Balance of Power 1
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アパートの裏庭からキャンキャンという鳴き声が聞こえてきて、リディアは水仕事の手を止めた。
ガスコンロに掛けた蓋の小さな鍋の中で、お湯が音を立てて沸騰している。鍋と鍋の蓋の密着が良いのか、時折蓋が持ち上がって蒸気が抜けるたびにカタカタと振動音を立てていた。
冷蔵庫の側面に吸盤でくっつけたタオルかけに引っ掛けた柔らかいタオルで手の水気を拭き取ってから部屋を通り抜け、裏庭に面した掃き出し窓から顔を出す。
アルカードの居室のほうに視線を向けると、金髪の吸血鬼がテンプラを庭に放しているのが視界に入ってきた――ある程度水気は拭き取られている様だが、全身の毛が濡れてぐっしょりしている。
外は雲ひとつ無い見事な快晴で、洗濯にも行楽にも適している――もちろん犬のシャンプーにもだ。テンプラは地面に降ろされると、全身を震わせて水気を振り飛ばした。
アルカードの部屋の裏側は、駐車場との塀の間にタープが張られて遮光されている――先日までは無かったものだが、犬を庭に放しているときに日射病のたぐいになるのを避けるために張ったらしい。洗濯物を干すのに邪魔になるわけでもないので、今のところ誰もなにも言っていない。
まだ八時前なので、日は高くない――風は無いがまだ気温が上がっておらず、過ごしやすくはある。日本の夏はちょっと湿気が多すぎる気がするが。
アルカードの足に前肢をかけて背伸びをしているテンプラの頭を軽く撫でてやってから、アルカードは排水管に結束バンドで取りつけたカラビナに手を伸ばした。カラビナには犬用のリードが三本つながっていて、いずれもバックルからはずされた首輪がついている。区別がつく様に色はばらばらで、白、茶色、黒とそれぞれ毛色に合わせた色の首輪だ。
アルカードはそのうちの一本、白い首輪をテンプラの首につけてやると、再び部屋の中に引っ込んでいった。
ちっちっと舌を鳴らすと、それまで部屋の中を向いて尻尾を振っていたテンプラがこちらを振り返る。玄関から持ってきたサンダルを履いて外に出たリディアの足元に駆け寄ってきたテンプラが、足首にしがみつく様にして尻尾を振り始めた。
かがみこんでテンプラの頭を撫でてやっていると、アルカードが今度は両手にソバとウドンを抱っこして戻ってきた。
「おはよう」
「おはようございます」 返事をするリディアの足元で、テンプラが飼い主の元へと寄っていく。
先日の月曜日だけはアルカードがひとりで荷受け――盆明けに備えて発注していたフライ用のサラダオイルが向こうの手違いで半分しか届かず、残り半分が月曜に届いたのだ――と発注のために出勤していたのだが、それ以降は特になにも無い。
現在は日本国内における支援機関が解体の危機にあり、そのせいで情報収集の能力が極端に低下している――動きたくても動けないのが現状なので、アルカードは今のところ身内の牙を磨くことに専念している様だった。
昼間は特にやることが無いので、犬を連れてそこらの公園に行ったり、ちょっと遠出したりもしているらしい。
裏手に面した掃き出し窓のへりに腰を下ろして犬の相手をしているアルカードのそばまで歩いていくと、吸血鬼は差し出された指を舐めているウドンから視線をはずしてこちらを見上げた。
「退屈か」
「そういうわけじゃないんですけど」 そう答えて、リディアはタープが作り出す影の中へと足を踏み入れた。タープのおかげで陽射しが遮られ、それだけでもだいぶましになる。
かがみこんで手を伸ばすと、ソバがこちらの指先に寄ってきた――指先を舐めているソバの頭を撫でてやりながら、
「洗ってあげてたんですか?」
「ああ。天気がいいから」 アルカードがそう答えてから、テンプラの頭を撫でてやる。
「今日は別段用事が無いしな」 脛のあたりに前肢をかけて後肢で立っているウドンの顎の下をくすぐってやりながらそう答えて、アルカードは小さく息を吐いた。
ちょうど吹き抜けていった優しい風が、掃き出し窓の内側に吊られた風鈴を揺らす。ちりんちりんという穏やかな音に顔を上げると、向こう側の壁際に寄せられた巨大な二階建て犬小屋(屋上つき)が視界に入ってきた。明らかに室内に置くには大きすぎるのだがアルカードは気にしていないらしく、犬小屋周りの柵にいくつかおもちゃが転がっている。
「否――そういえば、こないだのがまだ残ってたな」
「こないだの? ……あ」
当時のことを思い出したのか額にわずかに残った傷跡を右手の親指でこすっているアルカードの横顔に、リディアも彼がなにを気にしているのかに思い当たった。
「クッキー泥棒の件ですか?」
「ああ」 憂鬱そうにうなずいて、アルカードは深々と嘆息した。
「泥棒本人も余罪が出てきたとかで、親子三人執行猶予無しで仲良く塀の中に行くらしいんだが、その親族にもこっちの連絡先が伝わってる可能性があるからな」
なにしろほかの親族はともかく、あの女と娘はここを知ってるわけだからな――ぼやく吸血鬼の横顔を見ながら、リディアは掃き出し窓のすぐ横に配置された雨樋にもたれかかった。
「なにしろあの女の親があれだ。親戚がまともなことも望み薄だろう――君たちや店に迷惑がかからなければいいんだがな」
