Balance of Power 21

「閉めるぞ」 一声かけてから、松葉杖を手に持ったまま助手席側のドアを閉める――なにかあったときに自力で逃げられなくなる危険があるので松葉杖は助手席に置いておくべきだろうかとしばらく考えて、結局やめて後部座席に放り込んでから、アルカードは車体の反対側に廻り込んで運転席に乗り込んだ。交通事故であれなんであれ、不測の事態が起きたとしても、ほとんどの状況であればアルカードはリディアを連れて車内から離脱出来る――高位の吸血鬼が徒党を組んで襲撃してきた場合だけはさしものアルカードでもリディアまでかばえないだろうが、真昼にその状況が起きる危険はまず無いだろう。

 ジープのロゴが入ったキーをメインスイッチに差し込み、エンジンを始動――クランキング音とともにエンジンが息を吹き返し、低いアイドリング音を立て始める。

 同時にカーオーディオが生き返ってCDチェンジャーが息を吹き返し、ちょうど駐車場に入るときに再生していた曲を続きから再生し始めた――ELLEGARDENのSalamander。

 エアコンの操作パネルに手を伸ばした拍子に指先が音量のつまみに触れてしまい、いきなり音量が上がってサブウーファーのドンッという重低音が腹に響く。耳障りな大音量に顔を顰めて、アルカードはつまみを操作して元の音量に戻した。

 始動直後ではあるが外気温が十分高いので、アイドリングそのものは滑らかだ。キュルキュルという耳障りな音が聞こえてくるのは、本格的に補機類のドライブベルトが伸びてきたせいだろう――昨年九月に新車で買ったのだが、酷使されすぎて傷んできているらしい。

 昨年の『クトゥルク』の案件で一台駄目にしたため新車で購入してからまだ一年たたない車なのだが、基本的に飛行機嫌いで荷物が多いこともあって吸血鬼狩りも陸路で移動するため、とにかく走行距離が多い――基本陸路での移動がメインになるため、月に二、三千キロも走ることも珍しくないからだ。ここ数ヶ月ほどは、警視庁から入ってくる情報の質が落ちたためにそれほどでもないが。

 ここらへんにはアルカードの個人的な飛行機嫌いのほかに、仮にフライト中に攻撃を仕掛けられた場合に防ぎようが無いという事情もある――アルカード自身は航空高度から落下してもたぶん死なないが、仮にその事態が起きた場合の巻き添えが多すぎる。

 昨年の春香港行きが決まったとき、時間が無かったために飛行機を使ったときのことを思い出して顔を顰めていると、リディアが不思議そうに声を掛けてきた。

「どうかしましたか? すごく厭そうな顔してますけど」

「ああ、すまん――ちょっと嫌な思い出が蘇ってな」 なにか悪いことしちゃいました?と心配そうに続けてくるリディアにそう返事をしてから、アルカードは手を伸ばしてパーキングブレーキをはずした。

 ちょうど発進させようとギアを二速に入れてクラッチをつなぎかけたところで、ちょうどジープと正対する空きスペースにPS30、Z432が入ってきて、アルカードはちょっとびっくりして口笛を吹いた。

「どうしたんですか?」

「いや? 貴重品が見れただけだよ」 というアルカードの返答に、リディアが物珍しげに初期型のフェアレディZに視線を向けた。なにしろ一九六〇年代後半の、最初期型のZだ。

 ナンバープレートの地名は一文字、足立の車検場で登録されたものであることを示す『足』となっている――分類番号も一文字で、おそらくはワンオーナー車なのだろう。今時あのナンバープレートは、かなりの貴重品だ。

 じっくり眺めていたかったが、そういうわけにもいかない。なにしろあのZには人が乗っているのだ。じろじろ眺めていても不愉快な気分にさせるだけだろう。

 アルカードは左のウィンカーを出して車を発進させ、地下駐車場の内周を回る通路にジープを合流させた。

 駐車場の出口まではそれほど遠くない――地上に出るためのスロープの手前に設置された虎縞のゲートの脇の精算機に駐車場の割引券を差し込むと、駐車料金ゼロと表示されたので、アルカードはゲートが上がるのを待ってクラッチをつなぎ、ジープを発進させた。

