Black and Black 36

「聞かれれば渡していいことになってる。どっちみち、書いてある内容をそのままなぞっただけで同じものにはならないしな」

 それだけ言ってから、アルカードはあらためてフィオレンティーナに視線を向けた。

「ちょっと用意に時間がかかるから、フロアこっちを頼むよ――あのふたりしかいないから、それほど忙しくはならないと思うけど」

「はい」 素直にうなずくフィオレンティーナに肩越しに手を振って、アルカードはそのまま事務所に足を向けた。

 扉を開けて中に入ると、食事を終えたアンと洗い物が終わって手が空いたエレオノーラ、それにこちらも一段落ついたので厨房を夫に任せたイレアナがテレビのニュースを見ながらくつろいでいる。

「忙しい?」 というアンの質問に、アルカードはパソコンのマウスを操作してフォルダのひとつを開きながらかぶりを振った。

「否」 それだけ答えてから、アルカードはプリンターの電源を入れてレシピ表のファイルを印刷し始めた――料理ごとにあらかじめ写真入りでまとめたエクセルのファイルで、あとはプリントアウトするだけでいい。

 痛いのは写真つきなのでカラー印刷せざるを得ないことと、そのせいで枚数が多いこと、インクの消費量が多いことだ――レシピを要求されることがさほど多くないことが救いだが。

 写真入りで印刷されたレシピクリアファイルに入れ、それを持ってフロアに戻ると、ちょうど美音が向かいに座った陽響の頬に手を伸ばしたところだった。

 美音が聖母の様に微笑みながら、取り出したハンカチで陽響の頬を拭いたりしている。頬にソースでもついていたのだろうか。

 ポリポリと頬を引っ掻く陽響に美音がくすくす笑い、それを見た陽響がテーブル越しに手を伸ばして美音の頬を両手でつねりあげた――なんというか、年下の彼女にからかわれて照れ隠しに軽い暴力を振るう構図らしい。でもそういうのって、すぐ関係破綻の原因になるぞ? 亭主と義理の実家の暴力が原因で離婚した――正確には説得して離婚させた――マリツィカのことを思い出しつつ、アルカードはちょっとだけ歩調を落とした。もうしばらく邪魔せず見ていたほうが面白そうだ。

 美音から手を放した陽響が、そこで動きを止めた。立ち去らずにすぐ横で一部始終を眺めていた、フィオレンティーナに気づいたらしい。気づけよ。

「お待たせ。……夫婦漫才は楽しかったか、お嬢さん?」 というアルカードの言葉に、陽響が猛烈に噎せ返る。

「ちょっと待て、誰と誰がだ」

「君らふたりに決まってるだろう。仲のいいことで結構なことだ。嗚呼美しき哉美しき哉」 そう言ってから、アルカードはレシピ表をテーブルの上に置いてやった。

「ほんとですか?」 と声をあげた美音のほうは、まあ普通にうれしそうではあった――こちらは夫婦という表現に異論は無いらしい。

「ああ、息ぴったりだった」

「ひーちゃん。ひーちゃん。私達、夫婦に見えるんだって」 晴れやかな笑顔を振りまく美音と、まだ噎せている陽響。ふたりをまったりした生温かい視線で包み込みながら、アルカードは恵比寿みたいな――たぶんはたから見たらそうだろう――笑みを浮かべた。そしてそれに気づいたフィオレンティーナが、あからさまに胡散臭そうな半眼でアルカードを見上げている。

「あぅ。大丈夫ぅ、ひーちゃん?」 と美音が声をかけるのだが、咳き込んでいて返答が出来ないらしい。どれだけ派手に入ったらそうなるんだ。

「苦しいの? 背中さすってあげるね」 という美音の言葉に、陽響がどこか恨めしげな視線を向ける――が、その視線をどう取ったのか、美音はそのまま陽響の背中をさすり始めた。

