Long Day Long Night 37

 

   *

 

「いやぁ、しかし結構なことだねえ」 上機嫌の様子で酒杯を空け、本条兵衛がアレクサンドル・チャウシェスクの肩をバンバン叩く。

「怪我は後遺症を一切残さず完治、医者も三十歳は若くないとあり得ない回復速度だって言ってたしな――いやけっこうけっこう」

「兵衛さん痛い」 そんな会話を聞き流しながら、アルカードはかたわらの神城忠信の猪口に酒瓶の中身を注いだ。

「すまない」 忠信がそう言って、例によって牛蒡の揚げ物をつまみあげる。

 とりあえずアルカードが用意した新居のリビングで、貸主の本条兵衛と神城忠信、風間勢十郎という近所で焼鳥屋を営んでいるという男性、それにチャウシェスク老の店にちょくちょくやってきていたという近隣の住人数人が集まっている。恭輔も参加していたのだが、あまり酒は強くないらしく、すでに潰れてぐったりしていた。

「兄ちゃんはあんまりしゃべらねえなあ」 風間がそう話しかけてきたので、アルカードはかぶりを振った。

「申し訳無い。初対面の人が多いので戸惑ってるだけです」

「そうか? ならいいけど――兄ちゃんはどっから来たんだい」

「出身はルーマニア南部ですが、直接はイタリアのローマから来ました」

「ローマ? カトリックの? それらしい格好してないけど、実は牧師さんなのか」 これは池上という名前の、五十代半ばの禿頭の男だ。少し離れたところで車の修理屋を営んでいるらしく、息子に継がせるために修行させているという話だった。

「いいえ」 アルカードはかぶりを振って、

「私自身は、ヴァチカンの外交官です。危機管理が専門の、アドバイザーとして派遣されてきました」 偽装の身分ではあるが、もう隠す意味も無い――というよりもこの場に偽装を知っている忠信がいるので、下手に嘘をつくとそれもそれでまずい。

 とはいっても偽装の更に偽装、マリツィカの従兄弟であるという嘘を聞かされている本条兵衛もいるので、まるっきりそれを翻すわけにもいかない。

 つまるところ、マリツィカの友人たちが信じ込んでいる『大使館で要人の身辺警護の役職に就いている外交官で、マリツィカの従兄弟アルカード・ドラゴス』という偽装が今のところ一番いい――忠信の知っている事情と本条兵衛の知っている嘘、どちらとも矛盾していない。無論チャウシェスク老は自分と血縁など無いことを知っているし、忠信もアルカードがチャウシェスク家となんの血縁も無いことは恭輔から聞かされているだろう――いちいち口に出すほど口の軽い男たちでもないだろうが。

 牧師というのは清教徒の役職名で、カトリック系のキリスト教では司祭と呼ぶのが正しいのだが、その点に関してはアルカードは訂正しないことにした。

「はー、そんな世界って本当にあるもんなんだなあ」 感心した様な口調でそんなことを言いながら、風間が酒杯をあおる。

 アルカードが酒瓶を取り上げると、風間は礼を言いながら酌を受けた。

「ところで兄ちゃん、爺さんの孫はどうしたんだい。姉ちゃんのほうもいない様だけど」

「デルチャのことですか? 彼女は蘭ちゃんを連れて、彼女の友人とお茶を飲むと言って出かけていますよ」 池上の質問に、アルカードはそう返事をした。猪口が空になっていたので本条の差し入れの酒を注ぎ――盃が半分くらいまで満ちたところで酒瓶が空になる。

「そうか。ちびちゃんに会いたかったんだが、残念だ」

「昼過ぎには戻ると言っていましたが」 新しい酒瓶の封を切っていると、

「――あ、こんにちは」 リビングの入口のところから顔を出したマリツィカが、そう声をかけてくる――相変わらずスタイルの良さがよくわかるセーラー服だ。

「おうマリちゃん、こんにちは。相変わらず美人だねえ」 風間の言葉に、

「なに言ってるの、もう」 パタパタと手を振ってから、マリツィカは彼らの酒杯とアルカードが栓を抜いている酒瓶――ちなみに一升瓶五本目だ――を見遣ってから、

「あんまり昼間からお酒飲むのよくないよ」

「気をつけるよ――気をつけるからこないだのあれ、オニオンブロッサム? だっけ? あれ作っておくれよ」 と池上が返事をする。

「はいはい、ほどほどにね」 着替えてくるからちょっと待ってて、とマリツィカが扉の向こうへ姿を消す。それを見送って、アルカードはすでに空になっている池上の酒杯に新たに酒を注いだ。

