In the Distant Past 37

 

   *

 

 同日七時半ごろ――

 わずかなブレーキ鳴きの音とともに、黒いジープ・ラングラーが有料駐車場に入ってくる。

 駐車場勤務員の川村隆はそれを見遣って、手元の黄色い駐車券をプリンターに差し込んだ。

 ガチャンという音とともに駐車券に現在時刻が印字される。川村はそれを確認してからジープのナンバープレートの下四桁をボールペンで駐車券に書き込み、詰め所に近づいてきた同僚の湯浅に手渡した。

 湯浅が駐車券を手にラングラーに近づいていき、誘導員の朝倉の指示に従って定位置に停車したジープの運転席から降りてきた若い外国人の男に何事か話しかける。湯浅は英語が得意なので、外国人でもまったく物怖じしない――が、時折聞こえてくるのは若干たどたどしいものの語彙はしっかりした日本語だった。

 湯浅が駐車券をミシン目に沿って半分に切り取り、半券をドライバーに手渡してから残り半分をジープのワイパーにはさみ込む。獣の尾を思わせる暗い色合いの金髪を長く伸ばした外国人の若者は受け取った駐車券をダッシュボードの上に放り出し、ジープ・ラングラーのバックゲートを開け放って、巨大な樹脂製のハードケースを引っ張り出した。幅はおおむね六十センチ、長さは一・六メートルほどもある。厚みは二十センチあるかないかというところだった。

 バックゲートを閉めてドアをロックし、金髪の青年が歩き出す――馬鹿でかいケースになにが入っているのだろうと思ったが、ものの数秒後には彼らはその疑問を忘れていた。

 

   †

 

 耐衝撃製の高い樹脂製のケースのキャリングハンドルを握り直し、アルカードは前方から歩いてきたサラリーマンとすれ違うために歩道を右に寄った。片手にビジネスマン向けのアタッシェケース、もう一方の手にはペーパーバックを持っており、前方をちらちらと確認しながら手にした文庫本を読んでいる様だった。

 物々しいオリーヴ色のハードケースを不思議そうに見ながら、こちらの動きに気づいたサラリーマンが歩道の反対側にちょっと寄る。彼はすぐにこちらには興味を失って、歩き読書を再開した。

 少し歩いた先に、まだ鉄骨を中途半端に組んだだけの建設中のビルがある。鉄骨自体はある程度の高さまで組み上がっており、これから行う用には十分に足りる。

 ここにするか――胸中でつぶやいて、アルカードは工事現場のパーティションの前で足を止めた。

 パーティションの前に設置された掲示板に、昭和建設という会社名とともに工事期間や施工業者、元請けなどの情報が書き込まれている。特に興味は無かったので、アルカードは工事現場に隣接するビルの前に置かれた自販機の前でコーラを飲んでいる若い男に視線を向けた。

 あの若者は邪魔だ。

 自分とそう外見年齢の変わらないその青年はコーラを飲みつつこちらに視線を向けていたが――否、体をこちらに向けているから顔もこちらに向いているだけで、別に彼を注視しているわけでもないのだろうが――、こちらと視線が絡んだ瞬間に気まずかったのか明後日の方向に視線をそらした。

 とはいえ、若者の目の前で行動を起こすわけにはいかない。胸中でつぶやいて、アルカードは若者のそばにある自販機に歩み寄った――別に飲み物がほしかったわけではない。若者が立ち去るまでの間、不自然にならずに間を持たせたかっただけだ。

「失礼」 そう声をかけて、コカ・コーラの自販機に小銭を入れる――購入した缶コーヒーの封を切ったとき、彼は空き缶をゴミ箱に放り込んで踵を返した。

 そうだ――いい子だ。

 アルカードは一息で飲み乾した缶コーヒーの空き缶をゴミ箱に投げ込んで元来た方向に引き返し、パーティションの前で足を止めた。

 手にした樹脂製のハードケースを両手でかかえる様にして跳躍し、パーティションを跳び越える――背面跳びの要領でパーティションの上端を越え、現場の敷地内に着地すると、アルカードは周囲に視線を走らせた。まだ今日の現場が始まっていないのだろう、パーティションの内側に人の気配は無い。

