Evil Must Die 9

 ソファに腰を降ろした香澄の膝に、秋斗が飛びついていく。彼女は膝の上に腰掛けた秋斗の頭を優しく撫でてやりながら、

「どれくらいで帰ってくるの?」

「わかりません。本人は十五分くらいで終わるって言ってましたから、そんなにかからないと思いますけど」 フィオレンティーナがそう答えると、香澄はそう、と小さくうなずいた。

「なあに?」 視界の端でリディアがかがみこむ――テレビ台の下の映像ディスクの中から発掘してきたものらしいDVDディスクを持った美冬が、もう一方の手で彼女のスカートの裾を掴んでいる。

「なに、これ?」

 リディアが受け取ったDVD――白い無地のレーベルに、マジックでなにやら書いてある(漢字がほとんどなので読めなかった)――を何度もひっくり返して矯めつ眇めつしながら、

「姉さん、これ読める?」

 パオラはレーベルをひと目見るなり、首を振った――漢字の読めないフィオレンティーナでもわかるほど汚い字で、お世辞にも達筆とは言い難い。アルカードの字ではない――アルカードが日本語で注文用の書類を書いているのを横で見たことのあるフィオレンティーナは、アルカードがもう少し几帳面な字を書くことを知っている。

「あ、アルカードさんの字ね。このころは字を書くの下手だったのよね」 あっさりと横から認識を覆しつつ、香澄が手を伸ばしてディスクケースを取り上げる。

「読みにくいなぁ……というより、あの人硬筆より毛筆のほうが巧いのよね。昔日本に来たときみっちり仕込まれてるから。芳名帳に筆ペンで名前書いたとき、片仮名なのにありえないくらい達筆だったけど、でもマジックで書くときくらいお習字の書き方やめてほしいわ。孝輔君結婚式……あ、これだわ。昨夜言ってたの」

 モーヒツとかコーヒツってなんだろうと思いながら、フィオレンティーナは軽く首をかしげた。孝輔の結婚式ということは、秋斗と美冬の両親の結婚式か。

「なんですか、モーヒツって」

「書道――って言ってもわからないかしら。日本で昔からある、筆で字を書く習慣よ」 香澄はそう答えてから、受け取ったケースを再びリディアに反した。

「ね、これ再生してみて」 差し出されたディスクケースを受け取ったリディアが、勝手に再生してもいいものかと思案している表情でディスクを取り出しながらテレビ台のHDDレコーダーに歩み寄る。

 逡巡はあった様だがDVDは好きに見ていてかまわないと言われているので問題無いと判断したのか、リディアはレコーダーにディスクをセットした。

 テレビの電源を入れて待つこと数秒、まだ少年の雰囲気を残した神城陽輔の姿が画面に大映しになった。

『――お、映った映った。やっぱり説明書首っ引きなんてやるもんじゃねえなあ』 と、これはアルカードの声である――発言内容から察するに、カメラを操作しているのはアルカードらしい。

『声が入るよ、アルカードさん』

『別にいいよ、編集で切るから――やっぱりあれだ、思いついたからって式の二時間前にビデオカメラ買ったりしなけりゃよかったか』

『いくらなんでも衝動的過ぎる気がするのは、俺の気のせいかな――』 横合いから入ってきたのは、本条亮輔のものだった。視界が一瞬動いたのは、アルカードが肩をすくめでもしたのだろう。

 とりあえず――切れてない。

 どうも結婚式場の親族用控室らしく、みんな正装だった――陽輔はまだ少年だからか、詰襟の学生服を着ている。

「新郎の親族控室に、どうしてアルカードがいるんですか?」 リディアの口にした疑問に、香澄が返事をする。

「ほんとはただの新郎友人なんだけどね。新郎親族のデルチャさんとか蘭ちゃん凛ちゃんの送迎で、かなり早くに会場に着いて暇だったみたい」

『ええと、ズームは? ズームの操作はどうやるんだ?』

『ちょっと待って、今確認するから』 陽輔が手にした取扱説明書――パナソニックのロゴが表紙に入っている――をぺらぺらとめくる。

『というかアルカード、そろそろ着替えに行かなくて大丈夫か?』 画面の外から聞こえてきた声に、アルカードがカメラを構えていた手を下ろしたのか視界がめまぐるしく動いたあと逆様になった。部屋の隅に置かれた姿見に、袖にトライバル・パターンのブラシペイントがされたジャケットを羽織った普段着のアルカードの姿が映っている。彼は手にしたカメラを陽輔に渡しながら、

『おお、そうだそうだ。ちょっと着替えてくるわ――香澄ちゃんはここでしばらくゆっくりしてな』

 室内に香澄もいるのか、アルカードが画面の外に視線を投げてそんなことを口にする。

「……ええと、これはなにを?」

「アルカードさんが思いつきで買ってきた、デジタルビデオカメラのテストをしてるところ。ほら、あの人新製品とか新商品とか新素材とか好きだから。たしか披露宴の最中に電池が切れたんだけど」 パオラの質問にそう答え、香澄がちゃんと充電しないから、と続けて肩をすくめる。

 そこでいったん電源を落としたのか、画面がブラックアウトしてから、今度は礼拝堂の中が舞台らしい――日本でありがちなチャペルなのか、本物の教会なのかは判然としないが。

