Balance of Power 5

「……メタ発言やめようよ」 とコメントしてから、陽輔はアルカードの片づけの邪魔にならない様に原付をちょっと動かした。

「ただ」 アルカードが落ち着いた口調で続ける。

「ただ?」 香澄がオウム返しに反問すると、

「クラッチキャリア自体の状態が、世辞にもいいとは言えん。ピンが摩耗してライニングがガタついてたからな――そのうちまたスプリングがはずれるかもしれん。同じ症状がもう一度出たら、クラッチごと交換することを考えたほうがいい」

「いくらくらいするのかな」

「知らん」 香澄の口にした疑問に、アルカードがそう返事をする。

「買ったことが無いからわからない――万単位はいかないと思うが、自信は無いな」

 聞いてみたほうがいい、と続けてから、アルカードは工具を片づけ終えたのかコンプレッサーをなにやら触りながら、

「ときに陽輔君、ついでだからスーパーフォアのパーツを全部持って帰るつもりは無いか? あれが片づいたら、物置が三割くらい空くんだが」

「俺、部品もらっても使えないよ」 アルカードから譲り受けたほぼそのままの状態で使っている愛車を脳裏に思い描き、陽輔はそう返事をした。

「忠信さんに頼めばいいんじゃないか?」

「アルカードさんのほうが近所に住んでるからね」

「なら俺でもいいが、とりあえず場所空けたいから車体と一緒に引き取ってほしいんだが。君の家、ガレージに収納スペースがいっぱいあるだろ?」

 段ボールみっつを手で示して、アルカードはそう言った。

「クラッチプレートとワイヤー類と、パッキンやらなんやら。取りはずした外装やら、交換前のオリジナルのパーツとか。マフラーもあるから、これも持ってってほしいな」

「棄てればいいんじゃない?」

「粗大ごみに出せるのかね? ただ、事故ったときのために予備として押さえておいて損にはならないと思う。君の運転技能を疑ってるわけじゃないが、事故と病気は向こうからやってくるもんだからな」 あと腐って破れたりすることもあるし、予備はいくらあっても困らないぞ――というアルカードの言葉に、陽輔は軽く眉根を寄せて考え込んだ。

 二年ほど前に、アルカードはムスタングの前に乗っていたシボレー・コルベットを事故で失くしている――そのときの原因は対向車線で衝突事故が起き、中央分離帯が無かったためにこちら側に押し出される形で突っ込んできた対向車とのオフセット衝突だった。

 たしかにあれは怖いし、人間とは比べ物にならない反射速度と運転技能を持つアルカードでも――物理的に逃げ場が無かったために――どうにもならなかった。

 まあ、コルベットに関しては部品がどうのこうのというレベルではないくらい完全に壊れてどうしようもなかったのだが。

「わかった。たしかに、持ってて損にはならないね――場所はあるから邪魔にはならないし。お言葉に甘えて持って帰るけど、マフラーは俺の車に載らないよ」

「だったら、マフラーは今度持って行くよ」 場所が空くのがうれしいのかちょっと上機嫌そうに、アルカードは段ボールを運び出し始めた。

 

   *

 

「――ねえ、お父さん」 抱っこされたまま髪の毛を掴んで引っ張っている蘭にどうやってやめさせたものかと四苦八苦しつつ、マリツィカは居間で晩酌しながらテレビを見ているアレクサンドルに声をかけた。

「ん?」 棒棒鶏を肴にワインを飲んでいた父が、呼ばれてこちらを振り返る。向かいに座っていたデルチャと少し離れたところでベビードレスのスナップボタンをつけ直していたイレアナも、こちらに注意を向けるのがわかった。