「わたしたちは大丈夫ですよ」 リディアの返答に、アルカードが顔の半分を手で覆ったままこちらに視線を向ける。
「君たち三人について、身の安全は別に心配してないよ――と言いたいとこだが、俺のせいで迷惑がかかるって点では同じだからな」
リディアはその返事にあははと声を立てて笑い、
「そうですね。じゃあもしなにかあったら、そのときはまたどこかおいしいお店に連れてってください」
「ああ、覚えておくよ」
リディアの言葉にそう答えてから、アルカードはいったん立ち上がって部屋の中に引っ込むと、犬用の飲み水の鉢に氷と水を入れて戻ってきた――それを掃き出し窓の下にに置いて、もう片方の手で持っていたアルミ製の蓋で密封された樹脂製の白いカップ――アイスボックスを差し出してくる。
「よかったらどうぞ」 リディアはジャイアントコーン派なので、アイスボックスは食べたことが無い――リディアは手を伸ばして、差し出された樹脂製のカップを受け取った。
「いただきます」 アルミ製の蓋を引き剥がして、中身の氷を口に入れる――薄い水色がかった色のついた氷を噛み砕くと、酸味のきいたグレープ味のついた砕片が口の中に広がった。
これはこれで悪くない――ジャイアントコーンの包装紙みたいに周りが汚れないし。
食べ物をせがんで鳴く犬たちを見下ろしてから、リディアはアルカードに視線を向けた。
「それをやるのはやめてくれよ」 言いながら、アルカードが一緒に持って来たらしいビーフジャーキーを手にとって犬たちに与えてやる。ソバとテンプラはそれに飛びついていったが、まだ少し体の小さなウドンは興味が無いらしく、アルカードの爪先に顎を載せる様にしてその場でうずくまっていた。
子供たちの明るい笑い声が、塀の向こう側から聞こえてくる――どこかに遊びにでも行くのだろうか。
「今日はなんだか朝からにぎやかですね」
「ああ、学校に行くんだろう」 リディアの言葉に、アルカードはそう答えてきた。
「夏休みじゃなかったんですか?」
「今日は終戦記念日だから。学校でなにやらするらしい――詳しくは知らないが」
「ああ、そうでした。日本だと太平洋戦争の終結日でしたっけ」
「ほかの国が何日に制定してるのかは知らんがな――恭輔君が子供のころははだしのゲンを見せられたらしいが、今はどうだか知らん」 アルカードはそう言ってから、手にしたアイスボックスの残りを一気に食べきってカップを床に置いた。ソバが伸ばした前肢を軽く掴んで左右に振りながら、
「しかしなんだ、一日だけならともかく何日も店の仕事も休みで吸血鬼狩りも無いとか、なんだか落ち着かないな」
それを聞いて苦笑しながら、リディアは軽くかぶりを振った。基本的にこの吸血鬼は、なにかをしていないと落ち着かないタイプなのだろう。
「どこかに出かけないんですか?」
「どこに? そこらの公園なら散歩の範囲だがな、それ以上は相手がいないぜ」 それとも、君がデートにつきあってくれるのか? そうぼやいてからアルカードはソバの前肢を放し、膝下を前肢でかかえ込む様にしてしがみついているソバの頭を撫でてやりながら、
「まあ、今日はあとで香澄ちゃんが来るから、用事はあるんだがな」
「香澄さんが?」 そう尋ね返すと、アルカードは小さくうなずいてみせた。
「ほら、例の原付の話だよ」
つまり、先日の雨の日に顔を出していた要件なのか――もう結構な日数が経過しているが、たがいの都合がつかなかったのだろう。
「と言われても、スクーターがどう悪くなってるのか、わたしにはさっぱりなんですけど」
「パオラは横で聞いてたが、彼女も似た様な反応だった」 アルカードがかぶりを振り振り、そう答えてくる。
「まあ、実物を見ないとわからないだろうな。自分で触るつもりが無いなら、わからなくても困らないし」
そう付け加えてから、アルカードは顔を顰めた。
「……なにか焦げ臭くないか?」
「そうですか? ……あ、いけない!」 朝食が物足りなかったので卵を茹でていたことをそこに至ってようやく思い出し、リディアは自分の部屋の空きっぱなしの窓のほうを振り返った。鍋を火にかけてから、もう二十分以上たっている。臭いがするということは、鍋のお湯が干上がって卵が焦げているのかもしれない。
「ごめんなさい、お邪魔しました!」 挨拶もそこそこに、リディアは自分の部屋に駆け戻った。
†
「ごめんなさい、お邪魔しました!」 あわただしく部屋に戻っていくリディアの背中で揺れるおさげ髪を見送って、アルカードは小さく息を吐いた。
騒がしいことだ――まあ、そこが見ていて楽しいのだが。
アルカードは胸中でつぶやいてから、彼女が先ほど足元に置いていたアイスボックスの樹脂カップを手に取った。自分のカップを重ねて部屋の中に入り、そのままキッチンのシンクのそばに置いておく――後始末は別に急ぐ必要は無い。
アルカードは庭のほうに視線を向け、たがいにじゃれ合っている仔犬たちのほうを見遣った――体毛が完全に乾くにはもう少しかかるだろう。
香澄と――暇だと言っていたから、たぶん陽輔も来るのだろう。
それまでは別段用事も無いので、散歩にでも連れ出すことにしよう。
胸中でつぶやいて、アルカードは掃き出し窓を閉めてロックをかけた。
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