Balance of Power 4

 

   †

 

 扉を抜けて駐車場に出ると、空きスペースにタルガトップ形態の赤いスズキのカプチーノが駐車されていた――元は恭輔、今は陽輔の持ち物だ。その隣の物置代わりのバイクガレージの前に、香澄のジョグがセンタースタンドをかけられて止められている。

 アルカードは原付のスタンドをはずすと、

「香澄ちゃん、キーを貸してくれ」 香澄が言われるままに原付のキーを差し出すと、アルカードはセンタースタンドをはずしてエンジンを始動させた――エンジンの始動と同時に後輪が動き出し、フロントブレーキだけロックしていたために、後輪側が持ち上がった。

「なるほど」 ブレーキレバーを握る指を緩めると同時に勝手に動き出した原付のエンジンを止めて、アルカードが納得の声をあげる。

 それで確認事項は十分だったのか、アルカードはスタンドをかけて原付から手を放した。

「ところで――」

 シェルター状の物置のシャッターを開けながら、アルカードが口を開く。

「恭輔君はまだいるのか?」 という質問は、父と兄が同じ車で帰ってきたからだろう。

 恭介はすでに出発している――恭輔の休暇は一週間そこそこで、盆休みより前に取ったのは盆休みの時期にアメリカに出張の予定があったからだ。今頃ニューヨークで、以前に手掛けた仕事についてなにやら片づけて、そのまま現在の現場に直帰するだろう。

 それに、父ももうそろそろ自分の農場に帰る頃合いだろう――恭輔が置いていった車はデルチャが使って仮住まいの自宅に帰るので、忠信は別の交通手段で帰ることになる。ガレージに数年間置きっぱなしになっている愛車を乗れる様にして帰りたいと言っていたが、どうなることやら。

「今頃ニューヨークだよ。ねーさんももう出発したし」

「そうか」 アルカードがそう言って、塀の上から垂らされたテーブルタップのコンセントにエアコンプレッサーの電源を繋いだ。トトトトという膨張エンジンの駆動音とともに、コンプレッサーが動作し始める。

 アルカードはコンプレッサーにつなぐオレンジ色のビニールホースや圧縮空気を噴射するエアガンを準備しながら、

「帰る前に一回、忠信さんとしこたま飲みてえなぁ」

「親父もそう言ってたから、またつきあってやってよ」

「よし、勢十朗さんとこにでも誘ってみるか。アレクサンドルと、本条の御老も一緒に。君も来いよ」 アルカードの言葉に、陽輔は顔を顰めた。

「その面子の飲み会に? 俺死ぬよ」 そう答えると、アルカードがはぁと溜め息をついた。彼は工具箱から取り出したソケットレンチを使ってキックスタート用のペダルをはずし、樹脂製のカバーをドライバーではずしながら、

「大丈夫だって。あのふたりの子供なんだから肝臓は強いだろ」 と言って磁石のついたパーツトレイにはずしたネジを、その脇にサイドカバーを置いて、アルカードは香澄から受け取ったキーを使ってハンドルロックをはずした。

「否まあ、別に無理に来いとは言わないし、飲むのを無理強いするつもりは無いけどな。陽輔君はあれだ、意識せずに周りにペースを合わせようとして無理に飲んでるから」

 そう返事をすると、陽輔は肩をすくめて話題を変えた。

「そう言えば、親父が例のオープンカーを持って帰るって言ってたね」

「ZZ? ああ、明日――ほれ、うちの店のライトエース、アレと一緒に車検に持っていくって約束してるんだ」 そう返事をして、そのまま原付を駐車場の反対側に押していく。水道の用意をし始めたところを見ると、作業箇所の汚れが酷いので簡単に洗い落とすつもりらしい。

「合格するのかな? もう何年も不動車だったろ」

「そのままだと無理だな。ゴム系の部品はほぼ全交換になるだろうな――明日の午前中、俺と池上さんと忠信さんの三馬力でいろいろ交換する予定だ。俺としてはそれよりも、山の中の田舎農場で窓の無いオープンカーを保管したときの惨状が気になるよ」 アルカードがそう返事をして、ホースリールを伸ばし始める。父の愛車はトミーカイラZZ――トミタ夢工場という京都の会社が製作販売した2シーターのオープンカーで、フロントシールド以外の窓が無い。カプチーノの様に必要に応じて密閉出来る構造になっていないので、風雨も風に吹かれて飛来する落ち葉も防げない。山の中の一軒家で暮らしていることを考えると、アルカードの懸念にも納得はいく――行ったことが無いのでわからないが、まあガレージくらい用意していることだろう。忠信は持ち主なのだから、陽輔やアルカードがぱっと思いつく問題点など百も承知のはずだ。

