Balance of Power 3
*
月明かりに照らされて白漆喰の土蔵の壁が蒼白く照らし出され、瓢箪型の池に黄金色の月が映り込んでいる。
リーリーという鈴虫の鳴き声が鼓膜をくすぐり、時折池の水面に漣が走っている――古いかどうかは知らないが、池に蛙の飛び込むぽちゃんという音が鈴虫の鳴き声に混じって耳に届いた。
「――あ、ここにいたんだ?」
庭に面した縁側に腰を下ろして庭を眺めていたアルカードは、横合いから声をかけられてそちらを振り返りかたわらに立っているマリツィカを見上げて――そこで思いきり顔を顰めた。
「なんだ、その恰好は」
「別にご飯前と変わらないじゃん」 というマリツィカの返答に、アルカードは小さく溜め息をついた。別にこの家の家人がなんとも思っていないなら、自分が気にする必要も無い。
相変わらずホットパンツにタンクトップ一枚という格好のマリツィカが、縁側に腰を下ろす――夏だというのに普通にお湯の風呂に入ったのか、肌が桜色に上気している。
でも他人の男の前に出るなら、せめて下着くらいつけろ。存在を主張する様にタンクトップを押し上げる豊かな胸のふくらみとなまめかしい太腿から視線をはずして、再び池に視線を戻す。
別段なにを話そうとする様子も無いので、アルカードは彼女に注意を向けるのをやめた――小さな池で魚が泳ぐのを眺めながら、穏やかな虫の鳴き声に耳を傾ける。
「なにしてるの?」
「魚が泳ぐのを見ながら、虫の鳴き声を聞いている」 様子を窺う様におずおずと口にされた質問に、アルカードは簡潔にそう答えた――マリツィカがその言葉に顔を顰め、月明かりがあるとはいえ人工的な明かりの無い庭を手で示して、
「魚? こんなに暗いのに?」
「ああ――そんな膨れっ面をするな、別にからかっているわけじゃない」 そう言って、アルカードは庭の池に視線を戻した。吸血鬼は複数の視覚を使い分けることが出来るが、もともとの人間のそれと同じ可視光線の視覚はその中でもっとも優れている――正確には馴染み深いために、使い慣れているといったほうが近いだろう。
視野はさほど人間と変わらないが視力は飛躍的に高くなっており、特に動体視力と暗調応が飛躍的に向上していて、高度視覚に頼らなくても問題無くものを見ることが出来る――無論暗いのは変わり無いが、月明かりのおかげで十分不自由無く池の中でゆっくりと泳ぐ数尾の鯉の姿を見ることが出来ていた。
「それより、どうかしたのか」
「別に。お風呂入ってもらおうと思って探してただけ。お父さんが入るって言ってたから、もういいけど」 マリツィカの返答に、アルカードはうなずいた。
「そうか」 と返事を返して、アルカードは再び虫の鳴き声に注意を向けた。
リーリーという穏やかな鳴き声だけでもアルカードは十分だと思ったが、彼女は沈黙が苦手なたちらしく、
「ねえ、キミはどこから来たの?」
「出身という意味なら、ブカレシュティだ――日本に来る前なら、ローマにいた」 と答えておく。
「なにしに来たの? あんなに大怪我してたんだから、留学とかじゃないよね」
「留学ではない――おまえが言う様に傭兵でもないし、別に誰かのボディガードを務めるためでもない」
「じゃあ、なに?」
形のいい脚を縁側でぶらぶらさせながら、マリツィカがそう聞いてくる。
「殺すためだ」 唐突に――アルカードが笑みとともにそんな物騒な言葉を口にしたからだろう、マリツィカがぎょっとした様な表情を見せた。
聞き間違いだと思ったのか再び聞き直してくるマリツィカに、同じ返答を返す。
「殺すためだ」
「……誰を?」
「
*
「だんだん暑くなってきたね」
「そうね、ストレッチは共用廊下でしましょうか」 歩きながら口にしたリディアの言葉に、パオラがそう返事を返す――空は雲ひとつ無い快晴、それはいいのだが日が昇ってくるとちょっと暑い。気温が上がってきたので熱中症になる前に引き返すことにしたのだ。
クールダウンのためにわざと少し歩調を落として、店の前を通り過ぎる。駐車場の前に差しかかると、赤い軽自動車とヤマハのスクーターが一台ずつ止まっていた――空きスペースは一台ぶんあるが、基本的にはフリドリッヒ・イシュトヴァーンがもう一度車を買ったときのために確保しているスペースで、ホイホイ車を止めていいものでもない。最近フリドリッヒが店で中古車情報誌を熟読しているから、ふさがるのも時間の問題だろう――それはともかく、誰の車なのだろうこれ。
