In the Distant Past 24


   *

 

 膝に前肢をかけて後肢立ちになりながら、ウドンがくるんと巻いた尻尾をちぎれんばかりに振っている。アルカードは公園のベンチに腰を下ろしたまま上体をかがめて、足にじゃれついてくるウドンの頭を軽く撫でてやった。

 ベンチの座面に座り込んでいたソバが上体をかがめたアルカードの耳元に鼻先を近づけ、ふんふんと匂いを嗅いでいる。

「ソバ、それくすぐったい」 黒犬の鼻面から逃れる様に上体を起こし、寄り添う様にぴったりと体をくっつけてきたソバの頭を撫でる。そのまま二度ほど頭を軽く叩く動きに合わせて頭を上下させてから、ソバはアルカードの太腿に顎を載せた。

 背中を背骨に沿って何度か撫でさすってやってから、反対側でベンチの上に座り込み、自分も撫でてくれとせっついてくるテンプラに手を伸ばす。ベンチの上でころんとひっくり返ったテンプラのお腹をさすってやりながら、アルカードは目を細めた。

 公園にそろそろ飽きてきたらしいウドンが、おうちに帰ろうと主張してズボンの裾を銜えて引っ張っている。

「こら、いけない」 そう声をかけると、ウドンはぱっとズボンから口を離した。

「よし、いい子だ」 ウドンの頭をもう一度撫でてやり、アルカードは立ち上がった――それに気づいて、ソバとテンプラがベンチから飛び降りる。

 八月半ばの東京は、夜中の郊外でも十分に暑苦しい――適当に顔を手で扇ぎながら、アルカードは右手に引っ掛けたリードの輪を握り直した。

「行こうか」 そう声をかけて、アルカードは歩き出した。足首に抱きつく様にして歩くのを邪魔してくる犬たちのせいで歩くのに苦労しながら、道路に出る――道路の向かい側には見慣れた本条邸の白漆喰の塀、左手には硲西の交差点。交差点の手前には先日秋斗と美冬を見つけたときに白ゴマを買っていたローソン、向こう側には月極が大部分を占める駐車場。十年前にはじめてここに来たころはまだ機械化されておらず、みんな本条兵衛に直接金を払って駐車場を借りていた。

 ちなみにアルカードはどうもはじめて会ったときに老人に気に入られたらしく、チャウシェスク邸が放火で燃え落ちるまでの数週間はただで貸してもらっていた――代わりに後日、大量の酒を持ち込んで礼はしたのだが。

 アルカードは犬たちに足にまとわりつかれて歩くのに難儀しながら、徒歩数分のアパートに向かって歩いていった。

 ちょうど公園に隣接する民家に住んでいる老女が、飼っているラッキという名前の小型の雑種犬を孫と一緒に散歩に連れ出してきたところだった――犬たちがラッキを見つけて、尻尾を振りながらそちらに走っていく。ビーグルとスピッツの雑種であるラッキは体格は小さくてももう立派に大人なので、じゃれついてくる犬たちを煩わしげに相手している。

 五歳と六歳のふたりの男の子はかがみ込んでソバたちの相手をしていたが、やがてぶんぶんと手を振って祖母とともに歩き去っていった。

 それを見送ってから、犬たちを促して歩き出す――ほんの数分でアパートまでたどり着き、アルカードは門をくぐって敷地に足を踏み入れた。

 自室の施錠を解いて玄関を開けると、犬たちはたがいに争う様にして扉の隙間から土間に入り込んだ。犬たちに続いて玄関をくぐり、後ろ手に扉を閉めて、そこでかがみこんで犬たちの体からハーネスをはずしにかかる。

 肢の裏をウェットティッシュで拭いてやってから、犬たちを廊下に放してやる――犬たちはこの部屋の中で一番居心地のいい場所、彼らを迎え入れてからずっと、熱中症を防ぐために空調をつけっぱなしにしているリビングの扉の前へと駆けていった。

