Ogre Battle 2
*
なにが起こっているのか、わからない――フィオレンティーナにわかったのは、そこかしこで悲鳴が聞こえているということだけだ。
わけもわからぬまま母親に手を引かれて廊下を走りながら、フィオレンティーナは次々と聞こえてくる見知った人々の叫び声に戦慄していた。
いったいなにが起こっているのか、わからない――八歳の誕生日を迎えた夜、友達を招待してパーティを開いた。いつもは広告業の仕事で忙しい父親も、珍しく仕事を切り上げて早めに家に帰ってきてくれた。
友人たちが帰ったあと、遅くまで起きていても怒られなかったので妹と両親と夜中まで遊んで、やがて睡魔に負けて眠りの床に就いたのだが――
にわかに騒がしくなり、目を覚ましてみればこの騒ぎだ。トイレにでも行ったのか妹の姿は見当たらず、ひっきりなしに悲痛な叫び声と怒鳴り声、銃声が聞こえてきている。
おそらく屋敷の警備員の人たちが、強盗と戦っているのだろう――混乱した頭で、フィオレンティーナはそう思った。
確かに彼女の生家の様に年収百万ユーロを超える様な資産家の屋敷は襲撃によるリターンは大きいかもしれないが、本当の強盗なら警備がしっかりした屋敷を狙う様なリスクは冒さないだろうということを、子供だった彼女は理解していなかった。また、これだけ長時間銃撃戦を行っていれば、とうに決着が着いているであろうことも、幼い彼女の想像の及ばないことだった。
どこへ逃げているのだろう。そんな疑問をいだいたとき、丁字になった廊下の曲がり角から小柄な人影が姿を見せた。
それが姿の見当たらなかった妹のプリシラだと気づいて、母親が足を止める。なにがあったのか、寝間着の首元が真っ赤に染まっていた。逃げる途中に一緒になって、行動をともにしていた執事の老人が、プリシラを保護しようと近づいて――
普段はめったに大声など出さない、老いた執事の悲鳴があがった。
老人が近づいた途端に、五歳のプリシラが差し伸べられた手に噛みついたのだ。
よほど強い力で噛みついているのか、老人が振りほどこうとしてもはずれない――ついに力に訴えることにしたのか、執事は少女の顔を手で抑えつけて引き剥がそうとした。
だがそれすらも無駄な努力なのか、やがてばきばきという骨の砕ける音とともに、少女が老人の手の肉を喰いちぎる。
――ぎゃぁぁぁぁっ!
老人の口から、普段の彼からは考えられない様な絶叫があがった――喰いちぎられた拍子に転倒する老人の向かいで、プリシラもまた転倒する。その口がなにかを咀嚼する様に動き、ぼりぼり、ぐちゃぐちゃという咀嚼音が聞こえてくる。
まるで死んだ魚の様に濁った眼で、少女がこちらに視線を向ける。口元は真っ赤に染まり、血の混じった涎が口の端から滴り落ちて、可愛らしい寝間着の胸元に染みを作っていた。
「ひっ――」 母親の口から短い悲鳴が漏れ、こちらの肩を抱く手に力がこもる。彼女が背後に向き直ったのは引き返そうとしたのだろう、だが次の瞬間にはその動きも凍りついた。
背後から数人、男女が歩いてきている。屋敷に努めている警備員や使用人だ。見覚えのある顔も何人かいた。
そしてそのいずれもが、原型を留めていなかった――毎朝起こしてくれた女中は綺麗だった顔の半分が獣に喰いちぎられたかの様に無くなり、頬の肉が無くなって白い下顎骨と歯列が剥き出しになっている。毎朝学校に行く時に車越しに手を振ると手を振り返してくれた警備員は制服のシャツが破れて腹筋が喰い破られ、そこから垂れ下がった腸を引きずっていた。
「あ――」
悲鳴をあげようとしたとき、それよりも大きな悲鳴がそれを遮った――床の上に蹲っていた執事の首筋に、プリシラがかぶりついたのだ。頸動脈が喰い破られて赤黒い血が噴き出し、丁寧に手入れされた綺麗な壁に染みを作る。
「いやぁぁぁぁッ!」
フィオレンティーナの体を抱きしめて、母が悲鳴をあげる。フィオレンティーナは動くことが出来なかった。魅入られた様に――あるいは蛇に睨まれた蛙の様に、執事の首筋の肉を喰いちぎってぐちゃぐちゃと音を立てて咀嚼する妹の姿から目を離すことが出来ずにいた。
細かい痙攣を繰り返しながら動きを止めた老執事の体を床に倒し、プリシラがこちらに視線を向ける。動かなくなった老人の体を跨ぎ越えて、プリシラがこちらへと歩き出し――次の瞬間乾いた銃声とともに、プリシラの頭が弾け飛んだ。