 なぜか恨めしげにこちらを見上げてくる陽響の視線をさらりと受け流し、アルカードは相変わらず満面の笑みで肩をすくめ、

「んー、ラブラブだねえ。仲睦まじきことは美しき哉、ああ美しき哉」 どんどんと拳で胸元を叩きながら、陽響がアルカードを睨め上げてくる――その視線に肩をすくめて、アルカードは美音の様子を窺った――今度は美音の前にも十分な料理があって、それがきちんと減っている。

「追加はまだある? 無かったらデザートを持ってくるけど」 というアルカードの言葉に、陽響が咳き込みながらもこちらに視線を向けた。

「否、別、に」 途切れ途切れにそう返事をしてくる陽響に肩をすくめ、

「不要なんだったら別にいいけど、デザート自体は食事客にはただで出してるんで、別に追加料金は出ないぞ」 と、言い添えておく。

「お願いします」

「オーケー、ちょっと待ってて」

 陽響はなにも言わなかったが代わりに美音が返事をしてきたので、アルカードは踵を返して厨房に向かって歩き出した。今日のデザートはなんだったか。

 

   †

 

「不要なんだったら別にいいけど、デザート自体は食事客にはただで出してるんで、別に追加料金は出ないぞ」

「お願いします」 アルカードの言葉に、美音が目を輝かせてそう返事をする。

「オーケー、ちょっと待ってて」

 吸血鬼が適当に手を振って、厨房に向かって歩き去る。その背中を恨めしげに睨みつけながら――正直逆恨みだと思う――、黒髪の青年がようやく止まりつつある咳を完全に止めようとお冷やのコップに口をつけて一気に飲み干した。

「ねえひーちゃん、ほんとに大丈夫?」 美音が立ち上がったときに、腰に届くポニーテールがふわりと揺れた。テーブルを廻り込んでそばに近づき、気遣わしげに黒髪の青年の顔を覗き込む。彼は少女に視線を向けて、肺の奥から絞り出す様に深々と息を吐きながら、

「顔が、近いんだよ」

 今にも相手が死にそうな涙目になっている少女の額を指で弾いて、黒髪の青年は上体を起こして背凭れにもたれかかった。フィオレンティーナが注ぎ直したお冷やを一気に飲み干して、

「はあ、死ぬかと思った」

「本当にだいじょうぶ?」

「ああ、もう平気だ。平気だから、そんな顔するな」 そんな会話をしているふたりの様子を少し離れたところから――なんとなくアルカードの生温かい笑顔の意味がわかる様な気がしてきた――眺めていると、吸血鬼がデザートのクレープを持って戻ってきた。なにが楽しいのか相変わらず生温かい――幼稚園児のカップルを見守っているときの様な――、まったりした笑みを浮かべている。

 が、お盆の上の皿の数がおかしい。クレープは四皿、ついでにコーヒーカップも四脚。コーヒーのポットのほかに、角砂糖の入った硝子製の容器とミルクポットも載っている。

「……コーヒーは頼んでないぞ」 という黒髪の青年の言葉には返事をせずに、アルカードはクレープのお皿をテーブルの上に並べ――空席になっている椅子の前にも置いている――、

「ああ、頼まれてないな」 アルカードはそう返事をしてから、

「暇だから、少し話でもしていかないか――なにか用事でもある?」

「特には無いな」 黒髪の青年が答えると、アルカードは馴れ馴れしくテーブルに片手を突いた。仕事中にこういった不調法な真似をするのは、この吸血鬼には珍しい。

「なら、決まりだ」

「ちょっと、アルカード――」 フィオレンティーナが嗜めようとするのには答えずに、

「飲み物は?」

「要る」 とこれは黒髪の青年である。

「ジュースがあったらお願いします」 と、これは少女のほうだ。

「オーケー、そこのメニューからお好きなのをどうぞ」

「……料金に追加するんじゃないだろうな」 疑わしげな青年の言葉に、アルカードが適当に手を振る。

「そのぶんくらいは俺の奢りにしとくから心配するな」

「じゃあコーヒーを。アイスコーヒーで頼む」

「えっと、それじゃあこのリンゴジュースを」

 少女がドリンクメニューを手にそう告げると、アルカードは再び厨房のほうに姿を消し、ものの五分で戻ってきた。新たなお盆にリンゴジュースとアイスコーヒーのグラスを載せている。