 靴を脱いで廊下に上がり――いつもと違ってすぐに出かけるので靴を履き替えることはせずに、彼ら(おっと、彼女たちが正しい)に追いついてリビングの扉を開けてやる。

 リビングの扉を開けると柔らかな冷気が腕に触れ、扉の隙間から犬たちが我先にと室内に駆け込んでいった。

 彼らに続いてリビングに入り、犬たちの飲み水の量を確認する――量が少ない。もともとつけっぱなしの空調の除湿効果によって、この部屋の中での水分の蒸発は早い。気をつけておかないと、目を離したら脱水症状などということになりかねない。

 アルカードは飲み水の器を手にとってキッチンに向かうと、いったん水を棄てて器の中を洗い流した。巨大な業務用冷凍庫の氷入れから取り出した氷を、器の中にいくつも入れてやる。この冷蔵庫には自動製氷装置はついていないので、自分でいちいち製氷皿を使って氷を作らなければならない――が、配管内部の黴や汚れの具合がわからないので、アルカードとしては自動製氷装置が無いことに関して特に不満は無いが。

 アルカードは冷蔵庫の中から飲みきった烏龍茶のペットボトルを取り出し、中に入っている浄水器を通した水を器にいっぱいに入れた。氷を犬に出してやるには、氷の表面を完全に濡らさなければならない。乾燥した表面に舌で触れると、くっつくことがあるからだ。

 アルカードはリビングを出て、水を求めて集まってきた犬たちのために所定の位置に器を置いてやった。

 冷えた水を飲んでいる犬たちから視線をはずし、アルカードはその場で立ち上がった。

 犬たちの好みで、アルカードは散歩から帰ってきてから犬に餌をやる。そのほうが喰いつきがいいのだ。用意しておいた犬用の缶詰を餌用の器に開けてから、アルカードはそれを床の上に置いてやった。

 さて――これでしばらくは問題無い。俺も鳥勢に向かうとしよう。

 胸中でつぶやいて、アルカードは犬たちにそれぞれお座り、お手、お代わりとやってから餌を食べる許可を与えて立ち上がった。

 

   *

 

「さてと」 まだ魔力の残滓を帯びて細かな雷華を纏わりつかせた塵灰滅の剣Asher Dustの刃を下ろし、アルカードは周囲を見回した。

 筺体自体はまるでずれる事無く上下に切断された調製槽の中で、槽の内部に満たされた培養液が漬け込まれたキメラたちの血で見る間に朱色に染まってゆく。硝子槽の下半分が倒れて、朱色に染まった培養液が流れ出し始めた。

 調製実験セクション上層部の中央で、全周三百六十度を薙ぎ払う様にして世界斬・断World End-Slashを繰り出した結果だ。

 地下の調製実験セクションの調製槽をすべて破壊したところで、頭上に視線を向ける――さて、次はどうするか。

 この調製実験施設の上の階にはディーゼルを主体とする非常用の自家発電機と、電力会社から供給される電力の分配を行う電力供給セクションがある様だ。

 破壊してしまえば、すべての調製槽が停止する――だがそれをすれば調製施設のみならず、ビル中のあらゆる電気設備が停止することになる。今破壊したら、無用の警戒を招くことになる――素通りするしかあるまい。

 それよりも、ビルの一角にこのビルのすべてのフロアの換気を行う総合換気ダクトがある。総合換気ダクトは二本の坑がビルを縦に貫通しており、一定間隔ごとに巨大なファンが設置されている。一方は排気を、一方は吸気を専門に行うらしく、それぞれエレベーターシャフト並みの太さがある。それらが各フロアに空気を供給し、あるいは吸い出して放出しているのだ。

 大量のミネラル分を含む培養液の原液は温泉の配管の様に沈着物が多いだろうから、頻繁に必要なメンテナンスのために配管の周囲に人間の入れる空間はあるだろうが――伝っていくぶんには、多分換気ダクトのほうが広くて楽だろう。