 まだ各フロアに鉄板は敷かれておらず、張りめぐらされた鉄骨があるだけだ。まあ、そのほうがアルカードとしても都合がいい――フロアごとに鉄板が敷かれていたら、階段を昇っていかなければならなくなる。

 アルカードは地面を蹴って跳躍し、何度か鉄骨を蹴って跳ね返る様にして跳躍しながら現時点での屋上からひとつ低い鉄骨の上へと降り立った。

 それが屋上になるのか、それとも一時的なものなのか、アルカードが今いる最上部よりひとつ低い鉄骨のもうひとつ上には、分厚い鉄骨を交差させる様にして組んだ強固な梁の上に載せる様にして分厚い鉄板が敷かれている。アルカードは鉄骨の外側から鉄板のへりを廻り込む様にして跳躍し、屋上の鉄板の上に降り立った。

 彼が今からやろうとしていることには、実のところ屋上は向いた場所だとはいえない――上空を飛ぶヘリコプターや、より高い建物から俯瞰した場合に容易に発見されるからだ。

 だがこの建設途中のビルが、この一帯ではもっとも高い建物だ――周囲の建物から発見される恐れは無い。ヘリコプターに関しては――まあ、事件でも無ければそうそう飛んでいまい。もし捕捉された場合は、教会を通じて日本政府に強権を発動させるのが一番確実だ。

 ほかのビルの屋上がいくつも連なる向こう、七百メートルほど先に首都高速が見えている。

 折から吹き抜けていった風が、金髪をふわりと揺らす。それにはかまわず、アルカードは太い鉄骨で造られた梁の上に敷かれた鉄板にハードケースを置いて蓋を開けた。

 型どりされたウレタンスポンジで造られた衝撃吸収材の中に、ヘッケラー・アンド・コッホPSG-1セミオート式狙撃システムが納められている。

 PSG-1はドイツのヘッケラー・アンド・コッホ社によって開発されたドイツ製のスナイパーライフルで、GSG-9をはじめとする対テロリスト・チームや警察強襲部隊向けに開発された狙撃銃だ。

 ミュンヘンオリンピックの際にイスラエル選手団の選手村宿舎が襲撃され、最終的に選手全員が死亡する事態となった黒い九月ブラック・セプテンバー事件のあとで対テロリスト・チーム第九国境警備隊、通称GSG-9が創設された際に、その選抜と訓練に並行して行われたトライアルのためにオーダーが出されたものだ。

 HK G3アサルトライフルをベースにして開発された狙撃システムであるPSG-1は、ヘッケラー・アンド・コッホ社がHK G3シリーズのシステムウェポンで培ったディレイド・ブローバック技術をはじめとする当時の業界最高水準の技術が惜しみなく投入されている。

 ひとつ欠点を挙げるとするなら消炎減音器マズルサプレッサーの使用が想定されていないことだが、監視と状況決着を主な任務とする対テロリスト・チームに供給することを想定したPSG-1には本来必要無いものでもある。

 どのみち音速の二倍を超える銃口初速マズルヴェロシティを誇るライフル弾を使用する狙撃銃の場合、どんなに高性能のサプレッサーを組んでも――弾頭が音速を超えて飛翔する際のソニックブームを消すことが出来ないために――拳銃で使用したときの様な高い効果は期待出来ない。

 そのためライフル用のサプレッサーの主な用途は銃口炎マズルファイアを消すことと発射ガスの膨張の際に発生する破裂音の周波数を下げること、音を減衰させることで――そしてそれらが重要になるのは野戦であって対テロ任務ではない。

 だが、もちろんそれらが重要になる状況が無いわけでもない――まあ少なくとも、無いよりはあったほうがいい状況は往々にしてありうるものだ。そんなことを考えながら、アルカードはキャリングケースの中に納められていた巨大なサプレッサーを取り上げ、PSG-1の極太の銃身の外周に直接切られたねじ山に捩じ込んだ。