可愛らしかった顔がぐしゃぐしゃに潰れて紅いものを撒き散らし、歩く動きのまま前に向かってつんのめり、ばたんと音を立てて床に倒れ込んで――そして次の瞬間、その体が衣服だけを残して、まるで藁灰の様な塵に変わって消滅する。
「……!?」 状況を理解出来ないまま立ちすくむフィオレンティーナの視界の中で、プリシラが姿を見せた曲がり角の向こう側から姿を見せた人影が映った。
いまだ銃口から硝煙を立ち昇らせている自動拳銃を手にしたその人影は、執事の体を跨ぎ越えてこちらに向かって近づいてきた。
*
「わっ、わっ、わー」 たぶん予想はしていなかったのだろう、食卓に用意された食事を目にして、パオラとリディアが目を輝かせる。
アルカードが用意したのは、ミネストローネとバターライスだった――それに丁寧にソテーされたあとスモークされた合鴨肉のソテーが、生野菜たっぷりのサラダ仕立てにされて添えられている。
バターライスは炊き上がったものをさらに少し炒めてあるのか若干焦げ色がついており、香ばしい匂いを漂わせていた。
「クロワッサンでも用意出来ればよかったんだが」 湯気の立つミネストローネをたっぷりとよそった深皿を並べつつ、アルカードが言ってくる。
「悪いな、その気力が無かった」
「いえ、そんなことは――」 パオラがそう答えて首を振る――イタリア人の典型的な朝食はクロワッサンにコーヒーで、さらに言えば『朝食は甘いもの』という認識が強い。アルカードの発言もそれを踏まえているのだろうが、聖堂騎士団の宿舎では朝食はしっかり食べるものだという意識が強く、フィオレンティーナたちもそれに馴染んでいるので気にならない。
「十分ボリュームもあるし、味もいいと思います」 と、ひと通り味わってからリディアが返事をする。同意を求められたので、フィオレンティーナはうなずいた――特にこの合鴨のソテーが絶品であることは、認めざるをえない。
「ならよかった」
「アルカード、ドラキュラを斃して人間に戻ったら、聖堂騎士団の宿舎にある食堂のコックに就職しませんか?」 よほど気に入ったのか、リディアがそんな勧誘をしている――まあ、今いるコックはお世辞にも腕がいいとは言い難いので、気持ちはわかる。
「あそこ人数多いだろ。準備で寝る暇も無さそうだから厭だ――個人的に二、三人招待して振舞うくらいなら考えるよ」 アルカードはそんな返事を返して、適当に手を振った。
スライスされた合鴨肉のソテーを脇によけて――ほかの人が作ったものはどうかわからないが、以前にご馳走になった限りではアルカードのこれは別々に食べたほうが美味しいのだ――サラダにドレッシングとフライドオニオンをかけながら、フィオレンティーナはテレビに視線を向けている吸血鬼を横目で観察した。
昨夜どこにいたのか、あとで確認しなければならないだろう――それに、どうして彼がフィオレンティーナの身上書など取り寄せていたのかも。
アルカード自身はこちらには関心を向けていない――先日新潟県で起きた大地震に関するニュースに視線を向けている。
店にも中越沖地震に関して募金を募る募金箱があったから、関心は持っているらしい――そういったことを判断するのは、すべて彼の担当だ。
「では次のニュースです――盛岡東署は二十七日、住所不定、無職の三十七歳の男を無銭飲食の現行犯で逮捕したと発表しました。調べによると、男は同日午前零時五十分ごろ、盛岡市中央通のラーメン店で、麺六玉(約九百グラム)とスープ三・五リットルが入った『特製大盛りラーメン』を食べ、代金二千七十円を支払わなかった疑いです。男は所持金が底をつき、完食すれば賞金がもらえる大盛りラーメンを注文したが、六人前というあまりの量に食べきれなかったと供述しているということです。本人は容疑を認めており、『最近あまり食事をしておらず、食べきれると思ったが、空腹で、逆に多くの量を食べられなくなっていた』と話しているとのことです。店側の供述によると、男は麺は完食しましたがスープは半分残し――」
「これは無理ですよね」 どことなく気の毒そうに、パオラがコメントする。
「出来る出来ない以前に、三・五リッターもラーメンのスープ飲んだら、普通の人間は病気になるだろうな」
深皿に取ったミネストローネをスプーンで掻き回しながら、アルカードがそう返事をした。
「腎臓病になるぞ――あとあれだ、麺が九百グラムって、絶対水を吸う前の生の麺の話だろうし」