「大丈夫なんじゃない?」

「だといいけどな。田舎の山の中だから、室内でも虫とか多いだろうし」

 アルカードはそう返事をして、

「俺は厭だなあ。これから乗ろうとドアを開けたら虫の死骸がシートの上にテンコ盛りとか、想像しただけで気が滅入る」

 そう続けながら、アルカードは原付の後輪周りの左側に盛大に水を撒き、シェローの中から洗剤と洗車用のブラシを取り出した。

「まあ俺も厭だけどさ、そんなの」

「だろ」

 洗剤をいくらか吹きつけてから、水を含ませたブラシでガシガシこすり出す――埃と混じってペースト状になったグリスだかオイルだかでギトギトになっているから、まずはそれを洗い落としたいらしい。

 スイングアーム部分をひととおり洗って満足したのか、アルカードは洗剤の泡を流して戻ってくると、道路の少し離れたところに原付を止めてエアコンプレッサーにつないだエアガンを手に取った。

 残った水滴を圧縮空気で吹き飛ばし、アルカードが原付を押して戻ってくる。

 彼は再びドライバーを手に取って、スイングアームのネジをはずしにかかった。

「スイングアームの中に問題があるの?」

「これはクランクケース……否、スイングアームの役目も果たしてるから間違いじゃないな。そう、この中に問題がある」

 陽輔が尋ねると、アルカードはこちらに視線を向けないままそう答えてきた――実家で自分で車をいじる趣味があるのは忠信だけなので、陽輔にはなにが問題なのやらさっぱりわからない。香澄も似た様なものだろう。

 アルカードがネジを全部抜いたのを確かめてから、樹脂ハンマーで軽く叩いてカバーをはずす。

 はずしたカバーの裏側は、黒っぽい粉で真っ黒になっていた。

「なにこれ?」 香澄の質問に、アルカードが側溝のグレーチングの上でカバーを軽く叩いて粉を落としながら、

「摩耗したベルトの粉と、ライニングの磨滅した粉が混ざったものだよ」 と短く説明する。こればかりは圧縮空気で吹き飛ばすわけにもいかないらしく、工具箱から取り出したブラシと絵筆で掻き落としながら、

「これだけ粉が出るってことは、ベルトもライニングも結構減ってるかもな」

 クランクケースの内側はVベルトが前後のプーリーを接続しており、後部のプーリーは外側にいくつか穴の開いた金属製の鉢形のカバーがついている。

「これで、どこが悪いの?」 香澄の質問に、アルカードは手を伸ばしてカバーの裏側あたりからなにかを指でほじくり出した。

「これが悪い」 翳してみせたのは、埃まみれになったスプリングだった――どこかに引っ掛けるのか両端はフック状になっていて、アルカードがさらに埃の中を指で探るともうひとつ同じものが出てきた。

「スプリングが折れてないということは、はずれたんだな――どっちからかは知らないが、片方がはずれたからもう一方もはずれたんだ」

 アルカードがそう言って、カバーを取りつけて固定しているものらしいナットの外側についた小さなゴム製のリングを取りはずす。

 アルカードは工具箱の中から、袋状のケースに入った工具を取り出した。取っ手の先に自転車のものに似たチェーンがついた工具だ。ビニール製の袋状ケースに、フィルターチェンレンチと印字されている。

「香澄ちゃん、ブレーキを握っててくれ」

 そう言って香澄がその指示に従うのを待って、アルカードはチェーンレンチを鉢形のカバーに回して固定し、ドラムを固定する軸のナットにレンチをかけた。

 ナットを緩めてカバーを抜き取ると、段差がついて摩耗したドラムの内側も粉まみれになっていた――アルカードはドラムをグレーチングの上で軽く叩きつけて粉を落としてから、その内側についていたパーツを取りはずした。

 ブレーキパッドに似た摩擦材のついた半円状の金属のプレートが、二枚背中合わせに設置されている。それぞれ一端にピンがついていてそのピンでバックプレートに固定されており、ピンの位置は線対称ではなく中心を軸にした点対称になっている。おそらくくだんのスプリングがついていたのはその部品なのだろう、ドラムをはずした拍子に半月状の金属部品がぺろんと外側に飛び出した。

