Balance of Power 20
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昨夜一度救急外来で訪れた総合病院の会計の前の待合ロビーで、リディアは会計待ちの老人や若い母親と彼女が連れた幼児、会社を休んで診察に来たらしい若者に交じって長椅子に座っていた。
若い外国人が珍しいのかちらちらとこちらを見ている者もいたが、リディアは気にしていなかった。日本に来てからまあ慣れた視線だ。
電光掲示板に表示された会計待ちの番号は、152――おっと、たった今158に変わった。手元の紙片に印刷された番号は169。まだだいぶかかりそうだ。
溜め息をついて周りに視線を向けると、医者と患者らしい年老いた女性がなにやら話しているのが見えた。老女のほうはなにやら分厚い茶封筒を手にしており、どうやらそれを若い男性の医師に渡そうとしているらしい。
若い男性の医師はそれを断っている様だったが、老女のほうがなかなか引かないらしかった――やがて痺れを切らしてか、男性の医師がいったん手を伸ばして封筒を受け取り、それを再び老女のほうに差し出した。
医師が何事か告げると、老女が深々と頭を下げてそれを受け取る。その時点で医師も一礼してから踵を返し――その転身動作の途中でこちらに視線を向けて、誰か親しい相手を見つけたのか相好を崩した。
視界を横切って、黒いジャケットを羽織った金髪の男が医者に向かって歩いていく――無論見覚えのある男だ。
アルカードは軽く手を翳して相手の医師とばちーん、と手を打ち合わせてから、なにやら立ち話を始めた。なんとなく話をしながら視線をめぐらせたアルカードが、こちらの姿を見つけて片手を挙げる。その視線を追って、医師のほうもこちらに気づいた様だった。
服装のせいでだいぶ印象が違って見えるが、男性の医師にも見覚えがある。
先日ショッピングセンター内の蕎麦屋ではじめて会い、その日の夜に今度はアルカードの部屋で会った、蘭と凛の親戚だ――確か名前は本条亮輔と言ったか。
「やあ」 近づいてきて気楽に片手を挙げる亮輔に、リディアは立ち上がろうとして――膝に走った激痛にその場に座り込んだ。
「こんにちは」 座ったまま一礼すると、
「どうしたの、その脚――頭も」 スカートの裾から覗くテーピングで固めた足首と頭に巻かれた包帯に視線を向けて、亮輔がそんな疑問を口にする。
「怪我でもしたの?」
「否、
リディアの代わりに、アルカードがそう返事を返す。
「ああ、そうなんだ?」 本条一家の関係者である以上当然事情は知っているのだろう、亮輔は戦闘中負傷という物騒な単語に驚きもしなかった。
「それより、なに話してたんだ? さっきの婆さんと」 という質問からすると、アルカードもさっきの老女と亮輔の押し問答を見ていたらしい。
「ああ、あれ? あの人、先日手術した患者の親御さんでね――仕事中に車に轢かれて脚が潰されてたのをなんとか手術で歩ける状態に治せたんだけど、そのお礼だって言って現金を持ってきたんだよ。うちの病院謝礼の受け取りには罰則があるし、金銭をもらってももらわなくても手術内容は変わらないから、正直困るんだけど」 金銭を受け取って手術に気合入れるわけでもないし、謝礼が無いから手術に手を抜くわけでもないからね――そう続けて、亮輔が困った様に溜め息をつく。
「仕方が無いからいったん受け取って、息子さんの快気祝いにって言って持って帰ってもらった」
「結構、医者の鑑だな――で、その患者は治るのか?」
「外科的には。あとは本人のリハビリ次第」 そう答えて、亮輔は腰に片手を当てた。さらに何事か続けようとしたとき、近づいてきた看護師に声を掛けられて、亮輔は振り返った。
「なんですか?」
「本条外科部長、急患が」 顔色を変えて近づいてきた若い男性看護士が、亮輔に何事か耳打ちする。その内容は聞き取れなかったが、差し出された書類に視線を落とすと同時に亮輔の表情が気さくな若者から腕利きの医者のものに変わった。
「わかりました、すぐに行きます――手術室の空きは?」