 スロープを上りきったところで地上の駐車場に通じる右手の虎縞のゲートから黒いランドクルーザーが出てきたために、いったんジープを止める。彼はランドクルーザーのドライバーがこちらに向かって軽く片手を挙げて見せるのに似た様な仕草を返してから、ランドクルーザーに続いてジープを発進させた。

 有料駐車場の経営会社の黄色い看板の下に立っていた顔見知りの警備員に会釈してから、アルカードはランドクルーザーに続いてジープを車道に出した――北川総合病院は交差点を越えた側にあるため、信号の切り変わりのたびに車の通行が一時的に途絶える。そのお陰で、出入りの頻度の割には出入りはしやすい。

 北川総合病院の裏手にはもっと北の方にある尾奈川に注ぎ込んでいる西奈川という細い川があり、ちょうどその上を高速道路が走っている――西奈川自体はもう少し西に行ったところで尾奈川に合流しているのだが、開発計画の関係か西奈側は橋があまり架けられておらず、川を車で超えるルートは限られている。

 なので、直接川を越えて南に行くことは出来ない――それ以外のルートでアパートに戻るには東行きの車線に入らなければならないのだが、病院の前を東西に走る幹線道路は中央分離帯で分割されていて直接東行きの車線には入れず、そのためアパートのほうに向かうにはいったん西に向かってからUターンしなければならない。

 西行き最初の信号は転回禁止なので、もうひとつ向こうの交差点まで進んでから、アルカードは右折レーンに入ったところで赤信号だったので車を止めた。交差点の向こう側にトヨタ エルアンドエフの営業所と、大手中古車業者の運営する自動車オークションの会場と、が見える。

 オートオークションは中古車販売もやる池上がよく使うらしいのだが、彼に言わせると『程度のいい車と悪い車の落差が酷い』らしい――入ったことの無いアルカードにはよくわからないが。

 信号が青に変わり、アルカードがアクセルを踏み込む――Uターンを終えてそのまま右側の車線に入り、再び赤信号に捕まって停車したところで、隣にスズキの軽自動車を積んだ運送会社のローダーが止まった。

 さすがにふたりきりでいると間が持たないのか、リディアがこちらにアルカードに話しかけようと口を開きかけたとき、彼女の携帯電話が着信音を鳴らした――メールの着信だったらしく、電話を開いたリディアがなにやら文を打ち込んでから送信ボタンを押して電話を閉じる。

 ちょうど信号が青に変わったのでクラッチをつなぎながら、アルカードは口を開いた。

「なにか用事でも頼まれたか」 どこかに寄っていくか? その質問に、リディアがかぶりを振る。

「いえ、凛ちゃんが一緒に遊びに行かないかって誘ってくれたんですけど」 この足じゃ無理ですから断りました――リディアがそう続けてきたので、アルカードはうなずいた。

「ま、しょうがないな――治ってからつきあってやればいい」

「はい」 リディアがそれにうなずき返す。彼女は前方に視線を向けてから思い出した様に再びこちらに視線を向け、

「そういえばアンさんから聞いたんですけど。おじいさんが夏になると、みんな誘って海に行くとか」

「ああ、行くな」 アルカードはそんな返事を返して、右折レーンに入るためにウィンカースイッチを操作した。前を走っていたオレンジ色のキューブに続いて右折レーンに入ったところで右折信号が黄色に変わったので、ブレーキに足を移す――キューブはそのまま黄色信号を無視して交差点に突っ込んでいったのだが、ちょうど右折した先でパトカーが信号待ちしていたらしく、止められるのが聞こえてきた。

