In the Distant Past 35

 

   *

 

「――よっと」 気楽に声をあげて、アルカードがフィオレンティーナの体をソファの上に降ろす。倒れない様に彼女の体を支えてから、パオラはリディアと並んでパイン材のダイニング用の椅子に腰を下ろした。

「ありがとう」 アルカードがそう礼を口にして、そのままソファで寝転がったフィオレンティーナを見下ろして溜め息をついた。彼は結局脱いだままだった彼女のパーカーを無防備に寝転がっているフィオレンティーナの体にかけてやると、足元に寄ってきた三匹の犬の頭を順に撫でてやった。彼はいったんリビングから出て行って、嘔吐用だろう、市指定のごみ袋を掛けた樹脂製のバケツを持って戻ってくると、それを彼女の脇に置いてから、

「ちょっと待ってろな、今お土産を用意するから」

 そう告げて、アルカードが持ち帰ってきたポリ袋を手にキッチンに足を踏み入れる。

「ところでアルカード」

「ん?」 リディアの言葉に、アルカードがこちらに視線を向けないまま返事をする。

「オクリオオカミってなんですか?」

 リディアとしては知らない単語を質問しただけなのだろうが――アルカードはそうではなかったらしい。手元が狂ってなにかを取り落としたのか、派手な音が聞こえてきた。

 そしておそらく、実際になにかをシンクに落としたのだろう。しばらく水道を使ってから、アルカードはなにやら憮然とした様子で犬の餌用の陶器の食器に骨を取り除いた鶏肉を盛って戻ってきた。彼は壁際の犬用の飲み水が置かれたタオルのところまで歩いていってそこにみっつの食器を置き、一匹ずつお手とおかわりをやってから食べる許可を出して、

「いきなりなに、その質問」

「いえ、どういう意味なのかと思って」 というリディアの返答に、アルカードはこめかみを指で揉みながら立ち上がった。

「それはな、赤ずきんちゃんが――」 いきなり変なことを言い始めたアルカードに、首をかしげる。アルカードは巧い喩えが思いつかなかったのか盛大に嘆息して、結局ストレートに表現することにした様だった。

「送り狼ってのはな、怪我したり酔っぱらったりして動けない女性を連れてって、介抱するふりして手篭めにしたりする奴のことだよ――成り行きによっちゃ自宅を突き止めたり、写真を撮って脅迫したりもするかもな。継続的な性的な関係を強要したり、金銭かねを強請ったり」

「ああ、それじゃあ大丈夫ですね。安心しました」 と、リディアがその説明に返事をする。

「なにが?」 眉間に皺を寄せて胡乱げに続きを促すアルカードに、リディアは微笑みながら続けた。

「貴方はそういう行いに縁が無さそうだってことです――貴方はそんなこと考えもしないでしょうし」

「それ、こないだも似た様なこと言われたけどな――褒めてもらってると思っていいものなのかどうか」 そんな苦言を口にするアルカードに、リディアがテーブルの天板に両肘を突いて顎を支える様な仕草をしながらにっこりと笑う。

「いえ、褒めてはないです」

「ならよかった――買いかぶりもいいところだからな。俺はただ、俺の人生に関わった人たちが、俺を育てたことをあの世で後悔する様な生き方はしたくないだけだ――いつか向こうに行ったときに、胸を張って会えない様な人生は送りたくない」

「ええ――それで十分だと思いますよ」 アルカードの言葉に、リディアが微笑みながらそう返事をする。振り返ったアルカードに、

「それで十分です」 笑顔で返されたその言葉に、アルカードが胡乱げに眉根を寄せた。リディアは彼の足元でじゃれついている犬たちを視線で示し、

「自分以外のものを愛する心と、窮地に陥ってる弱者のために命を賭ける勇気と、他人の悲しみを思って涙を流せる優しさと、自分を律する誇りと自制心と、それに加えてその裏づけになる十分な力がある。それは間違い無く英雄の資質だと思います」 たぶん昔から、彼はそうだったのだろう――そう在れと教育され、今でもその在り方を続けている。アルカードに――否ヴィルトール・ドラゴスにその生き方を教え示した、今はいない者たちのために。