 これを手にすると、自分がGSG-9に所属していたころに戻った様な錯覚に囚われる――当時の観測手として戦闘任務をともにした戦闘員がかたわらにいれば、なにも言うことは無いのだが。

 胸中でつぶやいて、アルカードは口元をゆがめた――もう二十年は顔を合わせていない彼はすでに五十代半ばのおっさんになって、今は当時の経験を生かして高度な技量を誇る隊員から構成された警備会社を経営している。

 もう二度と会うことは無いだろう――もう一度肩を並べたいと思う様な親しく信頼している人間だからこそ、出来れば会わずに人生を終えてほしい。また自分は置いていかれるのだということを、否応無しに自覚させられなくて済むからだ。

 胸中に浮かんだ寂寥感と自己嫌悪を振り払う様にかぶりを振って、アルカードはケースの中から弾薬がぎっしり詰め込まれた弾倉を取り出した。PSG-1に限らず、七・六二ミリのNATO規格弾を使用するHK G3系列のライフルはすべて弾倉の共用が利く――MP5も含めたG3系列の火器はストック形状と三点規正射バースト機能の有無によって1から6までの番号があるが、そのすべてで互いにストックの交換が可能だったり、ほかにも共用部品が数多い。操作方法もすべて共通しており、MP5の様な規格の異なる製品も含めてどれかひとつの扱いに習熟すれば他の銃もひととおりの扱いはこなせる。

 それがヘッケラー・アンド・コッホの虎の子であるウェポン・システムの特徴で、軍用火器メーカーとして最大の強みでもあり、また高い先見性の証左でもある。

 アルカードが手に取ったのは二十発入りの箱型弾倉で、G3アサルトライフルに使用されるものだ。全長が長すぎて伏射プローン射撃体勢ポジションでは邪魔になるのだが、膝射ニーリングなら問題にならない――もともと咄嗟の行動に制限が出ることを嫌って現役時代から伏射プローンより膝射ニーリング体勢ポジションを好んでいたアルカードとしては、装弾数B R Dが増えるというメリットはあってもデメリットは無い。

 アルカードはPSG-1のフィーディング・リップに弾倉を当てがうと、軽く弾倉の底を叩いてから銃本体を寝かせてコッキングレバーを引いた。じゃきっと音を立てて後退したボルトが復座し、自分で装薬の調合を決めて薬莢に詰めた手製の専用弾薬を薬室に送り込む。

 試行錯誤を繰り返して調合を決定し、自分の納得いくまで吟味に吟味を重ねた装薬と高精度の弾頭、薬莢、雷管を組み合わせた、彼の所持するPSG-1専用の弾薬だ。ほかの銃ではたとえ同型機種であっても、この銃で使うのと同等の性能は発揮しない。

 それは銃そのものもだ。このPSG-1はこの弾薬と組み合わされて使用されてはじめて、最高の性能を発揮する。

 オリジナルのPSG-1をベースにカスタム・メイドでいろいろオプションを追加した結果総重量十キロを超えるメルセデスの様に重い狙撃システムを膝射ニーリング体勢ポジションで軽々と肩付けし、アルカードは高倍率の光学照準器の接眼レンズを覗き込んだ。

 

   †

 

 合流をしくじって、岬太朗は小さく舌打ちした――走行車線に移動しようとしたとき視界に入っていなかったホンダの黒いオートバイが、クラクションを鳴らしながら脇をすり抜けていった。

 くそっ。小さく毒づいて今度こそ車線変更を終え、岬は左手でつまむ様にして持っていた缶コーヒーを右手に持ち替えた。拳の小指側でハンドルを抑えつける様にして保持したまま、左手でプルトップを開ける。