 胸中でつぶやいて、アルカードはだだっ広い調製実験セクションの一角に歩み寄った。

 下層はこちら側の壁際には調製槽は設置されていなかった――代わりにアサルト五匹の調製槽があったのだが、その周囲に調製槽が設置されていなかった理由はわからない。おそらく壁に調製槽が埋め込まれているので、ディストリビューターやリザーブタンク、ミキサーも壁のパネルの内側にあり、メンテナンスのために壁のパネルをいつでも取りはずせる様にしておかねばならないからだろう。

 そんな分析を胸中で組み立てて、アルカードはセクション上層部に培養液やその原液を供給するための配管を通すための開口部の隙間から下層部に飛び降りた。

 まだ硝子が開放されたままの調製槽を横目に見遣ってから、アルカードは広大な調製実験セクションの壁際に設けられた換気ダクトを見上げた。

 総合換気ダクトまで出てしまえば、あとは問題無いのだが――人間態のままで壁内のダクトを通り抜けるのは無理だろう。内部にファンを設けているので、ダクト内部の風の動きは普通のダクトより速い。だが――

 アルカードはその場で背後を振り返り、調製実験セクション中央部の培養液の原液を貯めておく貯水タンクに視線を向けた。

 無論、ここからでは調製槽が邪魔になって貯水タンクなど見えないが――まあそれはどうでもいい。

 手にした塵灰滅の剣Asher Dustの隠形が解除され、姿を現した漆黒の曲刀の蒼白く輝く刃の周囲にバチバチと音を立てて雷華が纏わりつく。

 さて――その場で転身しながら、アルカードは世界斬・散 World End-Diffuseを解き放った。

 塵灰滅の剣Asher Dustの強振と同時に解放された収束されていない衝撃波が轟音とともに攻撃範囲にある調製槽の残骸を片端から薙ぎ倒し、貯水タンクと薬液槽も吹き飛ばす。

 貯水タンクのフロートとオーバーフローバルブが機能しなくなったからか、破壊された配管から大量の原液が流れ出して、グレーチングの下の床を濡らしてゆく。じきに靄霧態に甲冑を取り込むのに十分な水蒸気を作れるだけの水が溜まるだろう。

 アルカードはコートの内側に手を入れて内ポケットから『魔術教導書スペルブック』を取り出すと、ぺらぺらとページを繰った。

 目的の術式を見つけ出して、文字列を指先でなぞる。

 ぽう、と文字列が発光し、ページからあふれ出してきた虹色の文字列が、まるでドライアイスの煙が下に落ちていく様にグレーチングをすり抜けて床に向かって流れ落ち――次の瞬間術式が発効し、足元の床下に流れ出した大量の培養液やその原液が瞬時に沸騰した。

 もうもうと湯気が立ち昇り――その中に溶け込む様にして靄霧態に変化する。

 靄霧態ミストウィズインは強風の吹いている環境に弱い――触媒になった水蒸気が風に吹き散らされるために一ヶ所にとどまるのが難しいからだ。だが、無理にとどまろうとすれば霧が吹き散らされて消滅する危険もあるが、その風に乗って風向きの方向に移動することで、通常の靄霧態以上の高速移動を行うことも出来る。

 大量の水蒸気がダクトから吸い出されるのに合わせて、ダクトの中へと移動する――移動とその先での人間態への変化は一瞬だった。

 ダクトは二面の幅が十メートルほどの角を落とした様な四角形で、下は貯水池、上は屋上までビルを貫通しているらしい。あまり使うとは思えないが、フロアごとにキャットウォークと金属製の梯子も設置されている。

