Evil Must Die 8

 

   †

 

 完全に霧に姿を変えた瞬間、視覚が完全に白濁すると同時に一気に知覚領域が拡大した――靄霧態は霧が触れたものの表面全体に触れることで形状を完全に把握し、光の反射状態から色も把握出来る。水蒸気の分子が通り抜けられさえすればどんなに狭い隙間からでも入り込め、霧の及ぶ範囲においてその内側にあるものを瞬時に掌握出来る。

 まるで街そのものの精巧なミニチュアを眼前に置いて眺めている様な気分で、アルカードは周囲の状況を検索していた――アパートの前の道路を練馬ナンバーのトラックが通過するのを認識しながら、手をつないだ男女が同時にショッピングセンター前の連絡通路を渡る様子を知覚する。

 秋斗と美冬に買ってやったのは、青とピンク色のポケ●ンのジャンプ傘だ――自分で買い与えたものだから、大体の大きさも柄も知っている。

 肉体を維持していないために直接視覚で見ることは出来ないが、靄霧態を取っている場合は霧で触れたものの形状も色もわかるので、大した問題にはならない。

 綾乃がアルカードに電話を寄越したのは、アルカードが靄霧態を取ることで雨の降っている範囲内を効率良く捜索出来るのを知っているからだ――ついでに昨夜、今日が臨時休業なのを話したからだろうが。

 子供たちがどこで傘を飛ばされたのかをはっきり聞き出せたわけではないが、まあ問題にはならない――二歳児の脚で寄り道しながら、本条邸近辺までたどり着くのは難しい。

 秋斗たちを見つけたコンビニの周辺から自宅までのルートと、その周辺を中心に捜索していけばいずれ見つかるだろう。誰かに回収されていなければの話だが、秋斗たちが家を出た(と思われる)時間帯は通勤・通学時間帯を過ぎており、さらに雨天のため歩行者もあまりいないし、車で移動している人たちは路上の傘にいちいち注意をしたりはしないだろう――車道上に落下して往来する車に轢き潰されていたりしなければいいのだが。

 ショッピングセンターの向こう、線路を挟んで北側のビル街の一角で青い傘を発見して、アルカードはほくそ笑んだ――もちろん表情など作れないので、気分だけの話だが。

 青い傘の周囲に人がいないのを確認して、靄霧態を解いて人間の姿に戻る――途端に豪雨がバタバタと全身を叩き、全身が不快に濡れ始めた。気にせずにかがみこんで、町内会の掲示板と民家の塀の隙間に引っ掛かって止まった青い傘を拾い上げる。

 傘の被膜部分が破れたりしていないことを確認して、アルカードは柄の手元に視線を落とした――小さなプラスティック製のタグに、平仮名で『しんじょうあきと』と書かれている。とりあえず一定の成果を挙げたことに満足して、アルカードは傘を慎重に畳んだ。傘の骨が曲がっているのは、あとで修理すればいい――完全に折れていなければ修理は出来る。

 周囲を見回して目撃者がいないことを確認してから、アルカードは傘を取り込んで再び靄霧態に変化した。真祖の靄霧態は身につけているもののほかに、ある程度の荷物を霧に取り込んで持ち運ぶことが出来る――重量の限度は周囲の空気中に存在する水分子の量によって変化するのだが、今の空気中の水蒸気量なら五十キロ程度の重量までは持ち運べる。数百グラム程度の傘なら問題にもならない。

 さて――声を出すことは出来ないので意識の中でだけ独りごちながら、アルカードは認識範囲を拡大させた。

 ふたりの家はもっと北にあるので、最低でもそのあたりまでは捜索範囲に収めなければならない。

 美冬は『川で飛んでいった』という様な事を言っていた――秋斗の傘を見つけたあたりからもう少し北に行ったところに、近くの山を水源にする尾奈川という結構大きな川がある。位置関係としては硲西の北に幹線道路、その北に高速道路と並行に流れる尾奈川、さらにその北に深川の住宅地というところだが――

 まずいな――思考だけでそうつぶやきつつ、アルカードは川の周囲に注意を向けた。川の両岸は決壊に備えた堤防になっており、普段は公園として使われている――河川敷に落ちていればいいのだが、川に落ちたら水中に沈んだり流されている可能性が高い。

 靄霧態は物体の表面をなぞることで形状や色を把握出来るが、表面が流動している物体の形状や色は把握出来ない。川面や海面など、常に表面の形状が変化している流水などの形状は表面をなぞることが出来ないために判別出来ないのだ。

 また、ゼリーの中の果物の様に別な物体の内部に埋没している物体の存在は、靄霧態では判別出来ない――たとえば表面に波の立っていない凪いだ水面であればそれが水であることはわかるが、水中に没した物体を探すには目視に頼るしかない。

 靄霧態では水没した物体は判別出来ないからどこに沈んでいるのかの見当もつかないし、人間の姿に戻っても水が濁っていれば水没した物体はアルカードの高度視覚を以てしても判別出来ない――高度視覚で障害物の向こうにある物体を探すには、最低でも温度差が必要になるからだ。美冬の傘が今の様に増水して水面が濁った川に落ちて沈んでいれば、アルカードには捜索の手段が無くなってしまう。