 岬太朗は東京都庁からそう離れていない場所にある、マックス製薬という国内最大手の製薬会社のとある研究室に所属する、三人いる研究副主任のひとりだった。

 しかし、製薬会社の研究室勤務といっても、彼の仕事は新たな医薬品の開発ではない。

 彼らが開発しているのは、兵器だった――核兵器でもなければ毒ガスでもなく、人間よりいくらか大きいだけの体に航空機を単体で撃墜するレーザー砲やあらゆる物体を斬り裂く刃、重戦車をひっくり返すほどの圧倒的な膂力を備えた生物だ。

 彼らは人間の女性を使って自分のコピーを増やし、解き放たれればものの十数時間で一大軍団を形成する。

 それを開発する様依頼してきたのは、グリゴラシュ・ドラゴスと名乗るラテン系の長身の偉丈夫だった。

 彼は年間数十兆円、国家予算に匹敵する金額の資金を提示し、数人の先人が蓄積した貴重な研究データをもたらし、岬を含む研究者たちに資金力にものを言わせた世界最先端の研究環境でその研究を引き継ぐ様依頼してきた。

 条件は研究内容を他言しないこと、研究データを提出すること。

 岬の研究内容は、クローンに関するものだった。

 クローン元の動物の細胞核を未受精卵に移植することによってクローンを作成する方法を、核移植という。

 クローン元の動物の細胞核が生殖細胞、つまり胚細胞由来の場合は胚細胞核移植、体細胞由来の場合は体細胞核移植と呼んで区別するのだが、岬の研究分野は胚細胞核移植がメインだった。

 グリゴラシュ・ドラゴスがキメラと呼んだ生物兵器たちはいったん戦場に放り出されれば人間の女性を襲って自分の複製を増やすが、その放り出すキメラを造らなければならない。

 あるいは女性の体に植えつけるための胚を取り出すためのキメラを、だ――キメラは人間の女性を襲って自分の複製を増やす。母親の遺伝子を受け継いでいない、文字どおりの複製をだ――キメラの体内にある生殖器では受精済みの卵子に似た配偶子が作られており、キメラ学上これを胚と呼ぶ。

 胚は人間の女性の胎内に膣から挿入されて子宮に達すると胎盤を形成、ホルモンバランスを狂わせて妊娠時と似た様な状態にするのだ。

 胚は着床し胎盤を形成すると胎盤を介して母体から栄養やカロリーを根こそぎ奪い取りながら急速に成長、最終的には――母体が急激な消耗と栄養失調によって出産前に死んでしまうために――母体を喰い破って生まれてくる。

 現状において想定されているキメラの投入の方法は二パターン。

 ひとつは調製槽から出したキメラをそのまま放り込むこと。この方法の場合、キメラは投入直後から十全の戦闘行動が可能になる。その一方で繁殖に失敗した場合、あるいは母体になる人間の女がいない場合、数がそろわない。

 もうひとつの方法は現地の女性を攫い、性器からキメラの胚を挿入して妊娠させることだった。冷凍保存したキメラの胚はクーラーボックス等に入れて持ち歩く必要があるのでかさばるが、その一方で何百という数を持ち歩くことが出来る。

 キメラを持ち運ぶ方法として主に想定されているのは、後者の方法だった。

 キメラ胚を取り出すためにはその産生元――つまり完成したキメラが一体は必ず必要になるのだが、そのキメラの製作にはヒトの未受精卵が使われる。

 研究者は様々な生物の遺伝子や、あるいはオリジナルで製作した遺伝子配列を組み込んだ細胞核を作り、これを未受精卵に組み込んで成長させることでキメラを造り出す。

 彼の担当する研究分野は別のチームが製作した細胞核を未受精卵に組み込み、それをいかに望む機能を持つ様に成長させるかということだった――受精した卵子を人工子宮としての役割を持つ調製槽の内部で成長させ、薬品投与や電気刺激等を用いて望んだ機能を持って正しく成長する様に誘導するのだ。

 そして、その実験はある程度実りつつあった――彼らはある程度の成功率で高い能力を持つキメラの調製に成功し、胚を取り出す段階には至っていないもののある程度自在に望む能力を持つキメラを調製するに至っていたからだ。