「カズィクル・ベイってなに?」

「カズィクル・ベイ? なんでいきなりそんなことを?」 よほど意外な単語だったのか、父が首をかしげて見せる。

「あの彼が言ってたの」

 正直にそう答えると、アレクサンドルは嘆息した。

「なんだ。少しは自分の故国の歴史を勉強しようと思ったのかと思ったら、違うのか」

「まあ、男の子の言うことを気にするのも、悪いことじゃないんじゃない? 女子高だし」 というイレアナの言葉に、マリツィカは顔を顰めてそちらに視線を向けた。

 が、なにか言うより早くアレクサンドルが答えてくる。彼は口に含んだワインを嚥下してから、

「カズィクル・ベイというのはな、トルコ語で『串刺し公』という意味だ。カズィクルは串刺し、ベイは君主。十五世紀後半にオスマン帝国から名づけられた、当時のワラキア公国の君主ヴラド・ツェペシュの異名のひとつだよ」

 え? 目をしばたたかせるマリツィカに、父は続けてきた。

「ちなみにツェペシュというのも『串刺し』の意味なんだが。ヴラド・ドラキュラという呼び方もされるが、本名はただ単に『ヴラド』だ。ドラクレシュティ家の生まれだから、ヴラド・ドラクレシュティが正しいのかも知れんがね。ブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』のモデルになった男でもある」

 硬直しているマリツィカの顔に手を伸ばし、蘭が耳を引っ張る。マリツィカは蘭を抱き直して耳から手を放させながら、

「ほかの意味は無いの?」

「さて、知らないな。ルーマニア人がわざわざカズィクル・ベイという呼称を口に出すなら、ドラキュラ公のことだと思うが」 ワインに口をつけて、父はそう答えてきた。

「ドラキュラ伝説にあこがれて、コスプレしてる傭兵……とかじゃないよなぁ、あれは」 テーブルに突っ伏してワイングラスの中で揺れる赤ワインを見つめながら、父がそんな言葉をこぼす。

「でも、あの人が持ってた銃とかは本物なのよね?」 番茶に口をつけてイレアナが口にしたそんな言葉に、アレクサンドルはうなずいた。

「たぶんな。実銃なんぞ触ったことが無いから知らないが、煤がついてたからな」

 そう答えて、アレクサンドルはマリツィカに視線を向けた。

「で、なんだってそんなもんを気にしとるんだね?」 という父親の質問を、マリツィカは聞いていなかった。

 串刺し公カズィクル・ベイを殺しに来た、彼はそう言った。それはつまり、ドラキュラを殺しに来た、と言ったのか?

 

   *

 

 わーらびもちー、という罅割れた男の声が開け放された窓の向こうから聞こえてきて、パオラはそれまでぼんやりと眺めていたテレビ画面から視線をはずした。

 掃き出し窓から顔を出すとセミの鳴き声に乗って、わーらーびーもちー、かきごおりー、という声が聞こえてくる。きっと老夫婦の店の前の通りからだろう――『わーらびーもちー』ってなんだろうと思いつつ視線をめぐらせると、自室の掃き出し窓に腰かけて犬と遊んでいたアルカードと視線が合った。

 適当に手を振るアルカードに小さく会釈をして、ついでに話しかける。

「アルカード、わーらびーもちーってなんですか?」 聞こえてくる声の節回しをそのまま繰り返したのだが、それがなにかおかしかったのかアルカードは苦笑した。

「蕨餅、だよ――澱粉と砂糖を水で煮固めた菓子だ」 言いながら、アルカードが部屋の中から取り上げたプラスティック製の蓋つき容器を差し出してくる――四角いブロック状に切り出されて粉をまぶした食べ物が、半分くらい容器に残っていた。

 試しに食べてみろということなのか、アルカードが容器を引っこめようとしなかったので、パオラはサンダルに足を入れて庭に出ると、アルカードのそばまで歩いていった。おずおずと手を伸ばして、餅に何本か突き刺された爪楊枝の一本をつまみあげる。

 アルカードが使ったらしい爪楊枝は蓋と器の間の溝に落ちる様にして置かれているから、これは未使用のものだろう――刺さり方が浅かったのか餅ごと持ちあがらずに抜けたので、別な餅に突き刺して持ち上げる。

