Evil Must Die 16

 

   *

 

「――恭輔っ!?」

 あげた悲鳴が夫のところまで届いたかどうかは、わからない――無事だった石段が粉砕されて無数の砕片と細かな埃状になった石の粉が舞い上がり、猛烈な勢いで飛来した大量の石くれが光壁の表面に衝突して激光が視界を塗り潰した。

 太陽を間近で見たかの様な激光に視界が白濁し、そしてそれが収まったときには触手が引き戻されつつあった――触手の打擲によって畝の様に陥没が生じた地面には汚らしいどす黒い液体がこびりつき、夫と義弟の存在の痕跡は残っていない。

 まさか――最悪の想像に背筋が粟立つ。だが想像が形になるよりも早く背後から軽い悲鳴が聞こえてきて、デルチャは背後を振り返った。肩越しの視界の中で、光の壁をすり抜ける様にして光のドームの内側に入り込んできた恭輔と陽輔が地面に手を突いて体を支えている。壁の向こう側にはアルカードの姿も見えた――どうやら触手に叩き潰されるよりも早くふたりを救出したアルカードが、光の壁の内側に彼らを放り込んだらしい。

「アルカードさん、なにあれ? というかその格好――」

 陽輔が肩越しに問いかけた声は、聞こえていたのだろうか。

 否、聞こえていないのだろう――金髪の青年はこちらを見ていない。唇は動いていたものの、声は壁に遮られて聞こえない――だが皮肉げに唇をゆがめて言葉を紡ぐその表情は、明らかに知己に対するものではない。

「おのれ……おのれッ! ざま――どごまでもごのワジの邪魔でをずるがッ!」

 太い触手で地面を打擲しながら、癇癪を起こして暴れる子供の様に蜘蛛が怒声をあげる。

「ごの偉大なるワジが、愚がな人間どもをみぢびいでやるだめにぢがらり戻ぞうどじでいるどいうのに――」

 頭の中に響く蜘蛛の濁声に、唇をゆがめて嘲笑を浮かべてからアルカードが口を開く――なんと言っているのかはわからない。唇の動きが違うので、日本語でないことだけは理解出来た。そしてそれと同時に、アルカードが発したものらしいあからさまな嘲弄と侮蔑の言葉が――蜘蛛のそれと同じ様に――頭の中に直接聞こえてくる。

「てめえの事情なんぞ知るかよ、阿呆が」 なんと言っているのかはわからないのに――明らかに日本語でない言葉は、なぜか日本語となって頭の中に響いてきた。まるで彼が言葉として発しようとした意思そのものを、脳がじかに受診しているのかの様だ――テレパシーというのはこんな感じなのだろうか。

 軽侮の笑みを浮かべたまま、金髪の青年が光の壁を廻り込む様にして前に出る。

「ガキを喰い殺そうなんて手合いはな、見ててむかつくんだよ」 その言葉を最後に軽く拳を握り込み、アルカードは地面を蹴った。

 

   †

 

 酷使された心臓と肺が悲鳴をあげ、喉が焼ける様に痛い。休息を求める体に鞭打って、神城恭輔は自宅近くの無人の神社に続く参道の階段を駆け登っていた。かたわらを走る陽輔はまだ余裕がありそうだが、スポーツから離れて長い恭輔は体力の低下が著しい。手足は鉛の様に重く、息も絶え絶えだった。

 だが娘を連れて出かけた妻がどこかで危険な目に遭っているかもしれない可能性を思えば、足を止めるわけにはいかない――まして、自分よりもはるかに年かさのルーマニア人の義父も街を駆けずり回っていることを思えば。

 どんどん重くなってくる手足にかまわず参道を登りきるまであと五段というところで、先に登り切っていた陽輔の悲鳴があがった。

「どうし――」 呼吸の乱れで、最後まで言葉が続かない。登りきったところで足を止めたのを最後に両足から力が抜け、恭輔はその場に膝を突いた。膝を突いて顔を上げた瞬間、恭輔は弟がなにを見て悲鳴をあげたのかを理解した。

 どこかおどろおどろしい雰囲気を漂わせる神社の社は、すでに痕跡すら残っていない――社は無論のこと手水屋や燈籠、狛犬、鳥居に至るまで徹底的に蹂躙され、向こう側の森は燃え上がっている。

 山の中腹にあるこの神社からは先ほどまでまるで空爆でも受けているかの様な轟音が響き渡っていた――よもやそんな状況の只中に妻子が巻き込まれていることはあるまいと思ったが、場所が自宅のすぐ近くであったため、状況を見極めるために恭輔と陽輔は参道を駆け登ってきたのだ。

 だが――ふたりが目にしたものは、平屋建ての屋敷ほどの大きさがある巨大な蜘蛛だった。否、それを蜘蛛と称していいものかどうか?