 それを見送って肩をすくめてから、アルカードは言葉を継いだ。

「今年はまだ話が出てないな――毎年盆休みははずしてるから、たぶんもう少しあとになるんじゃないか」

「どうして長期休みをはずすんですか?」

 リディアがそう聞いてきたので、アルカードは肩をすくめた。

「混むから。今は大きくなってきたからそうでもないが、凛ちゃんとか蘭ちゃんも一緒に行くから、迷子とかの危険も考えると繁忙期は都合が悪かったんだ」 今は自分で判断出来るが、もっと小さいころはそうもいかなかったからな――そう続けると、リディアは納得した様に小さくうなずいた。

「アルカードも行くんですか?」

「俺は泳がないから、運転手と荷物番だがな」 うなずいてそう答えると、リディアは軽く首をかしげて、

「泳げないんですか?」 わたしが教えてあげましょうか? 結構巧いんですよ、わたし――にこにこ笑いながらそう続けてくるリディアに足が治ったらな、と混ぜっ返してから、アルカードは青信号に変わったのでクラッチをつないでアクセルを踏み込んだ。

 Uターンのために大きくハンドルを切り――回転半径の関係で追い越し車線に直接入れなかったので――、対向車線の走行車線に入ってから、アルカードは追い越し車線に入るためにウィンカーを出した。次に右折する信号はふたつ先だが、次の交差点の近くに大きな運送会社の集配センターがあるために一気に車が増える傾向がある。早めに車線変更しておくに越したことはない。

「ま、遠慮しとくよ――君の個人レッスンはそれはそれで楽しそうだが、別に泳げないわけじゃない」 車線変更したところで信号が赤に変わり、前を走っていたプリウスのストップランプが点燈する――車線変更した時点ですでに信号が黄色に変わっていたために減速の準備を始めていたアルカードは、別段あわてずにブレーキを踏んでプリウスに続いてジープを停車させた。

「そうなんですか?」

「ああ、水練は得意だよ――まだ君よりも若かったころは、甲冑を着込んだまま川を二十キロくらい遡上するってことを普通にやってたからな」 その返事に思いきり顔を顰めるリディアに苦笑を向けて、アルカードは肩をすくめた。

「ま、現代式の平泳ぎやクロールが出来るわけじゃないけどな――とにかく海水が駄目なんだよ。川やプールに行くんだったら、君に手取り足取り教えてもらうのも悪くないのかもしれないが」

 そう続けながら左手を翳してひらひらと動かしてやると、リディアはそれで理由を察した様だった。

「海水に浸かると、憤怒の火星Mars of Wrathの機能に支障が出るんですか?」 という質問に、アルカードはうなずいた。

「別に運動性能が低下するわけじゃない。戦闘行動にも支障は無い――ただ、皮膚の質感を再現出来なくなるんだ」 こんな感じでな、アルカードはそう言って、外から見えない様に膝の上に左腕を置いた――その手を凝視するリディアの視線の先で、彼の左腕が爪や甘皮、皮膚の皺や産毛、指紋までも完璧に再現したまま皮膚の質感を失い、人間の腕の形状を完全な形で保ったまま水銀の塊に変わる。

「単なる塩水なら問題無いんだが、どうやら海水中の不純物やミネラル成分に反応して擬装機能に支障が出るらしい。海水に浸かると左腕の外見が水銀の塊に戻るから、周りに一般人がいたら一目でばれる」

 アルカードはそう説明してから、信号が青に変わったのでクラッチをつなぎ、アクセルを踏み込んだ。シフトレバーを操作してギアを二速に入れながら、

「ところで、どこに行くって?」

「市内のスケートリンクだそうです。行ったこと、ありますか?」

「ああ、ある――ここからだとアパートを挟んで反対側だからちょっと遠いが、凛ちゃんの付き添いで何度か行ったことがある」

「そうなんですか――怪我してなかったら、一緒に行けたのに」 そうこぼして、リディアがスカートの上から膝のあたりを軽く叩く。アルカードは苦笑しながら、

「そう思うなら、早めに治すことだ――でないと今年の旅行が海じゃなく川になっても、君につきっきりで泳ぎは教えてもらえないしな」

 その言葉に、リディアが小さく笑ってうなずいた。

「はい」

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