、ここに人魚はいませんよ」

 敦貴が何か言おうとした言葉を遮るようにして、青年は告げてくる。敦貴たちの目的をぴたりと言い当てた言葉に、敦貴も次の句を続けることができなかった。

 口を開いたまま何も言わない敦貴に、青年はいよいよ敦貴たちの目的を確信したようだった。鋭い敵意の視線が、強さを増す。

「それでは」

「あっ……! ちょっと待ってください!」

 青年は強く言い切ると、そのままぴしゃりと門の戸を閉じた。そこで咲衣が止めるように何かを言いかけたが、聞く耳はもたないようすだ。

 言葉通り門前された敦貴たち。話を途中で遮られることになってしまった咲衣は、残念そうな表情だ。すこしふてくされたように、唇をとがらせている。

「どうします?」

「そうだねぇ。ここに人魚と呼ばれる人がいないのは、本当だろうね」

 屋敷のなかにもどっていく青年のほか、聞こえてくる足音はない。ここに人魚はいない、というのは本当のことなのだろう。

「なら……、噂は嘘だったということで?」

「いや」

 敦貴はゆるく首を振りながら、屋敷とは反対の方向へ顔を向けた。住宅に遮られてしまっているが、向こうには海があるのだ。

 かすかに漂う潮の香り。一定の濃さで漂ってくる匂いが、いっとき、強くなるときがあった。

 青年が目の前に現れたときだ。青年の身体から、強い潮の香りがする。おそらく、海の近くにいた時があったのではないだろうか。

「海まで、行ってみようか」

 咲衣は嗅ぎ取ることができなかったらしい。敦貴の話に、訝しげに首を傾げるのだった。

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