Evil Must Die 15

 

   *

 

 秋斗が手にしたボールを頭上に翳し、そのまま放り投げた。てん、てんと二回ほど跳ねたボールが壁にぶつかるよりも早く、横合いから飛びついたソバがボールを抑え込む――そのままボールともつれあう様にして転がったソバに、ほかの仔犬たちが飛びついていった。

 なんとなくラグビーのボールの奪い合いを連想しながら、アルカードはそれまで捏ねていた犬用クッキーの生地に少し水を足した。

 コンビニで買ってきた白ゴマと、それに加えて棚から発掘した黒ゴマも加えて、生地には若干彩りが出ている。

 十分に生地がまとまったところで、アルカードはちぃん、という音を聞いて振り返った――十二分に設定していた加熱蒸気レンジのタイマーが切れたからだ。

 指や掌にこびりついた生地をシンクに翳して水道水で軽く洗い流し、アルカードは加熱蒸気レンジのほうに向き直った。

 扉をちょっと開けて中を覗き込むと、熱気と一緒に漏れ出したバニラエッセンスとココアの強い香りが漂ってきた。温度設定を百七十度から百五十度に下げて、タイマーを十五分に再度セットする――焼き色をつけた後は再度低温でじっくり焼くと、サクサクした食感に仕上がるのだ。

 レンジの前を離れてリビングに戻ると、子供たちが仔犬に向かってボールを転がしていた。

 どうも奪い合うみたいにしてボールにじゃれついているのが面白いらしく、その様子を声をあげて笑いながら眺めている。

 アルカードがキッチンから出てきたのに気づいたのか、美冬が満面の笑みを浮かべてこちらを見上げてくる――アルカードの顔を見上げようと体をのけぞらせすぎてひっくり返りかけた美冬の背中を支えてやってから、アルカードは足元に転がってきたボールを爪先で蹴り返してやった。

 ソファの背もたれに腰掛ける様にして腰を落ち着けると、秋斗が寄ってきてジーンズの裾を掴んだ。

「ん?」

 かがみこんで秋斗の両脇に手を入れ、そのまま抱き上げてやると、秋斗はアルカードの髪の房を掴んで振り回し始めた――どうもほかに金髪が身近にいないせいか、ちょくちょく会うとおもちゃにしたがるのだ。

 苦笑いしながらしたい様にさせていると、視界の端でなにかが動いた。子供たちが裸とさして変わらない格好なのでカーテンを引いたままにしている窓の向こうを、うっすらとした影が横切ったのだ――とっさに視線で追うが、すぐに壁の向こうに消えてしまう。

 熱源分布視界サーマルイメージ・ビューで相手の動きを追うと、原色で構成された視界の中で壁の向こうをオレンジ色の影が歩いているのが見えた――壁で熱が遮断されているためだろう、遮蔽物無しで人間や熱源を見たときほどの鮮やかな色合いではない。

 壁に隠れていた姿が壁で隠れる範囲から出たために遮蔽物の厚みと材質が変わって、先ほどよりも鮮明に姿が捉えられる様になった。

 とりあえず吸血鬼ではない――雨雲で日光が十分に遮られていれば噛まれ者ダンパイアは昼間の屋外でも活動は可能だし、『剣』や真祖であればそんなものは気にする必要も無いが、吸血鬼にしては壁越しだとしても体温が低すぎる。

 これはなりかけヴェドゴニヤのフィオレンティーナでもそうだが、吸血鬼は生身の人間に比べて平均的に体温が高い――体温が十度しかなかったり、死体の様に冷たいというのは、映画や小説の中だけだ。本物の吸血鬼は人間の身体能力そのものは四十度前後がもっとも好調であるためか、それに近い温度を常時維持している。

 そのために、彼らの体温は人間よりもかなり高い――といっても別に普段から体温が四十度台を超えているというほど極端なものではないが、ある種の熱源探知装置やロイヤルクラシックの高度視覚を使えば容易に識別出来る。