 彼はふたりの前にそれぞれオーダーされた飲み物を置いてから、ストローを配り、黒髪の若者の前にガムシロップとミルクポットを押し遣った。

 さてと、とアルカードがそれまで少女が座っていた席に腰を下ろす。

「アルカード、失礼じゃないですか?」 お客さん相手ですよ――眉をひそめてフィオレンティーナが声をかけると、アルカードはポットのコーヒーをカップに注ぐ手を止めて適当に手を振ってみせた。

「君だってなにか聞きたそうにしてるじゃないか」

「うっ……まあ、否定はしませんが」

「だろう? 疑問をあとに引きずっても、戦闘能力が低下するだけだぞ」 と言って、アルカードが着席を促す様に隣の椅子の座面を軽く叩いてから、長い脚を組んだ。

「とりあえず自己紹介の続きってことでいいかな?」

「……オーケー。相互理解が深まるかどうかは置いておくとしても、ここで殺りあうよりはいくらか建設的だろう」 彼はそう返事をしながら、ガムシロップは嫌いなのか硝子製の容器に入った角砂糖を次から次へとアイスコーヒーのグラスに放り込んでいる。冷たい飲料はグラス自体が冷やされているので砂糖のたぐいはとにかく溶けにくいのだが、本人は気にしていない様だった。

「賢明だな――そうしておけば、少なくともここから五体満足で帰ることは出来るからな」 アルカードがそう言って、コーヒーカップに手を伸ばす。ストレートのリンゴジュースに口をつける少女に一瞬視線を投げてから、アルカードはコーヒーカップに口をつけた。

「まあ俺のことは――さっき自己紹介は済ませたが。アルカード・ドラゴス。出身はワラキア公国。口さがない人は俺を吸血鬼と呼ぶね。見ての通り、この店の店員だ」

 アルカードがそう言ってから、隣に腰を下ろしたフィオレンティーナに視線を向ける。彼のいう自己紹介とは、つまり彼らとフィオレンティーナの自己紹介であって自分のことではないのだろう。

「……わたしはフィオンティーナ・ピッコロ。出身はイタリア。そっちの彼は知っているようでしたが、ヴァチカン聖堂騎士団の所属です。今は……遺憾ながら、この店の店員です」

「遺憾って言うな」 不服そうなアルカードに視線を向けて、フィオレンティーナは反駁した。

「言います。なんだって聖堂騎士のわたしがウェイトレスの格好をして、貴方の様なお気楽な吸血鬼の世話にならないといけないんですか。それに貴方は半分私服みたいなものじゃないですか、なのにわたしはフリフリのエプロン。理不尽にも程があります」

「似合ってるんだからいいだろ、別に。俺がフリフリのエプロン着るよりましだろ」

「変なもの想像させるなよ」 黒髪の青年が思いきり顔を顰めて口をはさむ。アルカードはそれを無視して、

「俺の恰好はただ単に男性従業員の制服が無かったからそれらしい恰好をしてるだけだからたしかに私物だがな、君が男装がしたいのなら別に止めないぞ? 男装の麗人のウェイトレス。それはそれで客引きの材料にはなるかもしれないし」 アルカードはそこでいったん言葉を切り、

「それともあれか? 俺が君の着てるその制服着て、仕事してるところが見たいのか? さすがにそれはちょっとどうかと思うぞ、男の(めっちゃ男っぽい)がいるとか、店の評判にもかかわるし」