 だが、それらの研究成果が露顕する危険が生じた。

 つい一時間ほど前の話だが――朝のニュースで、マックス製薬本社ビルで爆発が起きたと報じられたのである。

 まずい――まずいぞ。焦燥に駆られて奥歯を噛み、岬はハンドルを握る手に力を込めた。

 テレビ映像を見る限り、レベル4実験室ラボのあたりの外壁に穴が穿たれていた。一応外部から見えなくする様に穴を塞がれているし、内部の様子を外から窺ってもなにをしているのか見当もつかないだろうが、それでも――

 普段使っている出口のひとつ手前、見慣れた高速道路の出口の標識が視界に入ってきたところで、岬は無意識のうちにハンドルを握り締めていた指の力を緩めた。

 この標識が見えてくれば、岬が降りる出口はその次だ。

 高速道路の出口の分岐が視界に入ってきたところで、岬は前を走っていた180SXが左のウィンカーを出し始めたのに気づいてバックミラーに視線を向けた。車間距離が十分に開いているので減速の必要は無いと判断し、スピードを緩めることなくあとに続く。

 出口付近は右に向かって緩やかな弧を描くカーブになっているので、180SXはちょうどそのラインから振り出される様にして出口に通じる分岐に出る。

 180SXが出口側のレーンに入って前方が空いたので少しだけアクセルを開きながら出口前を通過しようとしたとき、ちょうど正面に位置するビルが一瞬視界に入り――建設途中らしく昭和建設というシートが張られたビルの屋上で、なにかが光った様に見えた。

 次の瞬間ぱぁんという破裂音に続いて車体の左前部ががくりと沈み込み――同時にガガガという振動がハンドルから伝わってくる。

 ――タイヤがパンクした?

 先ほどまでとは違う焦燥に意識を焼かれながら、ハンドルを握る手に力を込める――そしてハンドルを切ろうとするより早く再びぱぁんという音とともに別のタイヤが破裂し、彼の操るBMWは完全にコントロールを失った。

 先ほどの前輪のパンクでコントロールを失いわずかに左に進路がそれていたのだが、もはやそれを修正することも出来なくなった。BMWは派手にスピンしながら高速道路の車線と出口に通じる分岐レーンの間の防音壁のV字状の分岐部分に側面から突っ込み、ちょうど運転席側から激突する形になって――コンクリート塊に激突する轟音とともに車体に強烈な衝撃が加わり、ボキボキと音を立てて数ヶ所の骨が折れるのがわかった。

 それでようやく車体が止まり――無慙にひしゃげた車室キャビンの中でシートに縛られたまま、岬は小さくうめいた。運転席側の窓硝子が割れたためか、じっとりとした夏の風が車内に吹き込んできている。

 右腕の感覚が無い。側面からの衝突の瞬間にこめかみをどこかにしたたかに打ちつけたためか、意識が朦朧として視界が二重三重にぶれて見えた。瞬間的に首に負荷がかかったのか、首の左側から左肩にかけてがひどく痛む。

 左腕は折れているのか、動かそうとすると激痛が走った。息を吸おうとするが息苦しく、胸が動くたびに激痛が脳を焼く。両脚は無事な様だが、この状況ではなんの意味も無い。

 痛い。痛い。痛い。それ以外のことをなにも考えられないまま、岬は苦悶に身をよじった。しかしそれが新たな激痛をもたらして、余計な緊張を抑えて力を抜くことも出来ない。

 それでも、それだけならまだ助かる望みはあるのだと信じることは出来ただろう。それが神の御業かあるいは何者かの悪意か、それはわからないが、結局彼に救いの御手は差し伸べられず、岬太朗の人生はここで終焉を迎えることとなった。

 バチュンという金属同士の衝突音とともに車体に衝撃が走り、次の瞬間視界が紅蓮に染まって高熱が全身を包み込む。

 車が炎上したのだということを、戦慄とともに理解する。全身を炎の舌が舐め、服が燃え出してその下の肌を焼いてゆく。幸いだったのは車内の酸素が瞬時に消費し尽くされたために、岬の意識はものの数秒で失われたことだけだった。