 全体の印象は蜘蛛に近いが、背中から蚯蚓を思わせる環節を持つ触手が無数に生えている。細かな毛に覆われた脚はその先端が人間の手に似た形状になっていて、掌で地面を突いて体を支えている様な感じだった。

 そのおぞましい姿に、吐き気を催す暇も無い――蜘蛛の背中から延びた触手の一本がのたくり、ふたりの頭上に降ってくる。

 身を躱そうとか逃げ出そうとか考える様な余裕は無かった――ふたりともこの異常な状況に飲み込まれていたのだ。あまりにも非現実的な状況に逃げ出すという発想すら出来ないまま、ふたりはまるで魅入られた様に彼らを叩き潰さんとして殺到する触手を見つめていた。

 次の瞬間だった。ろくに状況を認識することも出来ないまま、ふたりは横手から掻っ攫われる様にして触手の打擲から逃れていた――轟音と地響きとともに直径二メートルほどの触手が地面を叩き潰し、溝状に陥没させる。

「――誰かと思ったら、君たちか」 頭上から声が降ってくる。無論のこと、知っている声だった――使い慣れていない日本語の、愛想に欠ける淡々とした口調。

 恭輔と陽輔の体を小脇にかかえ、金髪の青年が恭輔を見下ろしていた。漆黒の甲冑の上にポリエステルメッシュのタクティカルベストを身につけ、その上から弾薬帯を左右ぶっ違いに襷掛けにしている。

 無論、見覚えのある顔だった――最近妻の実家に滞在していた、妻と義妹の『従兄弟』ということに外国人の若者。

「アルカードさん――」

「しゃべるな」 自分の名前を呼んだ陽輔の言葉を遮って、アルカードが視線を転じる――先ほど彼らがいた場所を叩き潰した触手が再び鎌首をもたげ、蛇の様にのたくって三人に向かって襲いかかってきた。

「うわ――」

「しゃべるな」 陽輔のあげかけた悲鳴を、アルカードがふたりの体をかかえ直しながらにべもなく遮り――次の瞬間、一瞬ではあるが視界が暗くなった。同時に絶叫マシンに乗っているときの様な重力加速度がかかる。

 視界が開けたのは数瞬あとだった――すぐにそれが急激な移動によるブラックアウトだったのだと知れた。

 視界が完全に回復したあと、目に飛び込んできたのは透き通った光の壁だった――六角形のパネルを組み合わせた様な、半球形の光のドームが視界に入ってきたのだ。そのドームの内側だけが、絶海の孤島の様に地面を舗装する石畳の原形をとどめている。そしてその中にいるのは――

 彼女はこちらには気づいていない様子だった――アルカードが触手の打擲からふたりを救い出したのには気づいていないのか、必死の形相で先ほどふたりがいた参道のほうを凝視している。

「デルチャ?」

 妻の名を口にするよりも早く、地面に降ろされた恭輔の体は背中から突き飛ばされていた。

 光の壁は手を突いて体を支えることこそ出来なかったものの、どういうわけだか突き飛ばされて倒れ込むことは無く、体が倒れる速度がなぜだか緩慢になり――結果、ふたりは余裕を持って無事な石畳に足と手を突き、体を支えることが出来た。

「あ――」

 妻が彼らの名を呼ぼうと口を開きかける――だがそれよりも早く、ふたりは背後を振り返った。

「な――」 アルカードは、すでにこちらを見ていない――彼は悠然と視線を転じ、巨大な蜘蛛のほうに視線を向けたところだった。

「アルカードさん、なにあれ? というかその格好――」 陽輔が話しかけるが、光の壁の向こう側には声は届かないらしく、アルカードは返事をしなかった。彼も蜘蛛に視線を向けて何事か話しているが、その声は聞こえない。

「おのれ……おのれッ! ざま――どごまでもごのワジの邪魔でをずるがッ!」 耳障りな濁声が、どういうわけだか頭の中にじかに響き渡る――壊れかけたスピーカーを水の中で鳴らしている様な、酷い音だ。あの蜘蛛か?