「さてな――それは俺に力があるから出来ることだ。弱かったらしてないよ」

「いいえ」 やんわりとリディアの評価を拒絶する様な返答に、めげずにリディアが返事をする。

「本当に勇気のある人は、たとえ力が無くても他者のために命を張るのを躊躇しないものです――逆に勇気の無い人はどんなに強くても、窮地に陥ってる弱者を我が身可愛さに見棄てますよ」

 だから、彼はそれで十分なのだ――彼はこの先命が続く限り、自分を信頼する者たちを裏切って見棄てたり、利用し弄んでから切り棄てたりはしないだろうから。

 そう続けた言葉をたぶんリディアは本気で言っているのだろうが、言われるほうは恥ずかしいらしい。アルカードが思いきり眉毛をハの字にしながら、がりがりと頭を掻く。

「それをどう解釈すればいいんだか」 わかりきっていることだとパオラは思ったが、なにも言わなかった。

「悪意で言ってると解釈されなければ、わたしはそれで十分です――ただ、わたしの心からの信頼の言葉です、吸血鬼アルカード」

「そうか」 ストレートな好意の表現は苦手なのか、アルカードは落ち着かなさげな様子で頭を掻きながら再びキッチンに向かった。

「コーヒーでいいか?」

「はい」 アルカードの問いかけにうなずいてから、パオラはフィオレンティーナに視線を向けた。顔は茹でた海老みたいに真っ赤で、目はなるとみたいになっている――今にも嘔吐しそうな状態だったので、アルカードが彼の判断で自室に戻さずに彼の居室に連れ込んだのだ。パオラとリディアはフィオレンティーナの身の安全についてはまったく心配していなかったが――リディアの言う通り、彼は送り狼など考えもしないだろう――、リディアが状態を聞かれて少し足の痛みが悪化していると答えたので念のためにと招じ入れられたのだ。

 アルカードは薬缶を火にかけてから再び戻ってくると、リディアの足元で床に片膝を突いた。

「脚を見せろ」 その指示に従って、リディアがスカートを膝が見えるまで指先でつまんでずり上げる。テーピングで覆われた足首と膝の状態を観察してから、アルカードは手を伸ばしてリディアの足首を覆うテーピングを取り除きにかかった。

 手早くテーピングをはずして、足の状態を仔細に観察する――パオラの目から見ても腫れは以前に比べてかなり引いているが、少し赤くなっている様に見えた。

「少し炎症が悪化してるな――あとで風呂に入ったときに、ちょっと浸かって足首と膝を十分に温めたほうがいい。やっぱり少し無茶をさせすぎたな――車を取ってくるべきだった」

 アルカードはそんなことを口にして、テレビ台の上に置いてあった救急セットの中から温感湿布のパッケージを引っ張り出した――言うまでもなくアルカードがそんなものを使うわけではなくて、訓練のときに負傷者の手当てのために用意したものだ。

 テーピングは再利用が利かないタイプのものなので、温感湿布を当ててから包帯できつめに巻いていく――どうせすぐに入浴でほどくのがわかっているからだろう、テーピングをやり直すつもりは無いらしい。

「ところで頭の怪我は、その後どうだ?」

「いえ――特には」

「ならいいが――もう二、三日経過したら、もう一度検査を受けに行ったほうがいいかもしれん。亮輔君からメールが来てた」

「あまり良くないっていうことですか?」 パオラの質問ににじむ不安を感じ取ったのか、アルカードは気楽に肩をすくめた。

「あくまでも念のためだ――別に危ないとは言ってない。少なくとも、予後について話してる相手は俺だ――状態が悪い様なら率直にそう言うだろう」

 作業を終えてアルカードが立ち上がると、鶏肉を食べ終えたらしい犬たちが彼の足元に集まってきた。穏やかな表情で彼女たちを見下ろすアルカードの瞳が、金色に輝いている――リディアの脚の状態を高度視覚で透視していたからだろう。

