In the Distant Past 36

 

   2

 

 翌朝六時半ごろ――

 風祭咲夜はいつもどおり、愛犬のコロを連れて公園に足を踏み入れた。

 高台公園というそのまんますぎる通称で呼ばれる公園はちょうど高台の半分を削り取った結果出来た崖の様な地形の上に造成されており、落差五十メートルの崖側からはその下に広がる高級住宅地の様子を一望することが出来る。

 公園そのものは結構古くからあるのだが、子供が事故を起こすたびにPTAや市会議員が難癖をつけた結果滑り台とブランコと大人の背丈くらいのジャングルジム、穴の開いたドーム状のコンクリート――名前はなんというのだろう――とシーソーくらいしか残っていない。

 その昔この公園に設置されていたジャングルジムから落ちて肩を脱臼し、ターザンロープでアーアアーと叫びながら転落して脚を骨折し、グローブジャングルから転げ落ちて頭を打って大出血して五針縫った思い出のある咲夜としては、どうにも拭いがたい寂寥感がある。怪我の思い出しか無いけど。

 その寂寥感に拍車をかけるのが、大型遊具の撤去されたあとのスペースになにも無いことだろう――代わりになにか遊びがいのある遊具が設置されるわけでもなく、かといって空いたスペースがなにか安全な遊び場として再利用されるわけでもない。結果、まるで広い体育館にひとり取り残されたときの様な寒々しい空気が漂っている。間にある遊具が撤去されたために遊具同士の間隔がやたらと広くなっているのも理由のひとつだろう。

 そんな公園に足を踏み入れて周りを見回したとき、咲夜は見慣れた風景の中に普段は見かけない異物が紛れ込んでいるのに気づいた。

 色の濃いジーンズに季節感の無い黒いレザージャケットを羽織った外国人の青年が、崖の部分に設けられた丸太を模して塗装されたコンクリート製の柵に腰かけている。獅子の鬣を思わせるあでやかな金髪が、折から吹き抜けていった風に揺れた。

 珍しいなぁ、と思いながら眺めていると、それまで眼下に広がる住宅街を見下ろしていた金髪の青年がこちらに視線を向けた――足元に寄って行ったコロのリードを引き戻そうとするより早く、金髪の若者がかがみこんで彼女の鼻先に指を差し伸べる。

「あ、すみません」 思わず日本語でそう言ってから、彼は日本語が通じないのではないかと思い直す。今度は英語で話そうと口を開きかけたとき、金髪の青年は若干たどたどしい日本語で答えてきた。

「いいえ」

 コロはすでに金髪の青年の指先に興味を失って、彼が腰かけている柵――細めの丸太を模した感じのごつごつした形状で、茶色く塗装されている――の根元に鼻面を近づけて匂いを嗅いでいる。金髪の青年は肩をすくめて、柵の欄干の一番下の横木と地面との間の開口部を塞ぐ様にして設置された、茶色に塗装されたパンチングメッシュの鉄板――犬や子供が転落しない様にするためのものだ、もちろん――の匂いを嗅いでいるコロから視線をはずし、再び眼下の住宅街を見下ろした。

 コロはそのまま柵に沿って公園の敷地の端のほうにある四阿のほうへと歩いていき、咲夜もそのあとを追って歩き出す。離れ際に一礼すると、その動きに気づいていたのか金髪の青年は会釈を返してきた。

 彼から視線をはずして四阿のほうに数歩歩いたところで崖下の住宅街から轟音が聞こえてきて、咲夜は驚いて足を止めた――眼下の住宅街の邸宅のひとつから、火の手が上がっている。

 家の建物とつながってシャッターつきのガレージがある――あった様だが、そのガレージの屋根が崩落しているのがわかった。天井の崩壊したガレージから炎が見えているのは、ガレージ内にあった車が爆発したのだろう。

 視線をめぐらせたときには柵に腰かけていた金髪の青年の姿は無く――金髪の青年?