 そう思ったのは、まるで子供が癇癪を起こして地団駄を踏む様に蜘蛛が触手で地面を叩いているからだった。

「ごの偉大なるワジが、愚がな人間どもをみぢびいでやるだめにぢがらり戻ぞうどじでいるどいうのに――」

 金髪の青年が侮蔑と嘲弄を隠そうともせずに唇をゆがめながら、何事か口にする。

 なにを言っているのかは、わからない――宴会芸のつもりで読唇術をかじったことのある恭輔ではあるが、言語が違うのかなんと言っているのかはわからない――だが彼が口を動かすと同時に、頭の中に直接彼の声が聞こえてきた。

「貴様の事情なんか知るか、阿呆」 どういうわけだか知らないが、彼の声は日本語で聞こえてきている――彼は明らかに、それ以外の言語で話しているというのに。

「子供を喰い殺そうなんて手合いはな、見ててムカつくんだよ」 そんなことを言いながら、アルカードは光の壁の前に出た。

 軽く拳を握り込んで、アルカードが地面を蹴る。蜘蛛の巨体から生え出した触手が数本、荒縄を縒る様に絡み合ってさらに巨大な触手を形成し、鞭の様にしなってアルカードの頭上に襲いかかった。

 触手が地面に衝突すると同時、地響きが視界を揺らした。今度こそやられたかもしれない、そんな予想が脳裏に浮かんだとき、かたわらにいた陽輔が『あ』と声をあげた。

 その視線を追って、頭上を見上げる――アルカードは地上から四十メートル近い高さまで跳躍していた。米粒の様にしか見えない高さまで跳躍したアルカードが両手で引き抜いた自動拳銃を振り翳し、そのまま上下逆さに錐揉み回転しながら落下してくる。

 真下に向けて据銃した自動拳銃二挺が立て続けに火を噴き、巨躯ゆえに鈍重な蜘蛛の体に銃弾を雨の様に降り注がせた――蜘蛛の巨体からすればとるに足りないであろうほど小さな銃弾にいったいどれほどの殺傷力があるのか、頭の中に蜘蛛の絶叫が響き渡り、地響きとともに蜘蛛の巨体がその場に崩れ落ちる。

 アルカードは空中で猫の様に身体をひねり込んで体勢を立て直すと、そのまま左拳を振り翳して蜘蛛の背中へとまっすぐに落下してきた。

 蜘蛛の背中に落下すると同時に、その勢いのまま左拳を蜘蛛の背中に叩きつける――蜘蛛の体が一瞬膨れ上がった様に見え、次の瞬間脳裏に響く蜘蛛の絶叫が一段階跳ね上がった。

 蜘蛛の体から飛び降りたアルカードが左手を振り翳し、掌を地面に叩きつけ――同時にその足元から、虹色に輝く線が延びる。

 二重の線が蜘蛛の体を取り囲む様にして円陣を描き、次の瞬間内周を描く線と外周を描く線の内側に同様に虹色の文字が無数に浮かび上がった。同時に円陣を境界線にして今いる光のドームと同じ様な、ただしこちらは筒状の光の壁が蜘蛛を取り囲む。アルカードを捕えんとして繰り出した触手は壁にぶつかって弾き返され、境界線をまたいでいた触手は境界線に沿って内外に分断されて力無く地面に落下した。

ざま、なんの術式じゅづじぎを――」

 そう声をあげた蜘蛛の体の一部が、唐突にボロリと崩れ落ちた――まるで乾燥した土くれの様に崩れ落ちた触手が、地面に落下するよりも早くぼろぼろに崩れ、そのまま痕跡も残さずに消滅してゆく。

げん崩壊連ぼうがいれん、だどぉっ!」 そう叫ぶ蜘蛛の触手が、巨体が、波にさらわれ崩れる砂の城の様に崩れ落ち始めた。

「レををヲをヲををヲヲをを――!」 それまででもっとも大きな蜘蛛の絶叫が、再び脳裏に轟く。

「ぎッ……ざまざまァァ!」 苦しげな叫び声とともに蜘蛛が触手を繰り出すが、いずれも地面に浮かび上がった円陣を越えてアルカードに届くことは無かった。まるで目に見えない壁に、阻まれてでもいるかの様に――

ざまるにらぬ吸血鬼ぎゅうげづぎぜいが、がみにごんなごどじでいいど思っどるのぐぁぁぁぁ!」

 吸血鬼……?