「今はありません。第三手術室で十四時から開始予定の桜沢先生の患者は手術を延期出来ますが」
「じゃあ桜沢先生のほうにそう伝えてください――否、私が話をします。とにかく患者を第三手術室へ」 看護士がうなずいて、院内専用の携帯電話を取り出して何事か指示を出した。
「すまない、ドラゴスさん――そういうわけで急患が出たから行くよ」
「ああ、仕事頑張ってな――引き止めて悪かった」
足早に歩き去っていく亮輔を見送って、アルカードはポリポリと頬を掻いた。
「……しゃべってたせいで、昼飯喰い損ねたかな?」
「そうなんですか?」
リディアが尋ね返すと、
「亮輔君は、ここの病院の外科部長でな――まあ義理の親族の七光が無いわけじゃないだろうが、優秀な医者だからな。さっきの婆さんとの押し問答もそれだろう――結構難しい手術を何度も成功させてるから、学会じゃ割と有名なんだよ。学会にもちょくちょく行ってるし、彼の評判でここに来る患者も少なくない。重症患者が担ぎ込まれると、真っ先に呼び出されるしな――ああ見えて、結構忙しい奴なんだよ」
そう返事をして、アルカードはリディアの隣に腰を下ろした。
「脚の具合はどうだった?」
「昨晩言われたのと似た様なことです。ちゃんとした痛み止めと、あと効果的なテーピングのやり方も教えてもらいました」
「検査の結果は」
「今のところ異常は無いそうです」
「そうか」 アルカードは小さくうなずいて椅子に座り直し、それ以上のことは聞いてこなかった。
「完治までにはしばらくかかるそうです――松葉杖が必要になるから、お店もしばらく出られません」
「それは別にいい――しばらく俺が頑張ればいいだけだしな」 アルカードの返事はそれだけで、彼は再び押し黙った。
コーンという通知音とともに、電光掲示板に表示されていた会計済みの番号の数字が増える――『この番号より小さな数字の番号札をお持ちの方は、会計が出来上がっています』というひときわ大きな表示窓に表示された番号の数字は、170。
「君は何番だ?」 アルカードの問いに、リディアは立ち上がろうとしながら返事をした。
「169です」
「わかった」 リディアの肩を軽く押さえてその動きを制しながら、代わりにアルカードが立ち上がる。彼はリディアの手から番号札を受け取ると、会計カウンターへと歩いていった。
会計を済ませて戻ってくると、アルカードは再びリディアの隣に腰を下ろした。
「まだ薬が出るまでしばらくかかるから、待っておこうか」
「はい――あの、お金を」 返します、と続けようとしたが、アルカードはかぶりを振っただけだった。
「別にいい――監督責任があるのは俺だし、なんとなれば必要経費として総本山に請求してもいいし。いずれにせよ、君が負担する必要は無いよ」
それだけ答えて、アルカードが小さなあくびを漏らして脚を組んだ。リディアがそれにつられて小さなあくびを漏らすと、吸血鬼は小さな失笑を漏らして、
「やっぱり君も眠いのか」
「はい」 いったん自覚してしまうと瞼が重くなる。眠気を振り払おうとかぶりを振って、リディアは小さくうなずいた。
「昨夜遅かったですし、脚の痛みでなかなか眠れなくて――『君も』ってことは、アルカードも?」
そう聞き返すと金髪の吸血鬼は心底眠たげにあくびを噛み殺しながら、
「ああ。あのライブハウスのホール、すごくギラギラしてただろ。あれが瞼の裏にちらついてな、なかなか眠れなかった」
「わかります、それ」 目をこすりつつ返事をして、リディアは薬局の電光掲示板に視線を向けた。番号が169に変わったのを確認してからアルカードが持ったままの番号札を受け取ろうとそちらに視線を向けると、同じタイミングで気づいていたのかアルカードが立ち上がった。
彼は薬局のカウンターの前に歩いていくと、薬剤師の男性と何事か話してから薬を受け取って戻ってきた――アルカードはリディアのかたわらまで戻ってくると空いた手を差し出して、
「行こうか」
「はい」 驚くほど暖かい手を握り返して、立ち上がる――アルカードは松葉杖を手にとってリディアに渡すと、軽く背中を叩いて歩き出した。
