Balance of Power 2

 

   *

 

「――え? まだ帰ってきてないの?」 本屋の紙袋片手に家に帰りついたところで、マリツィカはぽかんと口を開けた。

「まだ帰ってないもなにも、あんたと一緒に行ったんでしょうが」 庭の隅の水道から延びたホースリールのノズルを手に、デルチャがあきれ顔でそう返事を返してくる。

ちょうど塀の内側のプランターに水を撒いていたらしい姉は手早くホースリールを巻き取りながら、

「途中で別れたの?」

「わたしだけ買い物をしに店に戻ったの――ついでに買おうと思ってた参考書を買うの忘れててさ。あの人別れたところで待ってたみたいだけど、戻ったらいなくなってて」

 そう、買い忘れていた本を買って連絡通路を通ってアルカードと別れた場所まで戻ると、電柱にもたれて待っていたはずの金髪の青年の姿は忽然と消えていた

 道自体は一本道なので、迷う余地も無い――

 ひとりで先に帰ったのだろうと判断して元来た道を帰ってきたのだが、門を開けたところで出くわした姉の第一声は『ドラゴスさんは一緒じゃないの?』だったのだ。

「――少しばかりつまらん用事があってな」

「わひゃぁ!」 いきなり背後から声をかけられて、マリツィカは驚いてその場で飛び上がった。

 左手に紙袋をぶら下げた金髪の若者が、すぐ後ろに立っている――彼は門のところで立ち止まったマリツィカに中に入れという様に軽く肩を押しながら、

「一応最初は待っていたんだが」 それ以上続ける気は無いのかそこで言葉を切って、アルカードはマリツィカに続いて門をくぐった。

「迷子になったりしなかった?」 門の引き戸を閉めているアルカードにデルチャが声をかけると、

「否、それは大丈夫だ」 と答えてから、アルカードは玄関の引き戸を開けて屋内に身を滑り込ませた。そこで靴紐を解きながらマリツィカに視線を向け、

「借りていたものはどうすればいい」

「あ、そのままこっちにくれればいいよ」 マリツィカがアルカードの手にした紙袋に手を伸ばすと、アルカードはふたつの紙袋のうち一方だけを渡して寄越した――覗き込むと、貸した着替えの服や靴がひととおり入っている。

「蘭ちゃん、いるー?」

「あーばー!」 アルカードに続いて廊下に上がり、声をかけながら居間を覗き込むと、サークルの中にいた蘭がこちらの姿を認めて声をあげた――サークルの柵の間から手を伸ばす蘭に歩み寄ってその手を握り返してから、かがみこんで蘭の小さな体を抱き上げる。

「蘭ちゃん、ただいま。いい子だった?」 軽く揺すりながらそう話しかけると、蘭がマリツィカの大きな三つ編みを掴んできゃっきゃと歓声をあげた――ふと視線を転じると、廊下で足を止めたアルカードがその様子を見ながらかすかに口元を緩めている。

 別に彼は不愛想な男でもないし非礼でもない――冷たい人間でもない。恩には報いることを知っているし、話しかけられて無視するわけでもない。日本語を使い慣れていないからか抑揚に乏しい無味乾燥な口調で話すが、表情は豊かだ。赤子にじゃれつかれて振り払ったりもしない――愛想のある日本語の話し方を知らないだけなのだろう。

「ねえ。夕飯の用意するから、荷物を部屋に置いてきてよ」 話しかけられて、アルカードは小さくうなずいた。

「わかった」 と言い残して、金髪の青年が踵を返す。彼が視界からいなくなるのと入れ替わりに、デルチャがリビングに入ってきた。

 

   *

 

 犬のハーネスとリードを手に、アルカードは玄関の扉を閉めて鍵をかけた。香澄と約束している時間は十時なので、まだ小一時間以上もある。

 よく行く公園に散歩に連れ出して帰ってきても、まだ十分以上余るだろう。

 門のところまで歩いていって声をかけると、建物を廻り込んで犬たちが走ってきた。足元で尻尾を振っている犬のそばにかがみこみ、ハーネスとリードをつけていく。

 犬たちを促して門から車道に出ると、

「あ、散歩ですか?」 声をかけられて、アルカードはそちらに視線を向けた。

 片足を高く上げて踵を塀に引っ掛ける様にして体を前傾させ、太腿の裏側からお尻にかけてを伸ばすストレッチをしていたリディアが、そのままの体勢でこちらに視線を向けている。

