Ogre Battle 1

 

   1

 

 耳元でふんふんという鼻息の様な音が聞こえて、フィオレンティーナはまどろみの中から意識を引き戻された。

「ん……」 とはいえ、ひどく眠い――耳元に妙なくすぐったさを感じて、寝返りを打つ。耳元のくすぐったさは無くなったものの、代わりにざらついた舌の様な感触が唇に触れて、フィオレンティーナの意識は一気に覚醒した。

「ひゃぁぁぁぁっ!?」

 寝床の上で転げ回ったために、そのまま床に転げ落ちる。

 ドスンという衝撃とともに、キャンという鳴き声も聞こえてきた。仰向けになったので目を開けると、いつも目を醒ましたときに入ってくるのとは違う天井のシーリングファンが視界に入ってきた――あれ?

「朝っぱらからうるせえなあ、ったく――時間が時間なんだから静かにしてくれ」 すでに耳慣れた男性の声が耳に届いて、フィオレンティーナはがばっと身を起こした。

「――アルカード!? 貴方、乙女の部屋に勝手に――って、あれ?」 いつものそろそろ見慣れた寝室の光景とはまったく違うその光景に、目を瞬かせる――冷静になってみれば、そこがアルカードの住む、そこだけ構造の違う管理人部屋のリビングだと知れた。

「目が覚めたか?」 キッチンの入口の壁にもたれかかって、吸血鬼がそんなことを言ってくる。彼は一瞬視線をはずし――その視線を追ってみれば、フィオレンティーナが暴れた拍子に危うく破壊するところだった硝子テーブルだと知れたが――、再びフィオレンティーナに視線を戻した。

「目が覚めたか、じゃありませんっ! 貴方女性のくくく、唇になにを――」

 フィオレンティーナの抗弁にアルカードは知らんがねと投げ遣りにかぶりを振り振り、彼女の膝のあたりを視線で示した。

「そいつが犯人じゃねえの?」

 見下ろすと、座り込んだフィオレンティーナの膝に前肢をかけて黒毛の柴犬が尻尾を振っている。

「……」 ぱたん、とアルカードを指差していた右手を下ろす。気の抜けた表情でソバを見下ろしていると、横から吸血鬼の声が聞こえてきた。

「あーあー。俺、とうとう性犯罪を捏造されたか。今までは殺人犯とか傷害はたまにあったけどねー」 適当に肩をすくめて、アルカードはキッチンに引っ込んでいった。

「……なにしてるんですか?」

「朝飯作ってる」 気の抜けた口調で発した問いに対する、アルカードの返答は実に端的だった。

「……朝ご飯ですか?」

 フィオレンティーナの言葉に、アルカードがカウンターの向こうでああとうなずいた。ミネストローネスープの食欲をそそる匂いが漂っている。

「作るって宣言したからな」

「そういえば――」 言いかけて、フィオレンティーナはぽりぽりと頬を掻いた。なんだか妙に痒い。

「どうした?」

「なんだかそこらじゅう痒いんですけど」 その言葉に、アルカードはあっさりうなずいた。

「蚊に喰われたんだろ。もう夏も盛りだってのに、庭なんかで寝てるから」

「……庭?」

「君、そのへんで寝てたじゃないか。部屋に運び込んだことに感謝してもらいたいな。一応忠告しとくが、日本は治安はいいほうだけど、それでも強姦事件だのなんだのが起こってないわけじゃないんだぜ」 おそらく壁越しに庭を示しているのだろう、壁に視線を向けながら、金髪の吸血鬼はそう答えてきた。

 ほれ、痒みが収まるぞ、と言いながら、アルカードが冷凍庫から取り出した保冷剤を放り投げてくる。それを蚊に喰われて膨れ上がった頬に押し当てながら、

「それについて質問があるんですけど。どうしてわたし、ここで寝てたんですか?」

「昨日の晩帰ってきたら、君が庭で倒れてたんだ」 なにかの肉をソテーでもしているのか、キッチンでじゅうっという音を立てながらアルカードが答えてくる。

「君の部屋に連れて行けばよかったんだろうがなあ、疲れてたからだんだん面倒臭くなってきてさ」

 ソファーに転がして寝ることにした、と吸血鬼は続けてきた。

「……」 冷たい半眼に気づいた様子も無く――否、気づいているのだろうが――、アルカードはキッチンで作業を進めている。

「そんな顔するなよ。どうせ俺が君の部屋に入って君をベッドに運んでも、俺のベッドに放り込んでも、それはそれで文句言うんだろ?」 寝てる間に入れ替えたりしないぶん、俺はジョー・ブラッドレーよりは誠実だ――そんなことも言ってくる。なんという憎たらしさ。

「誰ですか、それ」 耳慣れない名前が出てきたので冷たい表情でそう聞き返すと、

「ん? ああ、ブラッドレーのことか? 『ローマの休日』に出てくる新聞記者だ。オードリー・ヘプバーンの役のどこぞのお姫様をアパートに泊めて、ベッドを譲ってソファーに寝たけど、寝てる間に彼女をソファーに移して自分がベッドで寝て、朝起きたら彼女が目を覚ます前にベッドに戻したりしてた」 と、吸血鬼が律儀に答えてくる。

 床の上で座り込んだまま、フィオレンティーナは視線をめぐらせた。そう言えば今は何時だろうと思いながら、壁に掛けられた時計に視線を向ける――が、それをあてにするのは速攻であきらめた。