それを追って歩き出す――エレベーターのほうへ歩いていくアルカードの背中を追うが、やはり慣れない松葉杖では歩きにくい。病院の在庫数が足りないらしくて一本しか貸してもらえなかったので、なおのことだ。
距離が離れているのを察したのか、アルカードがその場で足を止めてこちらを振り返った。アルカードが体ごと振り返った拍子に、胸元で銀細工の磔刑像が揺れる。
それでちょっとペースを速めようとして、リディアは松葉杖を前に出し――角度をつけすぎたのか杖の先端のゴムが床の上でずるっと滑って、そのまま前に体勢を崩す。危うく倒れ込みそうになったところで、完全にこちらに向き直ったアルカードが一歩踏み出し、そのままリディアの体を右腕ですくい上げる様にして抱き止めた。
倒れた松葉杖が、床の上でがらんと音を立てて跳ねる。足元を見下ろすと、誰かが落としていったものらしい病院の領収書が足元に落ちていた。どうも、これを松葉杖の先端で踏んで滑ったらしい。
「大丈夫か?」
「は、はい。ありがとうございます」 そう返事を返し、アルカードの腕に手を掛けて体を支えて力強い腕の中から体を離す――アルカードはリディアが体勢を立て直してから、床に転がった松葉杖を拾い上げた。
「もう一本貸してもらえる様に交渉してみようか?」 松葉杖を差し出しながら、アルカードがそう聞いてくる。
申し訳無さそうな看護師の顔を思い出して、リディアはかぶりを振った――どうも今は松葉杖がほとんど貸し出されていて、リディアが昨晩借り出したのが最後の一本だったのだ。
「いえ――もうこの病院の貸出用が無いんだそうです」
そう返事をして、リディアは差し出された松葉杖を受け取った。
「そうか。なら仕方無いな」 足元の領収書を拾い上げて無人になった会計カウンターの上に放り出してから、アルカードはリディアが再び歩き出すのを待って彼女に歩調を合わせて歩き出した――角を廻り込んで階段室の扉の前を通り過ぎ、エレベーターの前まで歩いてから、スイッチに手を伸ばす。使用されていないときは一階に固定されているらしいエレベーターは、ボタンを押すとすぐに扉を開いた。
扉を手で押さえてリディアに道を譲り、アルカードがあとからエレベーターに乗り込んでくる。アルカードは地下駐車場へのボタンを押してから、壁に取りつけられた手摺に腰かけた。
「帰りになにか用事はあるか?」 エレベーターで下降するときの浮遊感が苦手なのかかすかに眉をひそめながら、アルカードがそんな質問を投げてくる。
「いいえ」 リディアがそう返事をすると、アルカードはうなずいた。
「そうか」 アルカードがこくりとうなずいたところで、チャイム音とともに扉が開く。
キタガワ総合病院の地下駐車場は壁に面した駐車スペースのほかに、その内側の通路を挟んで背中合わせの駐車スペースが五列あるらしい――アルカードが今回車を止めているのは昨晩やってきたときの通路の内側ではなく壁際に接した駐車スペースのひとつらしく、アルカードはエレベーターの乗降室から駐車場に出ると左側の列に足を向けた。
アルカードに続いて駐車場に出ると、通路を挟んだ内側の駐車スペースのひとつ、スズキの軽自動車を一台はさんだ向こう側に止めてあったトヨタのハイブリッド自動車が駐車スペースから出て走り去るところだった。確か車名はプリンスだかプリウスだかいったか。
エレベーターと一階に続く階段のある乗降室のすぐ左側、エレベーターに一番近い駐車スペースに、見慣れたジープ・ラングラーが駐車されている。リディアが歩く距離を最小限にするために、出来るだけエレベーターに近いところを選んで止めたのだろう。
アルカードが助手席のドアに近づいて、ロックを解除しドアを開ける――リディアがシートに腰かける様にして体を車内に引き入れると、アルカードは声をかけてからドアを閉めて運転席側に廻り込んだ。
運転席のドアを開けて、アルカードが車内に乗り込んでくる。彼は口を開かないまま、ジープのエンジンを始動させた。
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