Long Day Long Night 38
*
ぴっ――署名の最後に勢いよく線を引いて、アルカードは手にしたボールペンを置いた。手元に便箋は無かったしわざわざ買いに行く気にもならず、代わりにリビングにあったコピー機のコピー用紙数枚を使って手紙をしたためたのだ。
使わなかったコピー用紙は脇に置いて、合計三枚の便箋代わりのコピー用紙を重ねて三分の一に折りたたむ――それを部屋の中央に置いたままにしてあったアルミジュラルミンのブリーフケースの中に入れて、アルカードはブリーフケースの蓋を閉めた。ケースの中には百枚ずつ束にされた真新しい一万円札が二十束ばかり収まっている。十分とは言えないが、チャウシェスク老人とその家族が生活を再建するための足しにはなるだろう――少なくとも土地はすでにあるのだから、店だけでも立て直す役には立つはずだ。銀行からの融資を渋られても、少なくとも当座の資金にはなるだろう。
胸中でつぶやいて、アルカードは壁際に寄せて置いてあった重装甲冑の
スペクトラ・シールドとチェーンメイルを仕込んだ分厚いコートの上から装甲を取りつけ、ストラップを締め上げる。
掃き出し窓に腰を下ろし、庭の沓脱石の上に置いたロングブーツに足を入れる――ブーツの上から脚甲の装甲板を取りつけ、ストラップを締め上げて固定してから、アルカードは立ち上がって何度か屈伸運動をして取りつけの状態を確認した。
水平二連の自動式ショットガンのホルスターをサーベルの様に腰に吊り、それで武装はすべて整った。
ジープは午前中に神田忠泰が連れてきた大使館員の手で駐車場から搬出されており、そろそろ大使館経由で陸運支局に向かっている頃合いだろう――長い間一ヶ所にとどまりすぎたので識別を難しくするためにデカールを剥がし、場合によっては塗り替えて、ナンバープレートを付け替えるために引き取られたのだ。
コートの襟を整えて、与えられていた部屋の中を振り返る――直接会って礼を言うべきなのかもしれないが、もうこれ以上接触すべきではないだろう。
外から網戸だけを閉めて、アルカードは地面を蹴った。塀を跳び越えて隣接した民家の屋根へと跳び乗り、そのまま次々と屋根や電柱の上を跳び移って移動してゆく。
「……?」
数百メートルほど移動したところで風に乗ってかすかに聞こえてきた声に、アルカードは飛び移った電柱の上で足を止めた。
今のは――アレクサンドルと名乗った、あの老人と娘婿の声か?
何度か民家の屋根を飛び移って、周囲の住宅とは不釣り合いな年季の入った工場の屋上に降り立つ。高度視覚で透視してみた限り、鉄骨で組まれている様だったので、体重をかけても大丈夫だろう。
工場の前の看板には『ガレージ池上』とあった――富士火災保険代理店の看板も出ている。午前中一緒に酒を飲んだ、池上という男の工場か。
看板を支持しているしっかりした鉄骨の上に降り立って眼下の様子を窺うと、アレクサンドル・チャウシェスクと神城忠信、そしてその四人の息子たちが眼下の道路の端のほうで集まっていた。
「いましたか?」 という質問を発したのは、神城恭輔だ。
「否――家には?」 恭輔はおそらくチャウシェスクに尋ねたのだろうが、返事をしたのは神城忠信だった。ふたりの視線を受けたチャウシェスクがかぶりを振って、
「家には戻っておらん様だ――あのアルカードというのがいなくなっとるそうだが」
「じゃあ、あの人が――」 神城亮輔の口にした言葉はアルカードが連れ去ったのか、という意味だろう――陽輔の言葉に、携帯電話を片手にチャウシェスクがかぶりを振る。
「否、それは無い。さっき家に電話をしてイレアナと話をしたが、あの男、礼状と札束を置いて出ていったそうだ。それにあれにはデルチャの行き先は話してない――どこに行ったか特定出来るはずもない」
まだ家を出てからほんの数分程度しか経っていないが、どうやら家に残っていたイレアナとマリツィカのどちらかがアルカードが借りていた部屋が空になっているのに気づいたらしい。
まだ若い残る兄弟はともかく、恭輔と神城忠信、それにアレクサンドル・チャウシェスクはちょっと足元が覚束無い――午前中にあれだけ飲んでいたのだから当然だが。
昼過ぎには帰宅するはずだったデルチャが十四時になっても帰宅していないのだけは、アルカードも知っている――会話の内容から察するに、デルチャの行く先が掴めなくなっているのだろうか。
警察を使うのもいいだろうが、とりあえずは自分たちで探すことにしたのだろう。
焦燥もあらわに周囲を見回している十歳くらいの末弟から視線をはずし、アルカードはかがみこんでいた鉄骨の上で立ち上がった。たった数週間、霊体に負った損傷がある程度治癒するまでの間世話になっただけの相手だ。礼状は置いてきたし謝礼も支払って義理は果たした。
別にデルチャと蘭がいなくなったことについて自分がなにかかかわりがあるわけでなし、彼が気にしなければならない道理も無い。
第一、会う予定だった友人の家を辞したあとでそこらでお茶でも飲んでいるだけという可能性もあるのだ。いくらこの近辺でおかしな気配を感じたといっても、それが必ず関係があるとも限らない。だいたいその気配の主がなんであれ、自分にはかかわりの無いことだ。
自分の指を掴んでぶんぶん振り回しながら笑い声をあげている赤子の顔を思い出して、アルカードは小さく舌打ちした。ウジェーヌも赤ん坊だったころ、あやしに来た家人の指や髪を掴んではあんなふうに笑っていた。
馬鹿な――なにを考えてる?
