人魚といわれた娘~赤錆びた桜~

志水了

第1話

「人魚の噂?」

 聞きなれない言葉に、敦貴(あつき)は知らず知らず眉を寄せていた。

 地下にある研究室には窓がなく、敦貴が座っている席の上にだけ蛍光灯が点されている。敦貴の机のまわりには、いくつもの資料データが打ち出されてファイルに綴じられたものが並べられていて、机のうえにもファイルが積み上げられていた。

 研究室がはいる建物の外観は昔の洋館を改装した華美なつくりだが、研究室は色のない無機質なつくりだった。

 敦貴のうしろには、ひとりの女性、咲衣(さえ)が佇んでいた。ふわりと巻かれた茶の髪がかすかに揺れる。髪と同じ茶色がかった目は、ぼんやりとどこかを見つめていた。敦貴の声にも、敦貴と話している研究員の声にもこたえることはない。まるで人形のようだ。

 研究員の男は敦貴のいぶかしげな声に、うなずいてみせた。

「そう、人魚。横浜? いや違う、鎌倉だな。鎌倉のこの場所に、そういう噂をもつ女の人が住んでるんだってよ」

 研究員は敦貴に青くて薄いファイルをわたしてくる。敦貴が持っていた資料をのぞきこむと、噂があるという女性の住所や、家のまわりに聞き込みをした状況が書かれていた。


 聞き込みをしたところによると、曰く、貝殻を食べて生きているらしい。曰く、少女のすがたのまま、年をとらないらしい。


「何年生きていても年をとらないということは、吸血鬼の特徴とあてはまるのはたしかですね」

「……だろ?」

 敦貴のことばに、男はにんまりと笑ってみせた。敦貴はうなずきながら、青いファイルを机の片隅に立てかける。そして男をふりかえった。

「少し考えさせてください」

「ああ……だが決断は早めにな」

 敦貴のことばに男はうなずいて、そして表情をくもらせた。男はちらりと咲衣に気の毒そうな顔を浮かべる。敦貴は咲衣をふりかえりはしなかったが、ひやりとした気持ちになる。

「どうにも噂の段階だが、今また反体制が動き出しているようだ」

「そう……ですか……」

「咲衣がこんなになってから、時も経ったしな……傀儡とされてしまったこの子を奪還しようという動きもあるのだろう」

「そうでしょうね……」

 そろりと咲衣をふりかえって見上げると、咲衣は微動だにせず、前を向いたままでこちらをちらりとも見ないままだ。敦貴がどんな顔で咲衣を見上げていたのだろうか。男は敦貴にいたましそうな視線を向けて、そっと頭をなでてきた。

「まあ、がんばれよ」

「……はぁ」

 男はそれだけ告げると、そっと部屋から出てゆく。男が扉をしめて、研究室は完全にふたりだけになった。すると、いままで敦貴のうしろで微動だにしなかった咲衣がとたんに大きな声をあげた。

「ああ、疲れたー」

 いままで直立して、人形のように表情を動かさなかった咲衣はとたんに表情を崩していて、敦貴はおもわずため息をつく。

「……俺も疲れた……」

「ごめんなさい。でも敦貴が途中でこっちを見るから、すこしあぶなかったんです」

「それはごめん……でも毎回ひやひやするな」

「それは私を傀儡にしたなんて設定にしたからです」

 咲衣は頬をふくらませてすねたような顔をしていた。敦貴はがっくりとうなだれる。

「仕方がないだろ……あのときはそれしか思い浮かばなかったんだ」

 咲衣は敦貴の護衛だった。いや、いまも表向きは咲衣の護衛だ。

 敦貴たちが勤めている臨床検査センターは普通のセンターとはちがい、主に人外の、とくに吸血鬼の研究を行っている。そして、敦貴は見た目だけは普通の人間に見えるものの、本性は吸血鬼だ。

 吸血鬼は普通の人間よりもはるかに高い身体能力を持っているので、本来ならば護衛は必要とされていない。だが彼は、人工的に吸血鬼をつくる研究に参加しているため、反対派の者たちが敦貴の命を狙っているのだ。そのため、咲衣が護衛についていたのだが、咲衣こそが敦貴の命を狙う反対派のひとりだった。

 敦貴の脳裏には、いまも鮮やかにのこっている。

 満開の桜が咲き、花びらがひらりと散ってゆく公園で、咲衣に銃を向けられた日のことを。そしてころしたくない、と苦悩に満ちた表情でぽつりとつぶやいていた彼女の言葉を。

 敦貴は手をとめた咲衣を殺すことはできた。いや、本当は殺さなければならなかった。だが、敦貴も殺すことができなかったのだ。

 互いが互いを殺せずに逡巡していたあのひととき。敦貴のなかまたちが割り込んできたとき、敦貴がとっさに考えたのは、咲衣を吸血して傀儡にするという「設定」だった。

 そしていま、咲衣は毎日を人形のように表情を殺してすごすという、綱渡りのような日々を送っているのである。

 咲衣はうなだれている敦貴のちかくまで歩いてくると、机に並べたファイルを手に取った。敦貴は考えさせてくださいなどと口にしたが、机にファイルを並べたとき、敦貴が腹を決めていることを彼女は知っている。

「……行くんですね」

 果たして咲衣の口からぽろりとこぼれおちた言葉は、問いかけるものではなく、断定したものだった。敦貴はすこしだけ悩むそぶりをみせたが、そうだねとうなずく。

「資料を信じるのであれば、吸血しなくても生きている吸血鬼がいることになるかもしれない。見逃すわけにはいかないなからね」

「まあ、そうでしょうね」

 咲衣は仕方ないといったようすでうなずいている。だがそのすぐあと、ごくわずかだが案ずるような顔をみせた。

「さきほど、話をしていましたが……。私のところにも、反対派の誰かが動いているという話がきます。危ないのでは」

「……そうか……でも、閉じこもって命を惜しんでも、狙われるときは狙われるさ」

「……それはそうですが……」

 咲衣はそれでもまだ、納得していない表情だった。

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