 自分がなぜそんなことを考えたのかわからずに、咲夜は首をかしげた。

 先ほどまで柵に誰かが腰かけていた様な気がするのだが。だがまったく記憶が無い――どうしてそんなことを思ったのだろう。

 疑問に思ったもののその疑問すらも意識から溶けて消え、咲夜はひとり混乱したままその場で立ち尽くした。

 

   †

 

 若林源蔵は、マックス製薬のキメラ開発部門の主任研究員だ――ES細胞、所謂胚性幹細胞にかかわる研究で博士号を取得し、特にすでに組織として分化した体細胞を幹細胞に戻して別な組織に分化させることをテーマにした研究を長年続けてきた。

 損傷した組織を一度幹細胞に戻して再び完全な形の体組織に戻すという目標を掲げて、胚性幹細胞と体性幹細胞の研究を続けてきたのだ。

 完成すれば、すでに分化した組織を幹細胞に戻して別な組織に分化させることも、もちろん同じ組織に分化させることも出来る。たとえば近視状態の眼球をいったん幹細胞に戻して、正常な状態の眼球に造り替えるといった様なことだ。

 しかし大学は彼の研究が遅々として進まないことに業を煮やし、研究資金の打ち切りを宣言した――若林はこの研究が成功すれば角膜移植等一部の分野では外科手術そのものが不要になると説得したのだが、実際の研究は資金の不足と機材の不十分から遅々として進まず、さらに研究資金の打ち切りを宣告されたことで事実上立ち行かなくなっていた。

 マックス製薬の社長である巻島玄蔵が秘密裏に接触してきたのは、その時期のことだった。

 巻島はすでに組織として分化した体細胞を肉体にとどめたまま幹細胞に戻し、それを再び分化させるという研究に強い興味を示し、研究チームごとマックス製薬に引き抜いたのだ。

 そこで引き合わされたのが、グリゴラシュ・ドラゴスという人物だった。

 彼が何者なのかはわからない――だが彼が提示してきた研究テーマと研究資金は魅力的だった。

 彼が提示してきたテーマは、生物兵器の開発だった。

 彼がキメラと呼ぶ、肉体に様々な武装を組み込んだ生体兵器。

 体内にレーザー発振器を備えた『生きたレーザー砲台』。

 重戦車を捻り潰す様なパワーを誇る、筋肉の塊の様な怪物。

 高周波数で振動することで、理論上あらゆる物体を斬り裂き貫く刃を持った生き物。

 全身にコレクター・フィンを持ち、周囲の水素を取り込んで発電する『生体燃料電池』を備えた怪獣。

 若林に与えられたテーマは、グリゴラシュ・ドラゴスがどこからか持ってきて提示した既存の研究データに若林の研究を応用して、より強力なキメラを、より短い期間で開発することだった。

 そしてそれを応用し、今度は生きた人間をキメラへと変化させること。

 同時に、グリゴラシュが彼に提示したテーマがひとつ。

 彼のもともとの研究分野である体内に存在する体組織を幹細胞に戻して再度分化させるというテーマを応用し、筋力増幅型というひとつのカテゴリーとして完成したキメラが必要に応じてレーザー発振器や高周波ブレードといった装備を形成出来る様にすることだった。すなわち戦況の変化に対応した、タイプそのもののその場での切り替えである。

 グリゴラシュは研究が決して公の場に公表されない代わりに、莫大な研究資金を提示してきた。腰を抜かす様な金額だった――研究チーム全体に対して、日本の国家予算とほぼ同額を提示したのだ。それも総額ではなく、年間の金額である。

 当然ながら高価なスーパーコンピューターもいくつも購入し、すでにある程度完成した厖大な研究データを引き継がされ、それまでとは桁違いのペースで研究を進められる様になった。

 与えられた先人の研究データは、途轍もなく重要なものだった。

 どうやらステイル・エン・ラッサーレやウォード・グリーンウッドといった名前も知らない何者かの残した研究データである様だが、彼らはそれぞれ独自の視点から生体兵器の研究を突き詰めており、非常に示唆に富む内容だった。

 研究の内容に怖気づく者もいた。この提案を受け入れれば、彼らの研究内容は医療用途の万能細胞から生体兵器開発プロセスの一部へと方針を転換することになる。

 グリゴラシュ・ドラゴスは提案を辞退した研究スタッフを追わなかった。だが数日後、彼が車に轢かれて死んだという話を大学時代の友人を経由して人伝に聞いた。口封じのために殺されたのだという誰かの口にしたブラックジョークを、誰も否定せず笑い飛ばしもしなかった。