 聞こえた言葉に浮かびかけた疑問は、さらに続く蜘蛛の絶叫に掻き消された。

「ああ、ぐるじい……やめろぉぉ――!」 アルカードはすでに勝負は決したということなのか、蜘蛛の言葉など聞くに足りぬと言いたげに耳の後ろを指で掻いている。

「や・め・ろぉ――」

「ねーさん、あれはなんなんだ?」 陽輔の質問に、デルチャは答えない――それはそうだろう、答えられるはずもない。あれがなんなのかなど――答えがわからない。

「許ざん――ざまの頭上にはがならずや神界じんがい神々がみがみばづぐだるであろう! がみだるごのワジを愚弄じぼろぼじだぞのづみ、いずれを以っでづぐなうがいい!」

「あいにくと――」 唐突に光の壁が消え、アルカードの声が直接鼓膜を震わせる。彼は風に吹かれて足元に飛んできた木の葉を拾い上げ、軸をつまんでくるくると回しながら、

「――どいつもこいつもこんな感じに口だけなら、神界とやらもたかが知れてるな。やろうと思えば三分で全滅させられそうだ」 そんなことをうそぶいてから、アルカードはふと思いついたかの様に蜘蛛に視線を向けた。

「それともあれか? 末席だとか言ってたが、末席って下っ端のことだろう? ということはあれだ、ほかの神様はもっと強いのか? だったら貴様が言うところの『ざまごどぎ』だの、『吸血鬼ぎゅうげづぎぜい』だのにあっさりバラされる様な雑魚なんぞ、一匹二匹死んでも気にしないんじゃないのか? 今頃『蜘蛛が殺られた様だな』『ククク、奴は我ら神々の中でも最弱』『吸血鬼ごときに負けるとは神々の面汚しよ』だのなんだの好き勝手言いながら、間抜けな蜘蛛の死に様を茶でも飲みつつ見物してるだろうさ」

 そう言って、犬でも追っ払うみたいに適当に手を振ってから、アルカードは蜘蛛に背を向けた。そうしている間にも蜘蛛の崩壊は進み、今や頭の一部を残すのみとなっている。

「が――ぁぁぁぁぁッ!」 絶叫とともに――蜘蛛の頭が弾かれたかの様に動いた。土くれに似た塵を撒き散らしながら、頭だけが背を向けたアルカードの背後に襲いかかる。

 危な――

 警告の声をあげるより早く、アルカードはそれまでつまんでいた葉っぱを肩越しに放り投げた――続く一動作で上体をひねり込んで背後を振り返り、いつの間に抜き放ったのか手にした自動拳銃を据銃し、発砲する。

 乾いた銃声とともに拳銃が火を噴き、同時に射線上にあった葉っぱを粉砕して、発射された銃弾が蜘蛛の頭部に着弾した――結局背後からアルカードに喰らいつくこともかなわぬまま、失速した蜘蛛のグロテスクな頭部が地面に墜落する。

 シャリシャリと音を立てて金色の粒子を撒き散らしながら、蜘蛛の巨大な頭部が波に浸蝕される波打ち際の砂山の様にボロボロに崩れて消滅し始めた。

 撒き散らされる金銀の粒子も風に溶けたのか地面に吸い込まれたのか、見る見るうちに消滅し――蜘蛛の頭が完全に消滅するのを見届けてから、金髪の青年は地面に描かれた円陣に視線を向けた。攻撃対象が完全に消滅したからか、円陣もまた徐々に消滅しつつあった。

 アルカードは蜘蛛の叫び声に驚いたのか再び泣いている蘭とデルチャ、神城の兄弟を見比べてから、そのかたわらを通り過ぎて参道のほうに歩き出した。

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