 アルカードは救急セットをテレビ台の上に戻してかがみ込み、追いかけてきた犬たちの頭を順に撫でてやった。

 薬缶の水が沸騰し始めたのかシュンシュンという音が聞こえてきて、アルカードが再び立ち上がってキッチンに向かって歩き出す。

「とりあえず早く目を醒ましてくれないかな、部屋に帰せないし君たちも帰せない」 フィオレンティーナに視線を向けて、アルカードがそんな言葉をこぼす。どうやら彼としては、今の状態のフィオレンティーナをひとりだけ部屋に連れ込むのが厭だったらしい。

「フィオは――」

「寝てる間に吐いたりしたら、喉が詰まるしなぁ――完全な吸血鬼ならなんてことないが、彼女は吸血鬼としてはヴェドゴニヤの中でも特に中途半端な部類だし」 そんな返事に続いて、カチャカチャという食器同士のぶつかる音が聞こえてくる。

「否、吸血鬼の場合は喉が詰まっても死ぬに死ねないから、苦しみが長く続くぶん余計たち悪いんだと言えなくもないけどさ。まあそれはともかく、とりあえず水分補給させとかないと明日が厄介だ」

「そうなんですか?」 飲酒の経験が無いのでピンとこないパオラが尋ね返すと、アルカードはなぜかジト目でこちらに視線を向け、

「ああ。アルコールは体内の水分の排出を促すからな」 彼なりに言葉を選んだであろうその返答に、パオラは納得してうなずいた。

 要するにアルコールの利尿作用が原因で水分の排出が促進され、結果脱水症状を起こすと言いたいのだろう――さすがに女性を相手にストレートにそう言うのは、アルカードとしても憚られたらしい。

 それからそろって無言のまま、いまだソファにひっくり返っているフィオレンティーナに視線を向ける。

「いっそ無理矢理にでも吐かせたほうがいいかなぁ」 なぁ?と声をかけながら、アルカードがこちらに向かってぴっと人差し指を立ててみせる。

「その指をどうする気ですか?」

「それはもうずぼっとげろっと」 リディアの質問に眉ひとつ動かさず、アルカードがそう返事をする。

「乙女としての尊厳を、守らせてあげてください」 溜め息をつきながらそう答えると、アルカードはなぜか不満そうに、

「否、俺は別にこのまま朝までほっといてもいいんだけど、朝起きたら床に吐かれてたりしたらたぶん一日ブルーな気分になるだろうし」 寝てる間に窒息されて朝になったら死体になってても困るから、いっそ吐かせとくべきだと思うんだが――そう続けてアルカードが腕組みしたとき、それまでに比べるとだいぶ顔色がましになったフィオレンティーナがソファの上で身を起こした。

「うーん」

「あ、起きた」

 と、これはアルカードである。

「フィオ、大丈夫?」 というリディアの問いに、フィオレンティーナが小さくうなずく。

「ええ――ところでここは、アルカードの部屋ですか? わたし、どうしてここに――たしか居酒屋みたいなところで、晩ご飯を」

「……どこまで覚えてるんだ?」 帰る途中で買ってきたアクエリアスをコップに注ぎながら発したアルカードの質問に、フィオレンティーナはこめかみに片手を当てて顔を顰めながら、

「ええと、たしかデルチャさんからアルカードがご近所さんの逃げ出した犬を一緒に探した話を聞いてる最中にオレンジジュースを飲んで、そこから記憶が――」 なんでそこはきっちり覚えてるんだよ――あまりそういった話は彼女たちに聞かれたくないらしい吸血鬼は顔を顰めつつ、彼女の前のテーブルにコップとペットボトルを置いた。

「きついかもしれないが、全部飲んでおけ――飲むのと飲まないのとで、明日の体調が全然違うから」

 その言葉に、フィオレンティーナが気が進まなさそうな様子でコップに手を伸ばした。

 

   *

 

 換気口を通り抜けて総合換気ダクトの手前まで移動したところで、アルカードは靄霧態ミストウィズインを解除した――霧に変化したときと同様に右手で保持したブレード・ディスクを見下ろして、わずかに口元をゆがめる。