 硬いゼリーに突き刺すときの様な感触だと思いながら、パオラはつまみあげた餅を口に入れた。ほんのりと甘い粉の量が多くて一瞬噎せ返りそうになったが、一度呼吸を整えて何度か咀嚼して細かく噛みちぎってからそのまま飲み下す。

 プルプルした触感とほのかな甘みが、なかなかに幸福感を醸し出してくれる――歯の裏にくっつきがちなのはどうかと思うが。

 それを横目に見ながら、アルカードが容器を引っ込めて足首に抱きついたテンプラの頭を撫でた。

「どうだ?」

「あんまりこういうお菓子を食べたことがないですけど、おいしいと思います」 という返事は気を悪くされるだろうかと思いながらそう答えると、アルカードはちょっとだけ笑った。

「そういえば珍しいですね、アルカードがコーヒー無しに甘いもの食べてるの」 この吸血鬼はコーヒーが一緒でないと甘いものは普段食べない。甘さを苦さで補おうとしているのか、苦いのを甘さでごまかそうとしているのか。甘いものが無くてもコーヒーは飲むから、たぶん前者だろう。

 それを指摘すると、アルカードは容器のほうに視線を向けた。どうも犬が食べられない様にするためか、少し高い台の様なものの上に置いてあるらしく、視線が高い。彼は手つかずの爪楊枝で餅を刺し直し、餅を口に入れながら、

「これ、今そこを走っていったトラックのおやっさんから買ったやつなんだが、そこらで売ってるのより黄粉が甘くないんだ」 つまりほかのは駄目だが、この蕨餅にまぶされた粉――キナコ?――は甘さ控えめで食べられるということか。

「そうなんですか」

「うん」

 心なしか口調が柔らかい。どことなく満ち足りた様子のアルカードをしばらく眺めてから、パオラは話題を変えた。

「もう香澄さんのスクーターの作業は終わったんですか?」

「ああ、終わった――でも、あれはたぶんまた壊れるな」 駐車場側の塀の向こうを見つめているかの様な遠い目で、アルカードがそんな言葉を口にする。

「えっ」 と、聞き返したパオラに視線を投げて、アルカードは小さく溜め息をついた。

「クラッチライニングのピボットが摩耗してガタが出てきてた。そのせいでスプリングの張りが弱くなってる――はずれたのはおそらくそのせいだ」

 アルカードの言っている内容はまったく理解出来なかったが、

「わからないんなら、『今壊れかけ』なんだって理解しとけばいい」 と付け加えたアルカードの言葉に、パオラは小さくうなずいた。

「そうします。でも、そんな状態で帰して大丈夫なんですか」

「可能性があることは伝えておいた。走行中にいきなりエンジンが動かなくなる様な問題じゃないから、本人に心の準備が出来てれば大丈夫だろう」

 アルカードはそう答えてからこちらに流し目を呉れて、

「ときにパオラ――リディアとお嬢さんも一緒に、今夜一晩俺につきあう気は無いか?」 というアルカードの言葉に、パオラはアルカードに冷たい視線を向けた。

「いきなりなにを言い出すんですか。いやらしい」 そんな人だとは思いませんでした、と続けると、アルカードは適当に手を振って、

「別にいかがわしい意味じゃないぞ――こないだ知り合った魔殺しからなにやら面白そうなソフトを受け取ってな。吸血鬼関連の情報をピックアップしてくれるらしいんだが、役に立つのかどうか、実際に一ヶ所二ヶ所強襲してみようと思ってね」 そう続けてくる。パオラはその言葉に表情を引き締めて、小さくうなずいた。

「わかりました。ほかのふたりにはわたしから声をかけておきます」

 それが満足のいく回答だったらしく――爪楊枝を銜えたまま口元をゆがめ、吸血鬼はここしばらく見せていなかった獰猛な笑みを浮かべてみせた。

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