「で、爺さん――店は再開出来そうなのか」

「まだわからない――銀行の融資次第だな。昨日退院したばかりだから、それどころでもなかったし。再開出来ればいいが、資金繰りがなぁ――仮に融資を受けられても、たいした金額にはならないだろうし、自力での再開はもう無理かもしれん。同業の知人のところで勤めさせてもらうことになるかもしれない」 老人が酒杯の中で波立つ液体を見下ろして、嘆息する。

「それは残念だ――出来たら再開してほしいがな。俺、あんたの作ったもの好きなんだよ」 と言ったのは、倉田と名乗った男だった。老人の店に肉類を卸していた精肉業者だ。

 二階に上がったマリツィカが、ぱたぱたという足音とともにリビングに降りてくる――ちょうどそのタイミングで玄関のチャイムが鳴り、マリツィカは着けようとしていたエプロンを置いて玄関のほうに歩いていった。

 

   †

 

 やや間を置いて二度目のチャイムが鳴る――少し古い家なので、モニターつきのインターフォンのたぐいはついていない。

 マリツィカはタイル張りの土間に置いてあったサンダルを履いて、はーいと返事をしながら玄関の扉を開けた。

 扉の前に立っていたのは、黒い法衣を纏った日本人の男性だった――見覚えのある顔立ちの男性だ。

「えっと――」

「失礼、在東京ローマ法王庁大使館の神田忠泰と申します。我が大使館の一等書記官アルカード・ドラゴスがこちらにお世話になっているはずなのですが、今はおりますでしょうか」 礼儀正しく一礼して、男はそう言ってきた。それで思い出す――皇居のお濠のところで一度会った、あの銀髪の青年と一緒にいた男だ。

「あ、はい。いますよ。お客さん来てるんですけど、よかったら上がってください」

「いえ、結構です。すぐに戻らなければなりませんので、よろしければ呼んできていただけませんか」

「わかりました」 アルミジュラルミン製の大きなブリーフケースを提げた男性に首をかしげながら、マリツィカは家の中にとって返した。

 リビングで父親の知人たちに交じって酒を飲んでいたアルカードに、

「アルカード、お客さんだよ――ほら、前に皇居のお濠で会った」

「ああ、わかった」 アルカードがそう返事をして、立ち上がる――入れ替わりにリビングに入ってキッチンに歩いていくと、マリツィカは折りたたまれたエプロンを手に取った。

 

   *

 

 意識して一定の歩調で、旅館の廊下を歩いてゆく――絨毯が敷き詰められているので、足音はしなかった。エレベーターをはさんで向かい側の廊下の奥にある男性陣の部屋の前で足を止めると、部屋の中から男女の笑い声が聞こえている。

 神城豆腐店に戻ったとき、アンたちは全員すでに辞去したとのことで家にはいなかった――おそらくは例の周回バスを使って、先に旅館に戻っていたのだろう。

 女性たちの部屋にはアンとエレオノーラはいなかったから、こちらでお酒でも飲んでいるのだろう。部屋の扉をノックすると、ややあって開いた扉の中からフリドリッヒが顔を出した。

「やあ」

「すみません、アルカードはいますか?」

「否、いないよ――まだ帰ってきてない」 というフリドリッヒの返答に、フィオレンティーナはうなずいた。パオラとリディアの消耗が激しかったので、フィオレンティーナは彼女たちと一緒にすぐに旅館に入ったのだ。

 あの異空間で巨樹から降り注いでいた血の様な液体は、女の消滅の影響か服に染み込んだ跡も残さずに消えてしまった。衣服や肌、髪の汚れはかなり心配だったが、幸いなことに一切痕跡は残らなかった。

 でなければ、服から肌から髪から血まみれになったままここまで戻らなければならなかったところだ。とはいえパオラとリディアは戦闘で服が破れたりもしていたので、ここまで帰ってくる間居心地が悪そうではあった。

 アルカードはおそらく宿に着いたときに宣言したとおりに、犬たちを散歩に連れ出しているのだろう。旅館の中に動物を連れ込むのはさすがに認められないので、犬たちは車の中で過ごさせることになる――だからだろう、アルカードは起きている間は出来るだけ犬たちの相手をして、散歩にも頻繁に連れ出してやるつもりらしい。