「ポカリのペットボトル二本じゃきかないですからね」 フィオレンティーナはそう返事をして紙パックを手に取り、空になったコップに野菜ジュースを注いだ。
「Coco●番屋のカレー千三百グラムのほうがまだましな気がする」
「それならわたしでも食べられそうです」 フィオレンティーナに返したアルカードのその返答に、リディアが返事をした――聖堂騎士団では任務の無いときはほぼ訓練に勤務時間すべてを費やすため、食事の摂取量がかなり多い。聖堂騎士が今の様な生活で普段通りの食事を摂っていたら、文字通りあっという間に太ってしまうだろう。
「その細っこい体でか? 食べられるかもしれないけど、太るんじゃないか」 アルカードがリディアに視線を向けて、そう返事をする。
「まあ、一食くらいなら」
「ふむ――」 生返事を返したアルカードが野菜ジュースに口をつけたところで、ニュースのアナウンサーの声のトーンが若干変わった。
「では次のニュースです。東京都某市で昨夜未明、工事現場のガスボンベが爆発する事故がありました。正確な時間帯はわかっておらず、附近に誰もいなかったために目撃証言も今のところありません。同市街地内で自動車の爆発、公共施設の器物損壊等が確認されており、警察は関連を調べています。なお、工事現場の施工会社、及び施工責任者はボンベのバルブの確認等は間違い無くなされており、自然にガス漏れや引火等が起こることは考えられないと話しているということです。警察及び施工会社はこれについて――」
そのニュースに変わった途端、アルカードの目つきが少しだけ鋭くなったことに、フィオレンティーナは気づいた――そして同時に、少しだけ笑った様に見えたのは気のせいだろうか?
「これ、どこの街なんでしょう?」 それまで食べることに集中していたリディアが、ふと口を開く。
「それほど離れてない。電車で駅みっつかよっつくらいだ」 野菜ジュースを飲み干して、アルカードがそう答えた。
「すぐ近くですね」
「そうだな」 あまり関心無さそうに答えて、アルカードがレタスに包んだ合鴨肉を口に放り込む。
「ところで、パオラ、リディア。君たちは今日の予定は?」
「わたしたちですか? 来たばかりですし、今日は特になにもありませんけど」 パオラの返答に、アルカードは満足そうにうなずいてみせた。
「結構。なら、ちょっと店主に紹介したいからこのあとおつきあい願おうか」
「お店ですか? 何時くらいに?」 アルカードの言葉に、パオラがそう尋ね返す。
「大体九時半くらいにみんな出勤してくる。まあ、九時二十分くらいにここに来てくれればいい――お嬢さんと一緒に店に行っててもいい。結果は同じだから」
じゃあそうします、とリディアが短い返事を返す。パオラも了承したことを示すために小さくうなずいた。
「普段は何曜日くらいが忙しいんですか?」 続けて、リディアがそんな質問をする。
「基本、うちの主な客層は近くにある市役所とか公共施設の職員、それに近くにある大学の学生だな。本当にすぐ近くにあるから、よく来てくれる――だから逆に言えば、平日は大体似た様な感じだ。大学も全体としては休みで、役所の機能が大部分停止してる土日なんかは人がほとんどいない――し、これから大学が夏休みに入る。というかアンたちはもう入ってるしな。そうなると客層が近所の会社や役所の公務員に限られるから、人は少なくなる。ありていに言えば、もうそろそろ比較的楽な時期に入ってるんだけどな」
そう言ってから、アルカードはカレンダーに視線を向けた。
「店の定休日が日曜で、あとはシフト制。組んでるのは俺だから、あとで適当にシフト組んで渡す。まだなにも無いとは思うが、不都合があるなら言ってくれれば対応する」
「はい」 リディアが小さくうなずいた。
「少なくともしばらくは、今まで大学言ってた連中が夏休みに入って人が増えるから、今までよりは楽になる――お嬢さんはそこらへん、ちょっと過酷だったがな」
フィオレンティーナに視線を向けて、アルカードがそんなことを言ってくる。
彼はそれでとりあえず言うべきことは言ったと判断したのか、自分の食器をまとめて席を立った。
「さて、君たちは食後になにか飲む習慣はあるか? コーヒーと紅茶くらいしか無いが、ほしければ用意するよ」
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