 だが、若林は辞退はしなかった。なにしろ年間七十兆超という莫大な資金のバックアップを受けながら、自分の研究テーマに打ち込めるのだ。

 ノーベル医学賞や生理学賞を取得した研究者が毎年数人補充され、数年でマックス製薬本社ビル内に大規模な研究施設をふたつかかえる様になった。

 自分の研究を応用して、提示されたスペックどおりに複数のタイプにその場で自己調製可能なキメラの試作体も完成させた。

 本来の研究目的である医学への応用など、もはやどうでもよくなっていた。

 自分が造り上げた怪物が、どんな目的に使われるのかも興味は無かった。潤沢な研究費と、自分の研究が認められること、それが彼の目的そのものにすり替わっていた。

 だが――

「あなたー」 聞き慣れた妻の声に、若林はまどろみの中から引き戻された。

 今日は新型のキメラ――ゼンクルスの覚醒実験の日だったな――

 そんなことを考えながら、ベッドの上で体を起こす。主に除湿を目的として稼働させていたエアコンのおかげで、すでに電源は切れているもののまだ室内はひんやりとしていた。

 パタパタという足音が近づいてきたあといつもより乱暴に寝室のドアが開けられて、エプロンをつけたままの妻が顔を出した。

「あなた、大変よ」

「?」 首をかしげて、枕元の目覚まし時計に視線を投げる――早朝六時半。いつもなら妻は朝食の準備を整えたあと、六時四十五分ごろに彼を起こしに来る。普段ならあと十五分は寝ていられるのだが。

「どうした? こんな時間に起こしに来るなんて」 欠伸混じりのその質問に、彼女は普段は見せない焦燥を浮かべたまま、

「大変、あなたの会社で爆発が起こったって」

「なんだって?」 その一言ですっかり目が醒めて、若林はベッドから降りた。妻に続いてパジャマのまま急ぎ足でダイニングまで移動すると、テーブルの上にサラダだけが盛りつけられた皿が並べられている。どうも朝食を作る最中に片手間に聞いていたニュースに驚いて、作業を中断したらしい。

 テレビに映っているニュースの内容はすでに切り替わっており、妻が驚いて彼を呼びに来たときのニュースではない。彼女がリモコンを取り上げて何度かチャンネルを切り替えると、テレビ東京系のニュース番組に切り替わったところで目的の映像が表示された。

 しゃべっているアナウンサーの背後にピクチャインピクチャで表示されている映像に映っているのは、確かに彼が職場としているマックス製薬の本社ビルだった――ビルの基部から上層部を見上げる様なアングルで映されたその映像の中で、外壁に大穴が穿たれている。

 あの高さ――レベル4実験室ラボのあたりじゃないのか……!?

 若林は妻のほうを振り返り、

「京子、すぐに出勤する。今日は朝食はいらない」 そう告げて、再び寝室に取って帰す。

 すでに用意されていた着替えを手早く着込んで洗面所に向かい、歯磨きは省略してモンダミンだけ使って嗽をしてから、若林は髪と髭を整えるのもそこそこにガレージに向かった。

 三ヶ月ほど前に納車されたばかりの新車のクラウンが、家の建物とつながったシャッターつきのガレージの中で鎮座している――妻が出かけるのに使う彼女お気に入りのスズキの軽自動車を除いてはほかに特になにも無いのは、自分でメンテナンスをする気はゼロだからだ。

 見慣れたクラウンのドアを開けて運転席に体を滑り込ませ、小物入れの中に入れてあった電動シャッターのリモコンを操作すると、モーターの駆動音とともにシャッターが巻き上げられ始めた。

 シャッターが開くのを待っている間にフロントピラーのそばのデフロスターのルーバーに差し込む様にして保管してあったキーを手にとって、うまく刺さらないことに苛立ちながらキーシリンダーに挿し込む。

 キーをひねったと同時、轟音とともに視界が真っ赤に染まり――次の瞬間激痛を感じる間も無く、彼の意識は消滅した。

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