「ほかのふたりは一緒じゃないの? さすがに酒は駄目だけど、よかったら一緒にお菓子食べない?」 晩ご飯を前にずいぶんと健啖だと思ったが、思ったことを口には出さずにフィオレンティーナはかぶりを振った。それにその点に関しては、旅館に帰ってくる前に通りの喫茶店で洋菓子をご馳走になった彼女も人のことは言えない。

「いえ、ちょっとアルカードに急ぎの用事があって」 誘いを断ると、フリドリッヒは特に気にした様子も無くうなずいた。

「そう」

「ええ、お邪魔しました」

 そっと扉を閉めて、エレベーターのほうへと歩き出す――果たしてすぐに片づかなかったことを残念がるべきか、それとも先送りになったことを喜ぶべきか――だが、いつまでも先延ばしにするわけにもいかないのだ。

 ついあの腕を抱きしめたときのことを思い出して、フィオレンティーナは強くかぶりを振った。連想して、彼に抱きしめられたときのことも思い出してしまう。耳元で感じた息遣い、抱きしめる力強い腕の頼もしさ、羞恥と同時に安堵感も感じさせる体温と体臭。

 なにを考えてるの。

 ぶんぶんかぶりを振っているフィオレンティーナを不思議そうに見ながら、アングロサクソン系の中年の夫婦がすれ違ってゆく。フィオレンティーナは胸の奥から息を吐き出すと、シャンと背筋を伸ばしてから目を閉じた。

 ロイヤルクラシックの血を経口摂取することで形成される回路パスは、吸血を受けることで形成されるそれとはまた性質が異なる――アルカードがそうである様に、フィオレンティーナもやろうと思えば彼の居場所くらいは探れる。

 無論、相手が隠そうとしていれば別だろうが――すぐにアルカードの場所を特定して、フィオレンティーナはエレベーターのボタンを押した。

 隣のエレベーターの扉が開いて、若い男女が降りてくる。フィオレンティーナはそちらのエレベーターに乗り込んで、一階のボタンを押した。

 扉が閉まってエレベーターが動き出し、やがて止まる――旅館のフロントにいた従業員の若い女性が、こちらに気づいて一礼する。それに会釈を返して、フィオレンティーナはメイン・エントランスから外に出た。

 二重になった自動扉を抜けると同時に、潮の香りのする風が吹きつけてきた――少し風が強くなってきている。

 旅館の建物の前にある駐車場には、車が入ってくるのとは別に歩行者用の階段が周回道路に向かって伸びている。道路をはさんで反対側には防波堤があって、その防波堤を越えるとすぐ砂浜だ。ちょっと長めの階段を下りていくと、押しボタン式の信号機と横断歩道、その向こうの防波堤を越えるための階段が視界に入ってきた。

 アルカードはその防波堤の向こうにいる。

 車が来る気配は無かったので信号は無視して道路を横断し、フィオレンティーナは階段を昇って防波堤を越えた。防波堤の反対側は波の勢いを弱めるためだろう、コンクリートで出来た巨大なマキビシの様な形状の塊――テトラポッドというのだ、たしか――が無数に積み上げられている。こんなものが用意されているということは、時化たときには結構強い波が来るのだろう。

 西の水平線に沈みかけた太陽が、空も雲も海も等しくオレンジ色に染め上げている――少し離れた海上にぽっかりと顔を出した巨大なふたつの岩が、それだけがまるで影絵の様にシルエットになっていた。

 同様に砂浜もオレンジ色に染まって、海水浴客が引き上げた中で幾人かの人影がまだ残っている。いずれも恋人たちなのか夕陽が逆光になって黒いシルエットの様になった人々はみな互いに寄り添っており、長い影を浜辺に伸ばしていた。

 その中でアルカードの姿は、すぐに見分けがついた――ひとりでいるのは彼だけだったし、なによりかがみこんだ彼の足元で三匹の犬たちが戯れている。

 フィオレンティーナの接近には気づいていたのだろう、アルカードはその場で立ち上がってこちらに視線を向けた。陰になって表情は窺えなかったが、気配からすると笑ったらしい。

「よう、散歩か」

「ええ」 そう返事をして、彼のそばに歩み寄る――フィオレンティーナに気づいて尻尾を振っている犬たちのそばにかがみこんで手を差し出すと、彼女たちはうれしげに差し出された指先を嘗め始めた。ひとしきり嘗めさせてから、手を引っ込めて立ち上がる――そのまましばらくの間黙ってオレンジ色に染まった海を眺めていると、