 赤いTシャツに大きめのサイズの白のタンクトップを重ね着し、白いランニングパンツを穿いている――すらっと伸びた脚がなかなかにまぶしい。

 テンプラがリディアの足元に寄っていって、左足首を前肢で抱きかかえる様にしてしがみついた。軸足にしている左足の足首にまとわりつかれて、リディアがちょっとあわてた様子で、

「ちょっとテンプラちゃん、ちょっと待って、今は駄目」

 離してください、と視線で助けを求めてくるリディアに苦笑して、アルカードは軽くリードを引っ張った。

 その場にかがみこんで足元に寄ってきたテンプラの頭を撫でてやりながら、

「今日はどこに?」 そう尋ねると、リディアは呼吸を止めないためだろう、ストレッチを続けたまま返事をしてきた。

「いつもの川沿いです」

「そうか」 リディアの簡潔な返答に、アルカードはこくりとうなずいた。

 硲南の交差点よりももう少し向こうには橋があり、二キロほど先で尾奈川に合流する鬼衣きぬ川という川が流れている――幅は尾奈川の半分ほど、尾奈川の河川敷がバーベキューなどに利用出来るのに対して、そちらの川の河川敷は市民にとっていい運動コースになっている。

 九年ほど前に硲町、深川町、鬼頭おず町その他の合計七つの市町村が合併して今の市になったのだが、旧深川町の方針として市民の健康増進のために運動を推奨していた。現在の市はその方針をそっくり引き継いでおり、街のいたるところに運動施設や公園が存在する。

 ちょうどショッピングセンターの南で市を南北に分断する高速道路およびその下の幹線道路が旧深川町と旧硲町の境界線なのだが、高速道路の下にはスケートボードの練習場が造られている。アルカードが老夫婦の家に転がり込む形になってから半年ほどのちに着工し、さらにそこから約一年後に完成したものだ――ちょうど着工から半年ほどで市町村の合併が行われ、一時期予算の関係で最後まで建設するかどうかで紛糾もしたが、最終的には完成させることが決定した。

 市の出身のスケートボード選手が当時の世界大会で上位に喰い込んだことに、当時の市長が気を良くしたことが後押しになったらしい――正直なところ幹線道路のど真ん中にある運動施設というのは、空気が悪いという点であまり良いものとも思えないが。

 鬼衣川はその河川敷全体を一種の運動公園の様にしたもので、北側、南側ともに懸垂用の鉄棒や雲梯、その他の器具が設置されている。河川敷の舗装はランニングコースにするためにかなり柔らかく、衝撃吸収性が高くなる様に造られており、足への負担が少なく走り易いのだ。

 これは街全体が同じで、市内の歩道や河川敷の舗装は順次衝撃吸収性の高いものへと取り替えられつつある。そういった試みを旧深川町の範囲以外ではじめて行ったのが鬼衣川で、一種のモデルケースとして整備されたのだ。

 どこかいいランニングコースは無いかとフィオレンティーナに聞かれて教えたのだが、その後は三人で自主トレーニングに使っているらしい。

「そうか」

 うなずいたとき話し声が聞こえて、フィオレンティーナとパオラが姿を見せた――フィオレンティーナは青いジャージのトップだけ着て、下は膝上までのスパッツを穿いている。パオラはまだ午前中で陽射しが柔らかいからか、タンクトップにランニング用のショートパンツを穿いていた。

「おはようございます」

 こちらの姿を認めて、パオラが声をかけてくる。フィオレンティーナもこちらに視線を向けて軽く挨拶の言葉を口にしてきた。

「ああ、おはよう」 穏やかな口調でそう返事を返し、アルカードはソバの頭をポンポンと二度叩いて立ち上がった。

「姉さん遅い」

「ごめんごめん」 文句を言う妹に適当に手を振りながら、パオラが謝辞を口にする。

 ブーツの爪先に前肢を載せているテンプラを見下ろして、軽く爪先を持ち上げる。前肢を靴の上からどけて、テンプラが一歩後ずさった。

「いつもの公園ですか?」 フィオレンティーナの質問に、アルカードはああと軽く返事をした――彼女が言っているのは、フィオレンティーナがアルカードの外出につきまとっていたころによく犬を散歩に連れていった、歩いて十分ほどのところにある公園だろう。