 服が濡れているために体が冷えてそう見えるだけという可能性もあるが、動きがどう見てもこちらに気づかれることを警戒している様に見えない――少女たちにしては体型が違う。

 秋斗を床に降ろし、軽く頭を撫でてやってから、アルカードはソファの背もたれから離れて窓に近づいた。カーテンをちょっと動かして窓硝子越しに外部の様子を窺うと、それが見覚えの無い太った中年の女性だと知れた――こちらには視線も呉れずに、周囲をきょろきょろと見回している。

 カーテンは薄いが、内部が透けて見えるほどではない――それでも室内燈を完全に遮蔽出来るほどではないので、こちらが室内にいることは気づいているだろうが、こちらを無視してなにを探しているのか周りを見回している。

 わざと音を立てて窓を開け放つと、女性があわてて振り返った。あーら、と愛想笑いを浮かべる女性に、

「なにかご用ですか? ここの住人の方ではないですね」

 わざと冷たい口調を意識してそう声をかけると、

「あらー、ごめんなさい。傘が飛ばされて、ここの庭に入っちゃったもんだから」

「俺の部屋に管理人室って書いてあるのに気づかなかったんですか?」 周囲に視線を走らせて、そう告げる――女は足元はともかく、上半身はさほど濡れていない。傘が飛ばされたというのは本当なのかもしれないが、敷地の一番奥に誰かが植えて今や立派に収穫出来るミカンの木から裏側に回る角の所にある備品用の倉庫まで、視界に入る範囲で一通り見てみたがそれらしいものは無い。

 アルカードは女に視線を戻すと、

「見たところ敷地内には無い様ですが。仮にそうだとしても、無許可で入るのは場合によってはしょっ引かれますよ」

 そう言ってから、アルカードは親指でアパートの門のほうを示した。敷地の中に入っていないなら早々に出て行けという意思表示のつもりだったのだが、女は傘には興味を無くしたらしく、窓に近づいて廂の下に入ってくると、アルカードの体とカーテンの隙間から室内を覗き込む様にしながら、

「お兄さんは今日お休みなの?」

「ええ。でもあなたには関係無――」 い、と続けるよりも早く、こちらの言葉にかぶせる様にして、女がけたたましい声でまくしたてる。

「ん、いい香り。クッキーでも焼いてるのかしら」 四コマ漫画なんかに出てくるオバタリアン系のおばちゃんキャラは声を当てたらこんな感じなのだろうかと思いながら、アルカードは甲高い声に顔を顰め、

「それがなにか?」

 あからさまに険のある言葉にも、女は動じた様子も見せなかった。

「よかったら分けてくれない?」

「あいにく数はあまりありませんので、お断りします。探し物はここには無い様ですし、すぐに退去してください」

「いいじゃないの! 子供のぶんもあるからたくさんお願い」

「数は無いと言ったし、差し上げるつもりもありません。そもそも俺が作ったものでもありませんので、お引き取りください」

「もらいものだったら別に惜しくもないじゃない。お裾分けっていう精神はあなたの国には無いの?」

 なんだこの女――思いきり顔を顰めたとき、

「うちの子にクッキーあげたいから、ね?」

「知りません。帰ってください」

「うちの子が可哀想だと思わないの?」

「知るか」 いきなりがらりと口調を変えたからだろう、驚いた様に目を見開いている女に、アルカードは続けた。

「おまえの子供なんぞ知るか。まあ、その子供のために菓子を作る手間を惜しむ程度の愛情しか無い母親を持ったのは不幸だと思うがな、それはこっちの知ったこっちゃない。『帰れ』ともう三回言ったぞ――警察呼んで不法侵入と不退去で連れてってもらうか?」

 警察という単語におびえてか、女がそんなとかなんとか言いながら後ろ向きに後ずさり、誤魔化す様にほほほと笑いながら門のほうに出ていった。

 そのあとエンジン音が聞こえてきたことから察するに、そもそも車で来ていたのだろう。

「なんなんだ、あの女」 ぼやいてから窓を閉めてロックを掛け直し、アルカードは足元に寄ってきた仔犬に気づいて笑顔を取り繕った。

 春はもう過ぎてるんだがなぁ……まあ、ああいう手合いは春に限らず、年がら年中活動しているが。

 ……空き巣の下見か?