「そういうことじゃないです」 思いきり顔を顰めてそう返事をすると、向かいで黒髪の青年が盛大に嘆息した。

「……なんか複雑な事情がありそうだな」

 黒髪の青年の言葉に、アルカードが小さく息を吐く。

「さてな――複雑ってわけじゃないが面倒臭くはあるな。今度は君の番だな」

「了解。そっちの彼女は知らないだろうから、こっちもフルネームで自己紹介させて貰おう。名前は空社陽響――ファーストネームがヒビキだ。ご覧の通り、日本人。『彼岸』に関わる案件、その全般に携わる探偵の様な仕事をしている。事務所を構えているが、どこの団体にも所属はしていない」

「『彼岸』とはなんですか?」 口をはさんでからフィオレンティーナは隣のアルカードに視線を向けたが、彼も知らないのかそれともあるいは本人に説明させろということか、金髪の吸血鬼は適当に肩をすくめただけだった。

「常ならざる世界、世にあり得ざるもの。悪魔や魔物、悪霊に怪奇現象。一般に存在しないと言われているものの総称だ」 黒髪の青年――空社陽響が、そんなふうに答えを返してくる。

「では、貴方もエクソシストなのですか?」

「そこまで限定的なものじゃないな。どちらかというと便利屋みたいなものだと思った方が正解に近いだろう。退魔だってやるが、調査と報告。追跡や分析、必要とあれば委託や斡旋、取次ぎも行う。経歴の蓄積年数は短いが『皇帝』や『幻想の天敵』と呼ばれることもある」

「『皇帝』……『皇帝Imperatore』。ちょっと前に、どこかで聞いた様な気がしますけど」

「多分、『天の庭ガーデン』の案件じゃないか? 西洋圏で大きく活動したのは、あの時くらいだからな」

「っ! そうです! 三年前、七千人からなる魔術師と異能者からなる、魔術結社が突然姿を消した大事件。ヨーロッパ最大規模のコミュニティーが原因不明のまま一晩で消滅したことで、一時期はパワーバランスが大きく崩れたんです」

「『天の庭ガーデン』? ああ、あの大規模な魔術師コミュニティか。最近名前を聞かなくなったと思ったら、へー、そんなことがあったのか」 その事件には参加していないからか、アルカードはまるっきり他人事の口調だった。

「あのときは大変だったんですよ。抑止力が無くなったことでよその大陸で増えた吸血鬼が大量にヨーロッパに流れ込んでくるし、新興の魔術結社は幾つも台頭してくるし、各地で小競り合いは起こるし……」

 『天の庭ガーデン』壊滅後の混乱を鎮静化させるための戦闘任務に参加していたフィオレンティーナは、そのときのことを思い出して心底疲れた声を出した。愚痴を聞きながら、吸血鬼が彼女を宥める様に背中を叩く。

「あんたも知ってるのか?」 陽響の質問に、アルカードが首をすくめる。

「否、全然――俺はその掃討作戦に参加してない」

 作戦に参加、という言葉にどんな解釈をしたのか、陽響は何事か口を開きかけてから結局やめてしまった。

「たしかに、その前後に『皇帝』と『獅子王』という単語が流布しました。単語の真相は掴めなかった様ですが。では、貴方はその『皇帝』なのですか。だとすれば、『天の庭』が消えた理由を知ってるのですか?」

「たぶん、その『皇帝』だ。『獅子王』と呼ばれた存在も知っている」

「なにがあったんですか?」 フィオレンティーナが尋ねると、陽響は新しいコーヒーに角砂糖を次々と投げ込みながらあっさりとかぶりを振った。

「いや、知らん。事件の前に少し関わったくらいだ」

「本当ですか?」

「さっきの言葉は嘘だ、と?」 フィオレンティーナが念を押す様に尋ねると、陽響を不愉快そうに眉をひそめてそう返してきた。しばらく陽響の視線を捉えてから、フィオレンティーナは小さく息を吐いた。

「そうですか。……わかりました、信じましょう」

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