Evil Must Die 4

 

   †

 

 抱きかかえた秋斗と美冬の体ががたがたと震えているのに気づいて、アルカードは顔を顰めた――顔は蒼褪め、唇は川遊びで長時間水に浸かりすぎたときの様に紫色になっている。よくない兆候だ――風雨に長時間晒されたせいで、強風と体を伝う雨粒に体温を奪われ、低体温症を起こしかけている。昨日の昼間の陽気が嘘の様な、この肌寒さと豪雨のせいだ。

 今現在打てる手は無い――とにかく風雨を凌げる屋内に連れていき、十分な熱を与えてやる必要がある。

 冷え切った体をいきなり風呂などに浸けて急激に外部から熱を与えると、冷えた血液が体の深部に集中して、却って症状を悪化させてしまうことがある――秋斗も美冬も体が震えているから、まだその心配をしなければならない程度に症状は進んでいない。

 おそらく急に温めても大丈夫だろうが、それでも先に温かい飲み物か食べ物を与えて体の内側から温めてやる必要がある――低体温症というほどの深刻なものではなくても、冷えた体を温める一番いい方法は温かい液体を摂取させることだ。外部から温めるのでもいいが――最終的には両方を実施するのが望ましいが、どちらを先にするかは症状の進行による。

 アパートの門を抜けて共用廊下に足を踏み入れ、上階の廊下で雨が遮られたところで、アルカードは努めて明るく話しかけた。

「ほら、着いたよ」 部屋の扉の前で子供たちを降ろし、扉を解錠して中に導き入れる――外出するときは仔犬たちが自由にトイレに行ける様に開け放されているリビングの扉から、三匹の犬が飛び出してきた。

「わんわんだ!」 その姿を認めて、秋斗が歓声をあげた――美冬がかがみこんで、テンプラの鼻先に手を伸ばす。

 玄関の扉を閉める直前に、パトカーのエンジンが吹け上がる音が耳に届いた。中村がパトカーを発進させたのだろう。

 ふたりの反応を見ている限り、体温の低下はそれほど深刻なものではない――だからといって有効な処置を一切していない今の状態のままで、楽観出来たものでもないが。

 熱も補給していないし、濡れた服は着たままだ。濡れた服は脱がせるか乾いたものに取り換え、体表の水分を除去し、暖かく風の吹かない場所で温かいものを摂らせてやらなければならない。そのあとでなら風呂に入らせるなどしても大丈夫だろう。

 とりあえずは彼らの両親に連絡する必要があるが、それは後回しだ――連絡はあとからでも出来る。それよりも、子供たちの体調調整のほうが重要だ。少なくとも連絡を遅らせたことに関しては、きちんと説明すればそれで納得してくれるだろう。

「あっくん、みーちゃん、ちょっとこっちにおいで」 浴室の脱衣場に通じる扉を開けて、子供たちに声をかける――子供たちが入ってくると、アルカードはかがみこんで秋斗から先に服を脱がせにかかった。

 羽織ったキャラクターものの合羽を脱がせ、その下の子供用の衣服と下着を取り去って、濡れた服を適当に洗濯機の蓋の上に放り出す。

 ふたりの子供たちを裸にして柔らかいタオルで体の水気を拭き取ってから、アルカードは脱衣場の隅に置いた抽斗式のケースの上に置いてあった予備のバスタオルを取り上げた。

 ふたりの首から下を、バスタオルでくるんでやる――どことなくてるてる坊主みたいに見えたことに苦笑してから、アルカードは壁にしつらえられたコンソールを操作して浴槽に湯を入れた。基本的に浴室の掃除は風呂上がりに済ませてしまうので、スイッチひとつで風呂の用意は出来る――だいたいはシャワーだけで済ませてしまうので、次の入浴のための準備というより掃除をついでにやっているだけなのだが。

 ここは屋内だから、局地環境下ほど気を遣う必要は無い――風速冷却による体温低下の心配は無いし、話しかけたときの反応から推すに体内の糖をエネルギーに変換する能力が生命維持に深刻な影響を与えるほど低下しているわけでもない。

 体が小さく体内に蓄積したエネルギーが少ないぶん、成人に比べると症状が深刻だというだけだ。体を濡らしていた雨滴と風が奪い取っていった熱を飲食物で外部から補給して、暖かい環境下に置いてやるだけでいい。