 本条邸の向かい側、硲西交差点の丁字路のところにあるコンビニのちょっと手前にも小さな公園があるが、アルカードは犬の散歩にここから十分ほど離れた消防署の裏手の公園をよく使う。

「これから香澄さんが来るんじゃなかったんですか?」 今度はかがみこんでふくらはぎとアキレス腱に体重をかけて軽く伸ばしながら、リディアがそう聞いてくる。アルカードは軽くかぶりを振って、

「それは十時くらいだからまだ大丈夫」 そう答えてから、彼はリードを軽く引っ張って犬たちの注意を引いた。少女たちにじゃれついていた犬たちが、そろってこちらに視線を向ける。

「でも、そろそろ行かないと間に合わなくなるかな――じゃあ、気をつけてな」

「はい、アルカードも」 笑顔で応えてくるパオラとリディア、仏頂面のフィオレンティーナに向かって適当に手を振って、アルカードは犬を促して歩き出した。

 駐車場に面した車道に出たところで、横手から吹いてきた風が穏やかに頬を撫でてゆく――車が来ないことだけ確認して、アルカードは店の前の道路を歩き出した。

 こんな穏やかな時間が、あとどれくらい続くのだろう。

 自分はどのみち、もうあと四半世紀は生きられない――そうなる前に霊体がほころびて死んでしまうだろう。

 おそらくは彼の弱体化の原因であるドラキュラを殺しても、弱体化の進行は止まらないだろう――治らない確証があるわけではないが、治る確証も無い以上根拠の無い希望には意味が無い。

 そうなる前に、なんとしてもドラキュラとカーミラは斃さなければならない――あのふたりに関しては、アルカード抜きでは聖堂騎士団は絶対に太刀打ち出来ない。最悪の場合、聖堂騎士団の聖堂騎士たちだけでは対抗出来ずに全滅する可能性もある。

 カーミラは仕留め損ねても、ドラキュラだけは刺し違えてでも――

 アルカードが不穏な気配を纏っているのに気づいて、ソバが爪先に前肢を置いて気遣わしげに鳴き声をあげる。

 それで我に返り、アルカードは知らず知らずのうちに握り込んでいた右拳の力を抜いた。

「ん? ああ……ごめんごめん、なんでもないんだよ」 かがみこんでソバの頭をそっと撫でてから、再び歩き出す――腕時計に視線を落とすと、九時二十分だった。

 時間が足りないわけではないが、ちょっと足を速める――店の前を通り過ぎてしばらく歩いたところで硲南の交差点に到達し、アルカードは足を止めた。

 足首を抱きかかえる様にしてしがみついてくるテンプラの頭を撫で、かがみこんだ膝に前肢を載せようとしているウドンの前肢を軽く握ってあやしながら、信号が変わるまでしばらく待つ。

 信号が変わって歩き出したとき、ジョギングくらいのペースで走ってきた三人の少女たちが後ろから追い抜いていった。

 その背中を見送って、歩を進める――信号の無い交差点で左手からやってきた古い年式のソアラに道を譲り、運転していた二十代半ばの綺麗な女性に会釈を返してから、アルカードは再び歩みを再開した。

 公園までは急げば七、八分程度だ――公園に近づくと、遊具で遊ぶ子供たちの歓声が聞こえてきた。

 車や原付、単車が入れない様にするためにいくつかポールが立てられた入口から、公園の中に足を踏み入れる

 ブランコ、滑り台、シーソー、砂場などに加えて、雲梯やパイプ状の通路、グネグネ曲がったパイプ状の滑り台を組み合わせた大型の遊具やアスレティック・ジムなどもある。

 犬たちのお気に入りの砂場は子供たちが使っているので、アルカードは遊具から少し離れた小さな四阿に足を向けた。

 円形に盛り上がった芝生の中央に建てられた六角形の四阿で、屋根は四阿の構造物の外側にかなり大きく張り出しており、壁をはさんで背中合わせになる配置で構造物の内外両方にベンチ状の椅子が設けられている。

 アルカードは日陰になる位置を選んで、四阿の外周に配置されたベンチのひとつに腰を下ろした。

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