塀越しに男女のひそひそ話す声とか笑い声が聞こえてきて、三人の少女たちは見慣れないスズキのオープン2シーターから視線をはずして顔を見合わせた。塀に設けられたアパートの庭に通じるドアを開けると、掃き出し窓の窓硝子に張りつく様にしてアルカードの部屋を覗き込んでいるふたりの男女の背中が視界に入ってくる。
「……なにしてるんですか?」 フィオレンティーナが声をかけると、そこでようやくこちらに気づいたのか、神城陽輔が振り返って口元に指を当てた。
近づいて陽輔とその隣にいた香澄の視線を追うと待っている間に眠くなってしまったのか、床の上に直接寝転がって寝息を立てているアルカードの姿が視界に入ってきた――腕を枕に横向きに寝そべったアルカードのそばに寄り添う様にして、ソバとウドンが眠っている。テンプラは背中側にいるのか姿が見えない。
「……ふふ」
しごく平和なその寝顔を目にして、リディアが小さな笑い声を立てる。
「平和だねぇ――あれだけ見てると、夜な夜な吸血鬼と戦ってる様には見えないよ」 と、これは陽輔である。
ここ数ヶ月は敵を見つける手段が無いので普通に夜寝て朝起きる生活を繰り返しているのだが、それは指摘せずに――そもそも昼型の吸血鬼というのがおかしいのだが――フィオレンティーナはアルカードに視線を戻した。
アルカードは相変わらずの穏やかな寝顔のまま、静かな寝息を立てている――声は抑えていたのだがそれでもこちらの話し声に気づいたのか、アルカードの体の向こう側からテンプラが顔を出した。
テンプラはアルカードの頭の横を廻り込んで彼の鼻の頭をひと嘗めしてから、こちらに向かってキャンと鳴いた――それで目を覚ましたのか、アルカードが体を起こす。
「ああ、起きちゃった」 なにが残念なのか、リディアが小さく溜め息をつく。
彼は上体を起こしてから一度欠伸をしてこちらに視線を向け、それから腕時計に視線を落として――そこでアルカードはもそもそと立ち上がり、まだ眠気が取れていないのかもっさりした動作でこちらに近づいてくると掃き出し窓を開けた。
「……いつからいたんだ?」
「かれこれ十五分くらい」 網戸越しのその質問に陽輔が返事を返し、挨拶のつもりか適当に手を挙げる。アルカードはフィオレンティーナとパオラ、リディアを順繰りに見遣って、
「……そっちの三人もか?」
「五分くらいですね」 上機嫌そうににこにこ笑いながら、パオラがそう返事をする――小一時間かけて走り込んだあとなので、タンクトップが汗で濡れて肌に張りついていた。
「そうか」 うなずいて、アルカードは再び腕時計に視線を落とした。
「ところで、もう十一時なわけだが。香澄ちゃん、十五分前からということは、十五分前にここに来たのか?」
約束は十時だったはずだが、と続けてアルカードが香澄に視線を据える。
「遅れるってメール送ったんだけど、届いてなかった?」 首をかしげて香澄がそう尋ね返す――絹糸の様な滑らかな黒髪が、その動作に合わせて肩からこぼれ落ちた。
「そうか。悪い、気づいてなかったよ」 まだ眠気の残る声でそう言って、アルカードは軽く伸びをした。
じゃあすぐに行くから、とアルカードが踵を返す。歩き出しかけたアルカードを、香澄が呼び止めた――振り向くアルカードに、香澄が手にした袋を差し出す。
「なにこれ」 袋を受け取って中を覗き込むアルカードに、
「はっさく大福。旅行行ってきたからお土産」
ひゃっほうと歓声をあげて、アルカードが袋を冷蔵庫に持っていく。彼はそのままに玄関から出て、庭に廻り込んできた。
「君の原付は?」
「駐車場のとこ」 と香澄が返事をする。アルカードは駐車場に通じる扉を開けて、駐車場へと姿を消した。
「そろそろなにか考えないとなあ」 というのはおそらく空きスペースに止められた赤いオープンカーのことだろう、塀の向こうからそんな独り言が聞こえてくる。
「なにを?」 そのあとに続いて扉をくぐりながら聞き返した陽輔の問いに、
「無断駐車防止策。フリドリッヒがそろそろ新しく車を買うって言ってたから、今までみたいにホイホイ止めさせるわけにもいかなくなるからな」
「ああ、そうだね」 そんな会話を交わしながら、アルカードと陽輔、香澄の三人が駐車場に出ていく。
それを見遣ってから、三人は共用廊下側でストレッチをすることにして歩き出した。
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