 子供が飲めそうな温かい飲み物ってなにかあったかな――アルカードは調味料の置き場所の中身を思い出そうと首をひねりつつ、とりあえずは子供たちの服を洗濯ネットに詰めて洗濯機に入れた。下着と靴下は別で洗わなければならないから、少し時間がかかる。この天気では外干しなど望むべくもないので、子供たちを風呂に入らせてから浴室乾燥機で乾かすしかあるまい。

 液体洗剤を洗濯物に直接染み込ませる様にして振りかけてからスイッチを入れ、洗濯物の重さを量るためにドラムが回転するガーガーという音を置き去りに子供たちをリビングのほうに連れていく。

「ちょっとここで待っててね」 子供たちをソファーに座らせて、アルカードはキッチンカウンターのそばの物入れの前にかがみ込んだ。

 幼児に甘いものを飲ませるのはあまりよくないと蘭や凛のときに聞いたことがあるので、ほうじ茶の茶葉を探す――どうしてよくないのかは知らない。

 特に理由を聞いたわけではないが、たぶん虫歯になるからだろうとアルカードは思っている――実際にどうしてなのか、聞いたことは無いが。

 まあ、理由などどうでもいい――しないほうがいいと言われていることを、わざわざやるのは馬鹿のすることだ。

 キャンプツーリングに出るときに重宝するインスタントのカップスープ――アルカードの手持ちの、数少ない即席品だ――の残りがあったが、やめておく。二歳児に飲ませるには、塩分が多すぎるかもしれない。

 雁ヶ音ほうじ茶の入った茶筒を見つけ出してから、アルカードは薬缶を手に取った。蓋を開けて中に残った水の量を確認し、心持ち多めに水を入れる。

 電気ポットは持っていないので薬缶を火にかけ、急須に茶葉を用意しておく――茶葉の量は抑え目で、お湯もそれほどには用意しない。石田三成の例に倣って、複数回に分けて飲ませたほうがいいだろう。いきなり熱いお茶を与えると飲みにくいし、少しぬるめのお茶で慣らしたほうがいい。

 子供たちはタオル一枚を体に巻きつけただけの格好で、積み上げた雑誌を伝ってソファの上に登ってきた犬にじゃれつかれて歓声をあげている――神城忠信の妻、つまり子供たちの父方の祖母は重度の動物アレルギーだったが、父親の孝輔には今のところ症状が出ていないし、子供たちが発症したという話も今のところ聞いていない。それにアレルギー症状があったとしても、数時間程度なら接触させていても問題無いだろう。

 胸中でつぶやいて、アルカードは羽織っていたレザージャケットをダイニングテーブルの椅子の座面に放り出し、リビングのカーテンをすべて閉めにかかった。

 それから、エアコンのリモコンを手にとって暖房のスイッチを入れる――部屋の中が寒いわけではないが、少し暖めたほうがいい。

 薬缶が湯気を吹き始める音が聞こえて、アルカードはキッチンに取って返した。蓋を開けて完全に沸騰しているのを確認してから、お湯を急須に注ぐ。

 一度ぬるめのお茶で慣らしてから熱いお茶を飲ませようという趣旨からすると、少し熱すぎるくらいだろう――だが、熱が急須とカップに吸収されて、飲む段にはちょうどいい塩梅になっているかもしれない。

 場合によっては氷でも入れて、少し冷ます必要があるだろう――食器棚から『ゆ』と平仮名で書かれた湯呑を取り出しかけて、ふと思いついてチタン製のマグカップに取り換える。ダブルウォールのマグカップのほうが、熱いお茶を入れても熱くならないだろうし、取っ手があったほうが扱いは楽だ。

 二十五数えたところでマグカップに半分ほどお茶を注いで、アルカードはマグカップの上に左手を翳した。

 この左手には、一般的な意味での熱さを検知する機能は無い――熱は検出するのだが、それはあくまで『温度』という計測データの形で脳にフィードバックされる。

 少し熱かったので、氷を入れて冷ます。少し味は薄くなるが、まあ問題無いだろう――幼い子供が相手なら、逆に濃い味のお茶は飲みにくいだろう。

 子供が飲める程度のぬるさになっているのを確認してから、アルカードは二個のマグカップを両手に持って子供たちのところに運んでいった。

 コンロに戻した薬缶がしゅんしゅんと音を立てて再び沸騰し始めるのを聞きながら、換気扇のスイッチを入れ忘れていたことを唐突に思い出す――子供たちにカップを渡したらスイッチを入れることにして、アルカードはふたりの子供たちにマグカップを持たせてやった。