 実体化した場所が換気ダクトの縦穴の内部にいくつか設置されている巨大なファンの真上だったため、総合換気ダクトに出る前に実体化せざるを得なかった――空気中の水分含有量の少ない場所で靄霧態ミストウィズインをとったまま強風の吹いている環境に出ると、吹き散らされて元通りに実体化出来ない危険があるからだ。

 まあここもどうかとは思うがな――苦笑しながら、眼前でバタバタと音を立てて廻っている排気ファンに手を伸ばす。このビルのフロア換気ダクトは吸気と排気が完全な別系統になっており、一方のダクトは総合換気ダクトに向かって排気し、もう一方は吸気する様に造られていて、こちらは排気側だった。

 ファンの向こうにあるメンテナンスハッチを擬似・重圧衝砲エミュレーション・グラビティスラッグでファンごと吹き飛ばし、アルカードは総合換気ダクトの縦穴に出た。

 手にしたブレード・ディスクで自分の体を傷つけない様にしながら、グレーチングに足を置いて孔から足場に降りる。

 ブレード・ディスクは世界斬・散World End-Diffuseを躱して跳躍した04の足を切断したあと、そのまま壁に突き刺さっていたものだ――残りの装備品をすべて回収したあと、回収してそのまま靄霧態に変化し、そのまま手近の換気ダクトを通って総合換気ダクトまで出てきたのだが、頭が痛くて気分が悪い。

 おそらくハッチのすぐ外に巨大ファンがあるために、ハッチの外側の空気の流速が速いのだ。そのせいで霧の一部が吹き散らされ、実体化には問題無いものの肉体を再構成する際の触媒に体内の水分を消費したのだろう。そのせいで脱水症状に似た状態に陥っているのだ。

 頭の中に漬物石でも入っているかの様なひどい頭痛に顔を顰めつつ、アルカードは手にしたブレード・ディスクを手首のスナップで二度振った。

 その動きで飛び出していた六枚の刃が収納され、元の円盤状に戻る。腰周りのケースにディスクを戻して、アルカードは頭上に視線を向けた。建物を縦に貫通する換気ダクトの先に、曇った夜空が見えている。

 空気中の水蒸気含有量が少なすぎるために再度靄霧態ミストウィズインを取るのは無理なので、アルカードは梯子に歩み寄った。

 地下貯水槽のときの様に壁に爪を撃ち込んで攀じ登ることは出来ないので、仕方無く梯子を登っていく――無尽蔵に等しい体力は登り続けることを苦にはしないが、さすがに途中で飽きてきた。

 三十分ほどかけて梯子を登りきり、設置された巨大なファンの横のメンテナンスハッチを抜けて屋上に到達する。

 人間が屋上に出ることは想定していないのだろう、周囲には柵もなにも無い。

 もともとあまり天気のよくない晩であったこともあって、高層ビルの屋上は冷たい風が吹きつけてきている――だが頭痛に悩まされる今のアルカードには、その冷風が心地いい。アルカードは屋上に体を引き上げると、そのまま端のほうまで歩いていった。

 電子設備が完全に無力化されているので、もはや人目に触れさえしなければなんの気遣いも必要無い。向こう数週間はこのビルの電子設備は通常の民間企業部分を含めて、まともに機能しないだろう。

 冷たい風の吹くビルの屋上から地上を見下ろして、アルカードはそのまま地上に向かって身を躍らせた。ここにグリゴラシュがいれば襲撃するところだが、彼は当分表舞台には姿を現さないだろう――もはやここには用は無い。これ以上とどまっていても時間の無駄だ。

 頭痛のほうは気にしない様にする――どのみち空気中の水蒸気が豊富に存在する場所でもう一度靄霧態を取れば、周囲から取り込んだ水分で肉体の水分量は通常の状態に戻る。

 可及的速やかに調製実験施設の研究員を探し出し、全員を処分する必要がある――いずれにせよ、いったん大使館に戻らなければならない。例の毒のサンプルも引き渡さねばならないし、研究員の始末についても話し合わねばならない。どうするにせよ、日本政府側とのすり合わせは必要だ。

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