 唯一の手段はを使うことだが――

 だがそれを選択肢に含める前に北側の河川敷にピンク色の子供用の傘が落ちているのを発見して、アルカードは胸を撫で下ろした(気分だけだが)。尾奈川の河川敷は南北両岸とも、主に清掃費の名目で一回一名五百円を必要とするテニスコートやバスケットコート、バーベキュー会場などになっており、それ以外では普通に散歩なども出来る。子供向けの遊具や休憩用のベンチが設置されていて、傘がベンチの脚に引っ掛かって止まっている。

 周囲に目撃者がいないことを確認して人間態に戻り、傘を拾い上げる――秋斗の傘と同じ様に損傷を確認して、樹脂製のハンドルの手元に『しんじょうみふゆ』と書いたタグがついていることを確かめてから、アルカードは傘をたたんだ。

 とりあえず、傘の補修用の金具でも探さなくてはならない――近所のホームセンターにでも行けば売っているはずだ。二本の傘をまとめて持ち、再び周囲を見回してから、アルカードは再度靄霧態に変化した。

 

   †

 

「傘、無事に見つかるかしら」 というパオラのつぶやきに、フィオレンティーナはそちらに視線を向けた。アルカードが探し物のために出かけるという話は聞いていたが、探し物は傘だったらしい。

「ロイヤルクラシックの靄霧態ミストウィズインが聖堂騎士団で教わったとおりのものなら、問題無く見つけてくるでしょうね」 と、フィオレンティーナは返事をしておいた。ロイヤルクラシックの能力に関して、聖堂騎士団の情報はこの上無く正確だ――まあ少なくとも、上層部が意図的に隠蔽していないかぎりは。なにしろ真祖本人からもたらされた情報なのだから。

「そうね」 パオラがそう返事をする。

「でも変わった人よね――まあ、そこがいいんだけど」

「そうですね――全然吸血鬼らしくないですから」 正直言うと、だからわたしは困るんですけど――フィオレンティーナがそう続ける。彼女は足元に寄ってきたソバを抱き上げると、ギュッと胸元に抱き寄せて、

「あんな人じゃないほうが、わたしは気が楽です」

「そう? わたしはアルカードのああいう性格は好きだけどな」 リディアがそんなことを言ってくる。そろって視線を向けるフィオレンティーナとパオラに、

「ちゃんと約束を守ろうとしてるからね。そういう人は誰かを裏切って見棄てたり、利用するだけして用済みになったからって切り棄てたりしないでしょ」 きっとわたしたちに対しても――リディアはそう続けてから、床に尻餅をついた秋斗のかたわらに跪いた。

 足元に転がってきたボールを床に座り込んだ美冬に向かって転がし返したところで、塀の向こうからかすかに聞こえてくるエンジン音を聞き咎めて、フィオレンティーナはそちらに視線を向けた。

 バタバタという雨音が大きすぎるせいか、パオラとリディアは気づいていないらしい――アルカードが言っていたとおり、フィオレンティーナの聴覚が鋭敏になっているのだろう。

 窓に歩み寄って閉め切られたカーテンをちょっと押しのけ、その隙間から駐車場の扉に視線を向けていると、ドアノブがちょっと動いてから、結局あきらめたのか動かなくなった――常に雨曝しのせいか、建てつけが悪くなっていて開けるのにこつが要るのだ。

 ドアそのものは内側から施錠出来るのだが、ほぼ通用口と化しているため開けっ放しになっている。扉を開けるこつがそれを知らない人間にはまず開けられないほど厄介なものなので、おおむね放置状態でも問題無いのだ。それに駐車場とアパートの間には塀があるが、乗り越えるのが難しいほどの高さでもない。

 再び転がってきたボールが足にぶつかったので、注意を再びボールに戻す――ボールを投げ返してやると、美冬が受け止めるよりも先にウドンがのしかかる様にしてボールを捕まえた。

 犬が気に入ったらしくじゃれあうのに夢中になっている美冬を見守っていると、インターフォンが鳴った――壁にしつらえられた液晶ディスプレイに視線を向けると、見覚えのある黒髪の女性が手を振っている。

 姓は知らないが昨夜会った、確かカスミという名前の女性だ。

 壁のコンソールに歩み寄ってインターフォンのスイッチを入れると、気楽な声が聞こえてくる。

「やっほー、アルカードさん、こんちはー」

「アルカードは今、いません」 そう返事をすると、香澄はきょとんとした表情で目を瞬かせた。

「えっと……? アルカードさん、彼女とかいないよね?」

 ちょっと待ってください、と言い置いてインターフォンのスイッチを切り、玄関に歩いていって扉を開ける――香澄はSHOEIとロゴの入ったジェットタイプのヘルメットを手に、ゴールドウィンのロゴの入った濡れそぼったレインウェアを着ていた。フィオレンティーナよりもいくらか上背のある彼女はフィオレンティーナを見下ろして軽く首をかしげ、