「お茶。ゆっくりでいいから飲んで」 そう告げると、子供たちは素直にマグカップに口をつけた。

 彼らがお茶を飲んでいる間にキッチンに取って返し、換気扇のスイッチを入れる――薬缶が派手に沸騰していたので火を弱め、アルカードはキッチンの入り口からお茶を飲む子供たちの様子を観察した。

 子供たちの座っているソファはエアコンのルーバー角度を調整すれば風が直接当たる位置なので、温風に直接曝すことが出来る――顔色もだいぶましになってきているので、とりあえずは安心してもいいだろう。

 秋斗がマグカップを口から離してあー、とこちらを呼んでくる。

「ん?」

「のんだ」 秋斗が掲げたマグカップを、アルカードは手を伸ばして受け取った。

「もう少し飲める? もうちょっとあったかいのを飲んどくといいんだけど」

 アルカードの言葉に、秋斗がちょっと考え込む。

「のめる」

 秋斗の返事に一瞬遅れて、カップの中身を飲み終えた美冬がカップを差し出して、

「もうちょっと、どうぞ」

 美冬の『どうぞ』は『ちょうだい』の意味なのはアルカードも知っているので、アルカードは気にせずにカップを受け取った――以前母親が『どうぞ』と言ってお菓子を与えたのを、間違って覚えたらしい。

 親戚の男連中の間では訂正してやるべきという話も出ていたが、結局誰も訂正していない様だ――まあ、大きくなったらそのうち勝手に修正されるだろう。そして大きくなってから思い返して悶絶することになるのだ。

 ちょっと待っててね、と言い置いて、アルカードはカップふたつを手にキッチンに歩いていった。少し鋭敏にした聴覚が、浴室のほうから扉数枚越しに聞こえてきた『お風呂の準備が出来ました』という合成音声を拾う。

 茶葉を入れ替えた急須にお湯を注いでから、アルカードはもう一度二十五数えてカップにお茶を注いだ。どっちのカップがどっちのだったっけ、と一瞬迷いつつ、子供たちにカップを手渡す。

「今度のはちょっと熱いからね」 そう告げてその場でかがみこみ、アルカードは与えたお茶を子供たちがちゃんと飲めるのを確認出来るまでふたりの様子をしばらく見守っていた――ふうふうと息を吹きかけてからカップに口をつけて嚥下しているのを確認して、足早に寝室に向かう。

 机の上に放置状態になっていた携帯電話を取り上げて開いてみると、不在着信と留守番電話メッセージの新着を示すアイコンが表示されていた――三十分程度の間に不在着信百五十件というのはちょっとマナー違反ではなかろうか、と思いつつすべて神城綾乃と神城孝輔と神城忠信に神城恭介と神城陽輔、あとデルチャと蘭と凛、ありていに言えば神城家親戚一同で着信履歴がすべて占められている中から神城綾乃の携帯電話番号を呼び出す。

 用件は考えるまでもないだろう――秋斗と美冬の捜索支援要請に違い無い。

 発信ボタンを押すより早く、再び携帯電話が鳴り始める――リビングに取って返しながら、アルカードは通話ボタンを押して電話を耳に当てた。

「もしもし」

「あ、アルカードさん!?」 泣きながらしゃべっているのかほとんど『ばるがーどざん』と聞こえる聞き取りづらい声で、電話の相手――神城綾乃が声をあげる。

「よかった、やっとつながった――あの、秋斗と美冬がいなくなっちゃったの。前に買ってくれた傘と長靴が無くなってたから外に出て行ったんだと思うんだけど、どこに行ったのかわからなくて、お義父さんに電話したら妊婦なんだから雨の中で出歩いたりしないで家にいなさいって言われたんだけど、どうしたらいいのかわからなくて、お願い、アルカードさんも探すの手伝って」 混乱しているのか今ひとつまとまりのない綾乃の言葉に、アルカードはリビングに入りながら、

「綾乃さん、ちょっと落ち着いて、先にしゃべらせてくれ。いい? 俺は今自分の部屋にいるんだけど、あっくんとみーちゃんさ、今ここにいるんだよ」

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