 祝詞を唱える牧師の声に混じって小さな子供の『おっぱい』という声が聞こえ、撮影者が笑いをこらえているのか画面が細かく揺れた。

「ちなみに今のは凛ちゃん当時二歳の発言ね」

 当時の情景を思い返しているのか優しげに眼を細めながら、香澄がそんな解説を入れてくる。

 ヴァージンロードを通ってちょうどチャペルを出て行くところだった新郎新婦もちょっと肩を震わせ、おごそかに祝詞を唱えていた牧師と周囲に控えるコーラスの女性たちもちょっと笑っている。

 しばらくリビングにいる全員が無言のままビデオが続き、やがて結婚式場になっているホテルの中庭らしき場所で列席者が一ヵ所に集まり始めた――ホテルのスタッフがハート型の風船を配っている。

 スタッフの男性の話を聞く限り、新郎新婦の口づけに合わせてみんなで風船を飛ばすらしい――そのあと『ハッピーウェディング』と叫びつつ手でハートを作るのだそうだ。カップルは相手同士で、男性はひとりでやってもいいらしい――拷問の様な気がしないでもないが。

『マジか』

『独りもんにゃきついな』 本気の声音で、陽輔とアルカードが小声で言葉を交わすのが聞こえてくる。

 みんな風船を飛ばしたが、アルカードと陽輔の声は聞こえてこない――どうやら彼らふたりは風船を飛ばすだけで、声は出さなかったらしい。カメラが動かなかったところをみると、少なくともアルカードはハートを作らなかったのだろう。

『すまんな、陽輔君』

『なにが?』

『君の兄貴の晴れの舞台なんだが――俺にはどうしても無理だった』 そこでカメラが動いたあたりから察するに、こっそり手でハートを作る真似ごとでもしたのだろう。

『否、俺もやってないよ』

『な。独身男にゃハードル高ぇよな』

『あの人仕事が楽しいのか、やけくそになってるのかどっちだろう』

『やけくそに五百円賭ける』 ぼやくふたりの声を聞きながら、当時のことを思い出しているのか香澄がくすくす笑っている。

『このあと親族の写真撮影だってさ――香澄ちゃん、一緒に披露宴の会場行かない?』

 アルカードが少しぽっちゃりして小柄な女の子に声をかけている――フィオレンティーナは画面に映っている女の子と香澄を、横目で見比べた。ばれない様に顔の向きは動かさなかったのだが、しっかりばれていたらしい。

「当時百五十センチ。このあと二年で身長が二十センチも伸びて体重変わらなかったわ」 こちらの視線を捉えてにこにこ笑いながら、香澄がそんなことを言ってくる。

『アルカードさんは親戚じゃないんですか?』

『俺? 単なる新郎友人だよ。新郎の弟一家の送迎役で来てるから、ほかの招待客よりかなり早く来てただけで』

 その会話のあと、しばらくしてからいったん電源が落ちたのか画面が暗くなった。

 再び画面が明るくなると、今度はそこかしこで招待客が酒を飲んだりオードブルを口にしている――どうやらヒローエンという宴会前に、新郎新婦を待つ間の時間潰しらしい。ビデオカメラは電源を入れたまま放置、アルカードはイベリコ豚の生ハムが気に入ったのか、ハムだけ山盛りになった皿から爪楊枝でちまちまとハムを食んでいた。

『招待客の皆様、披露宴の予定をお伝えいたします』 式場の女性スタッフがそんな風に声をかけている――気づいている者はあまりいない様子ではあったが。

 どうやら新郎新婦が階段から下りてくる演出が入るらしい――アルカードはちゃんと話に耳を傾けているのか、頭上に視線を向けている。

 そのあとしばらくは見どころも無いのか、香澄が思い出した様にこちらに視線を向けた。

「貴女たちは留学生じゃないのよね? 三人もいるし、アルカードさんの彼女って感じでもなさそうだけど」

 軽く首をかしげて、香澄が三人を順繰りに見回した――リディアが口ごもり、パオラがどう説明したものかと悩む様な表情を見せたとき、

「アルカードさんと一緒に戦いに来た人?」

 その言葉を聞いて、フィオレンティーナは身をすくませた。

「……どうして知ってるんですか?」

 リディアの質問に、香澄はちょっとだけ目を見開いて、

「あら、正解?」

 はい、とリディアが小さくうなずいて首肯すると、香澄もそれに合わせてうなずいた。

「神城さんちとチャウシェスクさんちの親戚はだいたい知ってるはずよ――わたしははじめて会ったのがだいぶあとだけど」

「アルカードが自分で話したんですか?」

 フィオレンティーナの質問に、香澄はこちらに視線を向けた。

「あとから聞きはしたけど――少なくともわたしの場合は、アルカードさんが戦ってるところを見ちゃったのよね」

 膝の上の秋斗の体をぬいぐるみみたいに抱きしめて、香澄がそんな返事を返してくる。

「陽輔とかのほうは、わたしも詳しいことは知らない。はじめて会う前の話だから」

「神城とのつきあいが始まったのは十年前、香澄ちゃんと会ったのは六年前の話だ」 いつの間に戻ってきていたのか、リビングの扉の脇の壁にもたれかかる様にして、アルカードがそう言ってくる。

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