自問しながら、アルカードは屋根の端に接続された電線の支柱に左手を当てた。
次に表示されたのは、上下前後左右に至るまであらゆる方向を同時に表示する視覚だった。やはりセンサーが拾い出した情報を突き合わせて合成したもので、球状のプラネタリウムの様な全方位モニターを脳で直接見ている様な感じに近い。使用者の体は見えず、代わりに周囲の状況を死角無く把握出来る。
これと
最後に起動したのは、
視界や視野は肉眼と変わらないが、熱の分布など様々なセンサー情報をイメージ化することで、必要に応じて壁の向こう側を透視するなど用途が広い。
高度視覚と機能が重複するのだが、アルカードにとっての利点は光源になるものが必要無いことだった。
ステータスメッセージはやがて周囲の環境や状況を示すサラウンドメッセージへと変わり、マテリウス氏単位で検出された周囲の気温や空気中の水蒸気量、空気の組成、現在時刻と太陽の位置から算出されたアルカードの現在位置、その他の様々なデータが表示され始めた。
ステータスメッセージが次々と切り替わり、やがてターゲット設定モードへと遷移する。
攻撃時には砲台とすべての触手に周囲の気温や気圧の変化と空気の振動から周囲の状況を検索する一種のモーション・センサーと、温度分布や音響反響定位、レーザーレンジファインダー、周囲の物体の放射する熱や熱源探知システム、電磁場の形成や地磁気などから周囲の状況を検索する磁気センサー、透過型光電センサーやレーザーセンサーなど、十数種類もの高精度センサーを複合した照準器官が形成される。
これらは射撃モードに移行しなくても構築可能で、かつその構築する数に制限が無い。そのため、
そこに彼女がいないなら、別に放置していてもかまわない――怪異にかかわっていないのならば、彼がかかわる道理も無い。あとは警察の仕事だが――
水銀に接続された疑似神経から目標発見の反応が返り、重層視覚の
場所は小高い山の中腹にある神社――位置情報から判断すると今いる場所よりもう少し北寄りだ。頭に入っている地図から判断する限り、午前中まで借りていた本条家の駐車場のある硲西の交差点から丁字路を左折した先だ。
今は無人の社らしいが昔は住み込みの神主がいたらしく、社のすぐそばに木製の電柱が立てられて送電線が伸びている。
その送電線を伝って神社のすぐ近くまで伸びた索敵触手が、神社の境内にいるデルチャ・チャウシェスク・神城とその娘、それになにやら背中から無数に伸びた蚯蚓の様なおぞましい触手でふたりの体を巻き取っている巨大な蜘蛛の姿を発見したのだ。
どうもふたりを喰おうとしているのか、火がついた様に泣き叫ぶ蘭とおびえきって抵抗することも出来ないらしいデルチャを、大きく開いた口に運ぼうとしている。
「――ッ!」 疑似神経を介して脳裏に再現されたその光景を認識した瞬間、意識が沸騰し血が逆流して、視界が真っ赤に染まるのがわかった。
――殺す!
経度や緯度だけでなく海抜も含めた正確な三次元位置情報、周辺の気温や気圧、空気の組成や水蒸気含有量、土壌の組成、すでに確認済みの個体以外の、脅威になりうる生命体――
それと同時に
それまで分子を収縮させる機能を使って体積を抑えていた水銀が瞬時に膨張し蛇の様に鎌首をもたげたあと、まっすぐに蜘蛛に向かって伸びた。水銀の触手の先端が針の様に硬化して、鋭利な棘を形成する。
神社の雑木林の中に設置された木製の電信柱のてっぺんから複数に分岐しながら伸びた水銀の棘が、次々と蜘蛛の体に突き刺さる――蜘蛛の体内に入り込んだ水銀の触手が内部で無数に枝分かれして巨大な蜘蛛の肉体を蹂躙し、デルチャと蘭を絡め取っていた触手も枝分かれした棘によってずたずたに破壊された。
ぎぃゃぁぁぁぁっ――それが蜘蛛の悲鳴なのだろう、巨大な蜘蛛の発した轟音じみた絶叫を
そのときには、全体積の三分の一程度が神社の近辺に集中している――
長大な斬撃触手が二本、うなりをあげて蜘蛛に肉薄し――デルチャと蘭を絡め取っていた太い触手を一撃で寸断した。次の瞬間蜘蛛の触手をぶつ切りにした斬撃触手が変形して網の様に拡がり、切断された蜘蛛の触手ごと放り出されたふたりの体を受け止める。
それで
そして問題は移動手段のほうだが――ここから神社までは、アルカードの足でも十数分かかる。全力で走れば数分でたどり着けるが、それでは目立ちすぎる。
手っ取り早いのは周囲のまとまった量の水を強制的に気化させて周囲の水蒸気量を上げることだが、あいにく周囲に水が無い。
つまり、まずは十分な量の水を確保する必要があるのだ。
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