 

   †

 

 きんっ――排莢口から弾き出された七・六二ミリ口径のNATO規格弾の空薬莢が、分厚い鉄板の上で跳ね回る。幸いなことに鉄板は十分に広く、空薬莢が落ちてゆく気遣いは無い。問題無く回収出来る。

 第一弾で左前輪をバーストさせられたBMWがコントロールを失って、運転席でハンドルにしがみついた三十代後半の男が表情を引き攣らせているのがわかった。

 一瞬で照準を決め、わずかに目を細める――左目は閉じない。片目を閉じると神経に負担がかかる。

 用意しろ。息を吸え。存在するのはターゲットだけだ。目標を定めて、静かにトリガーを落としてゆく。ボルトが後退する際の衝撃に自分でも驚くくらいにそっと撃つというのが、もう三十年以上前から続けているいつもの狙撃のテクニックだった。

 秒速八百メートルにも達するNATO規格のライフル弾を使用するライフルでサプレッサーを使用する理由のひとつは、音の周波数を下げることだった。

 耳を劈く様な高音域の破裂音は非常に指向性が高く、方向を悟られやすい。対して低周波音は周囲に広がりやすく回折も起こしやすい傾向があり、音源の方向の特定が難しい。

 驚くほどに低い周波数帯まで減衰された銃声と、対照的に空気を引き裂いて飛翔する銃弾の耳を劈く様な高音域の破裂音とともに、BMWのタイヤがもうひとつ破裂する――憐れな運転手は完全にコントロールを失い、制御下から離れたBMWが派手にスピンして運転手側の横腹から壁に激突した。

 ちょうど本線と出口に降りるための側道の分岐部分の防護壁、V字状になったその先端が運転席に突き刺さっている。衝突の際のダメージは、衝突する物体の表面積が小さければ小さいほど大きくなる――本線と側道の分岐点、V字状になったコンクリート防護壁に突っ込んだときの車体のダメージは、車が側面から突っ込んでくるのとは比較にならないほど大きい。

 滅茶苦茶に砕けたBMWのサイドウィンドウの向こうに、血まみれになって身動きもとれないまま悶絶する男の姿が覗いている。――その車体の下から液体が広がりつつあるのを目にして、アルカードは目を細めた。

 再び息を吸い込み、静かに吐き出しながら――まるで閨で組み敷いた乙女の柔肌を愛撫するときの様に丁寧に、ゆっくりとトリガーを絞る。

 抑えられた銃声とともに狙撃システムがみたび火を噴き、撃ち込まれた銃弾がBMWの車体下部の鉄板をかする様にして火花を散らした。

 車体の下から広がりつつあったガソリンに引火して、BMWを紅蓮の炎が包み込む。ガソリンタンクの燃料があまり残っていないためにタンク内部に可燃性ガスが充満していたからだろう、BMWの車体を包む劫火はかなり激しかった。

 そのときになってようやく事態を察した人々が、ハザードランプを焚いて急停止させた車から降りている――だが炎に包まれた車体が相手ではなにも出来ない。巻き添えを喰らうのが落ちだ。

 どのみち、岬太朗はもう助からない。車体を包み込んだ炎は、彼の生存に必要な酸素を根こそぎ使い尽くしてしまう。人間は酸素が無くなれば数秒で意識を失い、一分もたたないうちに脳組織の死滅が始まる。消防車が到着するころにはもう手遅れだ。

 目的を終えたことを確認して、アルカードはPSG-1を片手で保持したままその場で立ち上がった。鉄板の上に転がったみっつの薬莢を拾い上げ、レザージャケットのポケットに落とし込む――それで物的証拠はもう残らない。現場から銃弾が回収されても、警察上層部によって情報は握り潰される。

 アルカードは手にした狙撃システムを見下ろしてからハードケースのそばにかがみ込み、銃口からサプレッサーを取りはずして離脱の準備に取り掛かった。

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