 顔を顰めて首をかしげつつ、こちらが不機嫌になっているのを察してか尻尾を振るのをやめたソバを抱き上げてやる。

「ごめん、大丈夫だよ」

 中村に簡単に相談してみたほうがいいかもしれない――彼にはアルカードの公式の身分を明かしてはいないが、それなりに親しいつきあいをしている。相談を持ちかければ乗ってくれるだろう。

 口元を舐める癖のあるソバの舌から逃れるためにちょっと首をのけぞらせながら、アルカードはソバの耳の裏を軽く指で掻いてやった。そのまま硝子テーブルの向こうでボールを転がしている子供たちのそばに戻って、ソバを床に降ろしてやる。その場でころんとひっくり返ってお腹を見せたソバのかたわらに折り敷いて腹をさすってやったところで、加熱蒸気レンジがタイマーが切れたことを報知するベル音が聞こえてきた。

 立ち上がってキッチンに足を向けると、それに気づいて美冬がついてきた。

 横で興味津々といった風情で覗き込んでいる美冬に視線を投げて、先に手を洗ってから過熱蒸気レンジの扉を開けると、先ほどに比べて湿気の感じられない熱気が漏れ出してくる。

 かたわらで手元を覗き込んだ美冬が、期待もあらわに目を輝かせている――手を伸ばしかけたのをまだ熱いからと制して、アルカードはトレーごと調理台の上に出しておいた鍋敷きの上に置いた。いい感じに焼きあがったクッキーを手早く大皿の上に移し、トレーごとどけてからもう一枚のトレーの中身を取り出しにかかる。

「おいしそうに焼けたよ、みーちゃん」 声をかけてやると、美冬は実物を見たいのかなんとか調理台の上まで目線を高さを上げようとして何度も背伸びを始めた。両脇に手を入れて抱き上げてやると、焼き上がったクッキーを目にして美冬が歓声をあげた――食べたいのか手を伸ばす美冬をまだ熱いからとやんわりと制して、床の上に降ろしてやる。

 アルカードは二枚目のトレーのクッキーを大皿に移してオーヴンシートを敷き直した――さて、次はどれにしよう。

 秋斗のチョコチップクッキーはもうしばらく寝かせたほうがいいだろうし、激辛クッキーは後回しにしたほうがいいだろう。もし失敗したら、秋斗のチョコチップクッキーにおかしな匂いがつきそうだ。

 さっきまとめ終えた犬用クッキーの生地をオーヴンシートの上に手早く並べて、アルカードはオーヴンシートを載せたトレーを過熱蒸気レンジの中に戻した。

 二枚目のトレーも加熱蒸気レンジに入れて、扉を閉める――時間設定を十五分にして再度スイッチを入れてから、アルカードは美冬を連れてリビングに戻った。

 壁を背にして床に折り敷き、寄ってきたソバの鼻先に指先を差し伸べる――指先に鼻を近づけて匂いを嗅いだあと、ソバはこちらの膝に前肢をかけて顔に鼻面を近づけてきた。

 届かないことに諦めたのか、ソバが顎をアルカードの膝に載せる。後頭部から背中にかけて丁寧に撫でてやると、ソバはくわぁ、と欠伸を漏らしてそのまま床の上にうずくまり、ころんとひっくり返って腹を見せた。

 お腹をさすってやりながら子供たちの様子を窺うと、たまたま目の合った秋斗が心底楽しそうににこっと笑った。向けられた屈託の無い笑顔に微笑を返し、手を伸ばして秋斗の頭を軽く撫でてやる。

 そろそろいい時間か――胸中でつぶやいて、アルカードは洗濯物の乾き具合を確認するために再び立ち上がった。

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