 ほぼ二十メートルおきに巨大なファンが設置されているが、ファンの羽根の先端は壁際までは届いておらず、梯子を昇ればファンを避けて昇ることが出来る様になっている。おそらく梯子とすべての換気ダクトにアクセス可能なキャットウォークは、ダクト内のファンのメンテナンスのためのものだろう。そのため人間が這って入れる様に、フロアのダクト自体はかなり広い。

 さて、ここから四十数階まで延々昇るのか――胸中でつぶやいて、アルカードは梯子に手をかけた。なにも障害物が無ければ、攀じ登ったほうが早いのだが。

 とりあえず一フロアぶん登ったところで、アルカードは考えを改めた。電力供給セクションにもここから入れる様だ――ならばせっかくなのだから、悪戯くらいはしていこう。

 胸中でつぶやいて、アルカードはキャットウォークに移った。そのまま電力供給セクションの排気ダクトに歩み寄り、鳥が中で巣を作るのを防ぐためのものだろう、グレーチングで作られた蓋を取りはずす。

 蓋を取り除いて中を覗き込むと換気扇よりかなり大きなファンが廻っており、その向こうから生暖かい風が吹き出していた。。

 換気の効率が上がる反面場合によっては人が入る必要があるためか、ファンの枠のサイズは一メートル四方ほど、上下四ヶ所のロックをはずすことで簡単にはずせる構造になっている。

 電源コネクターを抜いて四ヶ所のロックをはずし、ファンをはずしてキャットウォークの上に置くと、ダクトの中に入れる様になった。

 甲冑と分厚いコートのせいで苦労しながら、ダクトの中にもぐりこむ――とはいえメンテナンス用の工具や、場合によっては交換用のファンを持って入らないといけないことを想定しているのでダクトはかなり広く、いったん入り込んでしまえば這い進むのに苦労は無い。

 もしかすると途中で何度かファンを抜けないといけないかもしれないと思ったが、最初のダクトはすぐに見つかった。どうも当直職員の仮眠室の個室換気を行うダクトらしく、部屋の天井に直接嵌め込まれた蓋の裏側で大きなファンがゆっくりと廻っている。ファン越しに覗いてみると、リネンを蹴散らしたベッドの上で中年の男が豪快に鼾をかいているのが見えた――残念ながら、下着姿の女の子が筋トレしていたりはしないらしい。

 靄霧態を取ってダクトの蓋をすり抜け、そのまま再び人間態に戻って床に降り立つ――アルカードはほとんど音を立てずに寝ている男に近づくと、儀式用短剣セレモニアルダガーを脛の装甲の隙間から抜き放って男の右目に突き立てた。右の眼球を突き破り、そのまま後頭部に向かって斜めに抜ける一撃。

 脳を一撃で損壊させられた研究員が、一度全身を強張らせてから動きを止める。

 突き刺した短剣を引き抜きシーツで血を拭って鞘に納めるころには、男の体は体内で生成された分解酵素の働きによって分解が始まっている――地下貯水槽のメンテナンスをしていた男たちがそうだったからおそらくこいつもそうだと見当をつけたが、やはりキメラに変異可能な人間だったらしい。

 地下の調整実験セクションの記録から判断する限り、おそらく今殺した男を含めてキメラ化した人間の数はそう多くはない。調製実験セクションのスーパーコンピュータの記録には、一ヶ月以上生き延びたオルガノンタイプが五体としか書いていなかった。それはつまり、一ヶ月生き延びたあと死んでしまったキメラもいるということで――したがって残り二体のキメラはすでに死んでいるかもしれない。

 一ヶ月以上生き延びた、つまりはっきり死んだとは書かれていない以上、五体みんなが今まで生き延びている可能性もあるわけだが――そのうち三体はすでに死んでいる。

 仮に生きていたとしても、多くてあと二体。

 さて――

 こいつが寝こけていたということは、ほかにも今現在電力供給セクションの保守をしている当直ウォッチマンがいるはずだ。そいつも始末してから、電力供給装置と自家発電装置にちょっとした悪戯をしていこう。

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