「なにこれ。ブレーキに似てるね」 前に父親が交換しているところを見たことのあるドラムブレーキを思い出しつつそうコメントすると、アルカードは小さくうなずいた。

「まあ、構造は似通ってる。ピストンの代わりにスプリングがついてるだけだ」 アルカードはそう言って、手にした部品を翳してみせた。

「クラッチキャリアと言うんだが――このライニングの片方がピンで固定されてるだろ? アクセルを開いて回転数が上がると、このライニングが遠心力でピンを始点に外側に振り出される。で、外側のドラムに接触する。ドラムは後輪と軸で直結されていて、ドラムにライニングが接触すると駆動力が伝わって後輪が動くわけだ」 アルカードは折れてはずれたスプリングを指で弄り回しながら、

「ライニングはこのスプリングでたがいに引っ張り合う様にテンションをかけられていて、アイドリング時にはドラムと接触しない、接触しても軽くこする程度になる様に出来てる。このスプリングが疲労や衝撃で折れたりはずれたりすると、遠心力で振り出されたライニングがドラムに常時接触しっぱなしになって、このバイクみたいな症状が出るわけだ――アイドリングでも動いたり、場合によってはエンストを起こすこともある」 アルカードはそう言って、ライニングのピンで固定されていない側を指差した。

「ここの穴と、」

 続いて向かい側のライニングの端に開いた小さな穴を指差して、

「ここの穴とをスプリングでつないでるわけだ――今は見ての通りはずれてるが」 そう言って、アルカードはその部品――クラッチキャリア――をグレーチングに軽く叩きつけて埃を落とした。

 クランクケース内の埃を落とし、はずれたスプリングを全部見つけ出してから、いったん立ち上がる――アルカードは物置の前でその様子を眺めていた香澄に断りを入れて道を開けさせ、物置に足を踏み入れて、中に置いてあった細々とした部品と目の粗いサンドペーパーを取り出した。

 ヤマハ純正部品のパッケージを破ってスプリングを取り出し、アルカードはラジオペンチを手に取った。鴫の嘴の様に中ほどから屈曲したペンチを使ってスプリングをつけようと試みて――巧くいかなかったのか、次は向きを反対にして試して、今度は巧くいったらしい。

 アルカードは反対側にも同じ様にスプリングを取りつけて、しばらく振ったり揺すったりしていたが、やがて満足したらしく、摩擦材の表面をサンドペーパーで軽くこすった。

 細かなライニングの粉末を圧縮空気で吹き飛ばしてから、元通りにクラッチキャリアを軸に取りつけて、続いて今度は鉢状のカバー――ドラム?――を手に取る。ドラムの内側を指で軽く触って摩耗の状態を確認してから、アルカードは今度はドラムの内側もサンドペーパーで磨き始めた。

 ドラムを元に戻し、ナットを取りつける――軽く手締めしてから、アルカードは再びチェーンレンチを手に取った。

「陽輔君、悪いけどハンドル持っててくれ。今度は回す方向が逆だからな。力をかけたときにバランスが崩れるかもしれん」

「わかった」 陽輔はうなずいて、ハンドルに手をかけた。

「フロントが浮くかもしれないっていうことでいい?」

「ああ、押さえててくれ――前に押してスタンドがはずれない様にだけ注意しててくれ」

「わかった」 その返事のあと、押さえたハンドルがぐっと浮き上がりかけ――それを軽く抑え込む。

「もういいよ、ありがとう」 作業は終わったのか、アルカードはそう言ってきた。彼は部品をひととおり元通りに組み立て直してカバーを仮止めしてから、スクーターのエンジンをかけた。

 今度はいきなり動きもしないし、エンストも起こさない――軽くアクセルを開いてちゃんと走行することを確認してから、アルカードはエンジンを切った。

「よし、とりあえずはこれでいいだろ。あとはこのまま様子を見てくれ」 そう言って、アルカードは仮止めにしていたクランクケースカバーを再びはずし、紙製のパッキンを交換してから再度クランクケースカバーを取りつけてネジを締め込み始めた。

 クランクケースカバーとワイヤー周り、樹脂カバーも固定してからキックペダルも組みつける――それでひととおりの作業が終わったのだろう、アルカードは工具を片づけ始めた。

「これで終わり?」 なんだかあっさりしてるね、という香澄の言葉に、アルカードは肩をすくめた。

「もっと突っ込んで書いても、みんなきっとついてこられないからな。絵が無いから」

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