 吸血鬼本人が、それはただの壁の華であてにはならないと宣言しているからだ――壁にかかっているのは、ブライトリングの機械式の掛け時計だ。

 フィオレンティーナの父親は時計の収集癖があり、特にブライトリングの時計が好きだったから何十本も持っていた。

 そのコレクションの中に、これと同じものが含まれているのを見たことがある――もっとも父の所有品は復刻版だが、これはオリジナルらしい。

 内部の駆動部品ムーブメントの摩耗が進行しているのか、実際の時間とかなりずれがあるのだ――本人に修理をする意思が無いのか、それともただ単にもう修理が出来ないのか、いずれにせよまめに時間は合わせているものの、信用は出来ないらしい。

 フィオレンティーナは手を伸ばして、硝子テーブルの上に置いてあったテレビのリモコンを手に取った。テレビの待機ランプがつきっぱなしになっているのを確認して、電源ボタンを押す。

 皆さんおはようございます、六時のニュースをお伝えいたします――朝からテンションの妙に高い(むしろ朝だからこそかもしれないが)アナウンサーが快活にそう言って、最初のニュース原稿に視線を落とす。

「まず二十八日、田中●紀子元外相が鳥取県米子市内で開かれた民主党の演説会で、アルツハイマー患者を引き合いに出し、中国へのコメ輸出を奨励する発言をした麻生太●外相を同じ患者に例えて批判した問題で――」

「――つくづく反省しねえんだな、このおばさん」 昨夜も同じ内容のニュースを流していた記憶があるが――キャスターの言葉を聞いていたのか、アルカードが心底あきれ果てたという感じの声を出した。

「前にも似た様なこと言ったんですか?」

「ああ」 つまらなそうにそう返事を返してから、アルカードはサラダボウルを手にキッチンから出てきた。

「それはともかくとして、顔でも洗ってきたらどうだ? まだ三十分くらいかかるし」

 その言葉に、フィオレンティーナはようやく自分の恰好を自覚した。顔も洗っていないし髪の寝癖もそのまま、恰好も寝乱れたパジャマのまま。

 そそくさと立ち上がって出て行ったフィオレンティーナを、アルカードがお皿を食卓に並べていく音が静かに送り出していた。

 

   †


 フィオレンティーナが出ていったところで、アルカードは小さく欠伸をした。正直言って、眠くて仕方無い――話をすることで保っていた意識が、まどろみの底へと沈みそうになっている。

 月曜からこんな有様ってのもなかなか無いな――

 そんなことを考えながら、配膳台にお皿を並べていく。

 しかしほぼ完徹というのが結構な重労働だったとは思わなかった、そう考えて苦笑する。

 ろくに握力の無い左手でクラッチを切るのに苦心しつつS2Rに乗ってアパートまで帰ってきてシャワーを浴び、ようやく眠りに就いたのは午前三時二十分だった――左腕が痛くて眠れずに起き出したのが四時五十分、そこから目を覚ましてしまった犬を散歩に連れ出して、食事の準備をしているうちにこんな時間になってしまった。

 油断すると閉じそうになる瞼を固定しておくために、冷蔵庫に入れてあった目薬を手に取る――刺激のあるタイプではないが、役には立つだろう。刺激性の目薬は前に一度使ったら、慣れていないせいか半日目が痛かったので、その場で棄ててしまった。

 なんだかんだで、文明の恩恵に浴する生活に慣れてしまったらしい――五百三十年前、まだワラキア公国軍の一騎士としてオスマン帝国との戦争に身を投じていたころは、必要なときにすぐに眠り、目を覚ましてすぐに動き出せたものだが。

 仔犬たちが餌を食べ終えた器を取り上げて流し台に持って行き、水を入れてから、アルカードは食器棚からコップを四つ出した。アルカード自身は野菜ジュース派だが、少女たちがどうかはわからないので、とりあえずパックだけテーブルに並べておく。

 手を抜いたのは、勘弁してもらうしかないだろう――昨晩の仕事に思いのほか時間がかかってしまったことと、出発前に準備をして出かけなかったので、まともに作れなかったのだ。

 キッチンタイマーがピーピーと鳴り出したので、アルカードは欠伸を噛み殺してキッチンに戻った。

 コンロがみっつあるシステムキッチンのうちのひとつを占拠した鋳鉄製のフライパンが、蓋の隙間からもくもくと煙を上げている。

 アルカードは左手を伸ばして、蓋の取っ手をつまんで蓋を持ち上げた。触れれば火傷するほどの高温になっているのだが、気にしない――憤怒の火星Mars of Wrathは触れたものの温度を正確に検出するが、それだけだ。

 蓋を開けてみると、鍋の底に敷かれたアルミホイルの上に桜のスモークチップが敷いてあり、円形の網の上に合鴨のロース肉の塊が置いてあった。

 いい感じに燻されて色づいた鴨肉の表面に滲み出した油が滴り落ちて、チップの色が変わっている。アルカードは鴨肉をトングで持ち上げて、俎板の上に敷いたアルミホイルの上に置いた。

 油を落ち着かせるためにアルミホイルでくるんでから、そのまま放置しておく――キッチンタイマーを五分に設定してスイッチを入れてから、アルカードは手前のコンロの上に置いてあった別の鋳鉄鍋に視線を向けた。

 吊下げ用の半月型の取っ手がついた深底鍋の中で、これでもかというほどの大量の野菜がぐつぐつと煮えている。

 多少灰汁が出てきているのでそれを取り除いて棄てるという地味な作業をしばらくこなしてから、アルカードはスモークに使っていた鍋の蓋をそのまま深底鍋に移した。

 LODGEというメーカーのロゴが入った蓋から視線をはずしたところで、キッチンタイマーが再びピーピーと鳴り出す。

 アルカードは鴨肉をくるんでいたアルミホイルを拡げて、中の鴨肉を切り分けにかかった。

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