「えっと、昨夜会ったわよね。ええと――」

「フィオレンティーナです」 そう答えると、香澄は思い出したのかぽんと手を打った。

「そう、そんな名前だったわね。アルカードさんは出かけてるの? 遅くなる?」

「いえ、すぐに帰ってくると思います」 そう答えて、フィオレンティーナは扉を大きく開けた――アルカードとのつきあいは彼女のほうがずっと長いし、招じ入れてもおそらく問題は無いだろう。

「いいの、勝手に入って?」

「わたしたちも普段勝手に入ってますから、大丈夫だと思います」

「それもどうかしら……」 と小声でつぶやきつつ、香澄はレインウェアを脱ぎにかかった。アルカードの部屋の玄関は結構手狭で、そのまま入ったら靴を濡らしてしまう。脱いだレインウェアを適当にパッパッと振ると、撥水性の高い生地の表面で玉状になった水滴が綺麗に振り払われて飛び散った。

 レインウェアのズボンも脱ぎにかかっている香澄から預かったヘルメットをどうしたものかと思案して、靴箱の上に置かれたアルカードのドライカーボン製のフルフェイスヘルメットと並べる様にして置いておく。

 手を離してもひっくり返ってそのまま落ちたりしないことだけ確認したとき、フィオレンティーナは並べられた靴やサンダルの中に子供用の靴が無いのに気づいた――が、考えてみれば濡れ鼠になった子供の靴も同様にずぶ濡れだろうから、アルカードが乾かすかなにかしているのだろう。

「かーちゃ!」 玄関に出てきた美冬が、適当に丸めたレインウェアを手に上がり込んだ香澄の姿を目にして歓声をあげる。

「あ、みーちゃん。どうしたの? お母さんは一緒じゃないの?」 飛びついてきた美冬を抱き止めて頭を撫でながら、香澄は彼女にそう尋ねた――明確な答えが来ないのはわかっているからだろう、こちらに視線を向けてくる。

「この子たちふたりだけみたいです。アルカードが見つけたとかで」

 フィオレンティーナがそう答えると、香澄はその返答に形のいい眉をひそめ、

「それなのに、この子たちを置いて出かけちゃったの?」

「アルカードは今、この子たちが失くした傘を探しに出てるんですよ」 開け放されたリビングの扉から顔を出したパオラの言葉に、

「じゃあ、貴女たちがその間のお留守番?」

「そんなところです。さっき顔を出したときに頼まれました」

 パオラがそう答えてから、小さく首をかしげて、

「カスミさんはどうしたんですか?」

「わたし? 昨日言ってた原付のことでね」 そう答えて、香澄はリビングに入ったところで美冬を床に降ろした。ゲンツキ――時々見かけるスクーターのことか。

 新たな客に気づいたテンプラとウドンが、ソバに向かってひと声鳴いてから香澄の足元に寄ってくる。

 犬を飼っているのは知っているのだろう、香澄は歓声をあげて寄ってきた仔犬のそばにかがみこんだ。

「あ、可愛い――でもここのアパート、ペット飼えたっけ?」 じゃれついてきた犬たちをあやしながら、香澄が首をかしげる。

「いけないとは書いてないからいいんだって、前にアルカードが言ってました」

「それ、悪徳政治家の理屈だよね……」

 パオラの返事にそんなボヤキを漏らして、香澄が再び立ち上がる。彼女は左手首にぶら下げた装飾的な印刷の施されたポリ袋――中身は煙草のカートンの様な、をダイニングテーブルに置いてから、

「……ところで、どうして部屋の中に犬小屋があるの?」 部屋の隅の方に置かれた巨大な二階建て犬小屋を指差して、香澄がそんな疑問を口にする。

「普通は外に置くものよね」

「ええ、そうなんですけど」

 パオラがうなずいて、

「昨日別れたあとすぐ、雨が降ってきたでしょう? 雨が降り始めた途端、この子たちが――ええと――フィオ、パニックって日本語でなんて言うんだったかしら」 聞かれたけれど、わからない――フィオレンティーナがかぶりを振るよりも早く、

「パニックで通じるわよ。雨が降り始めた途端にパニックを起こしてたっていうこと?」 ちなみに日本語に置き換えるなら、恐慌状態――香澄がそう付け加える。

「ええ、そうです」

 パオラがそう返事を返し、残りは直接事情を知っているフィオレンティーナが引き継いだ。

「この仔たち、雨の中でずぶ濡れになってるところを蘭ちゃんと凛ちゃんがお店に連れてきたんですけど、雨の降ってる屋外にいるとそのときのことを思い出すみたいで」

「あー、なるほど納得。トラウマになってるのね」 香澄はうなずいて、犬たちの頭を順に撫でてから、

「どうしよう――ちょっと待たせてもらっても大丈夫かしら」

「いいんじゃないですか」 リディアがそう安請け合いをして、それまで抱っこしていたソバを降ろしてやる。

 香澄は苦笑気味に小さくうなずいて、アルカードへの手土産のつもりだったのか持っていたポリ袋をダイニングテーブルの上に置いた。

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