「……なにか怒ってるのか?」

 別に沈黙に耐えかねたわけでもないのだろうが、かたわらの吸血鬼が気の進まなさそうな口調でそう問うてきた。

「いいえ」

「嘘つけよ、すげえ怒ってるじゃないか」

「怒ってません」

「じゃあなんでそんな仏頂面なんだよ」 整った眉をひそめて、金髪の吸血鬼がそう聞いてくる。そんなにむっつりしていただろうかと思いながら、フィオレンティーナは肺の奥から息を吐き出した。

「その、なんだ。俺がなにかして怒ってるんなら謝るからさ、頼むから蘭ちゃんや凛ちゃんの前でだけでいいからにこにこしててやってくれ――金を出した爺さんや、楽しみにしてた子供たちが可哀想だからさ」

 その言葉にちょっとだけ表情を緩めて、フィオレンティーナは吸血鬼に向き直った。

「ええ、それは誓います――でもアルカード、これも信じてほしいんですけど、わたしは本当に怒ってないんですよ。ただちょっと心の準備をしてるんです。もうすぐ終わりますから、あと少しだけ待っててください」

「?」 アルカードが――昼間口にした言葉など忘れたかの様に――軽く首をかしげる。

「そうなのか? なんの準備か知らないが、まあゆっくり準備しててくれ」 そう言って、アルカードは犬たちに引っ張られるままに歩き出した。

 小さく息を吐いて、そのあとについて歩いていく。

 砂に埋もれた貝殻に鼻面を近づけて匂いを嗅いでいるソバと足首にしがみつく様にしてじゃれついているウドンとテンプラを穏やかな笑みを浮かべて見下ろしているアルカードの横顔を見つめながら、フィオレンティーナは掌で軽く太腿を叩いた。

 はお礼だ。ただのお礼だ。ただ単に、彼がお礼はがいいと要望してきたから、彼が自分の頼みを聞き入れ、約束を守ってくれたことに対する感謝のしるしとして、自分はその要望に応える。それだけの話だ。

 ならば早いほうがいいし、むしろこれ以上先送りにするよりも、このままここで済ませたほうが都合がいい――少なくとも周りに知人は誰もいないし、残っている人たちにはシルエットは見えても顔までは識別出来ないだろう。見分けがつかなければ、自分たちと同様にただ一緒にいるだけだと思って終わりのはずだ。三匹の犬という特徴があるからアルカードのことは記憶に残るかもしれないが、少なくとも彼女を識別することは出来まい。

「アルカード」

「ん?」 呼びかけに反応してアルカードが振り返るより早く、フィオレンティーナは彼のそばに近づいた。肩に手を掛けて彼の上体をちょっとこっち側に傾け、そのまま背伸びをしながら手を伸ばす。両腕で彼の首に絡みつかせる様にして抱き寄せ、一瞬だけ目を閉じて、フィオレンティーナは彼の頬にかすめる様にして唇を触れさせた。

 その行動がよほど意外だったのか、アルカードが目を丸くしてこちらに顔を向ける――その鼻先に指を突きつけて、フィオレンティーナは羞恥に頬を染めながらまくし立てた。

「いいですか、今のは貴方が報酬に要求してきたから、お礼としてしたのであって、それだけです。それ以上の意味はなんにもありません、いいですね!」 頬が熱い。きっと今、自分は耳まで真っ赤になっているだろう。夕焼けがそれをごまかしていてくれることを祈りながら、フィオレンティーナはくるりと踵を返して彼に背中を向けた。

「さ、帰りますよ。旅館の人が晩ご飯は六時半だって言ってましたから、そろそろ帰らないと間に合わなくなります」 背中を向けたままそう言って、フィオレンティーナは歩き出した。おとなしく後ろからついてきているのだろう、サクサクという足音が背後から聞こえてくる。

 しまった――約束を守ってくれたことに対するお礼もちゃんと言うつもりだったのに、機を逸してしまった。先に言えばよかった。

 ちゃんと感謝の言葉を述べるべきなのだろうが、今はなにも話しかける気になれない。きっと今振り返っても、彼の顔をまともに見られないだろう。だから振り向いて話しかけたりはせずに、フィオレンティーナはそのまま歩き続けた。

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