The Otherside of the Borderline 55

 フォボスは火星の衛星だ――フォボスという名そのものに意味があるとは思えないから、おそらくローマの神話における戦争と農耕の神マルスを象徴する火星の衛星であることから、マルスの従者としての戦士を意味しているのだろう。

 ロックオンはおそらく、こちらも途中で見かけた異能者の名だ。敵に着弾したはずの弾頭がそのまま貫通して軌道を変え、さらにほかの敵に襲い掛かる、おかしな異能。

 スコールは――驟雨の意味だろうか。今のところ見かけてはいないし広域戦況図の表示範囲にも見当たらない。

 だが、ネメアは自分の相手を務めるには実力不足に過ぎる――香坂ごときに後れを取っている様ではまだまだだ。もともとの運動能力に差があるうえに、その強靭な皮膚の下にある内臓は人間のものと変わらない。鍛錬で内臓を鍛えることは出来ないし、眼球もあれば耳もある。

 人間の鼓膜などというのは平手打ち一発で破れるものだ――瞼を開いているうちは、眼球に指を捩じ込むのだって有効な攻撃になる。なにより香坂が実証したとおり、今は彼の手にある黒禍は触れたものの細胞組織を死滅させることで殺傷するから、外皮に爪で引っ掻いた程度の傷でもつけられればその強度の如何にかかわり無く殺傷出来る。ネメアの皮膚が生体組織の一部である以上、黒禍の殺傷を防ぐことはかなわない。

 キロネックスは触れさえしなければ問題にならない――霊的な触手の届かない場所から銃撃を加えるか、石くれやナイフでも投げつければそれで片がつく。あの能力は足元の地面や周囲に存在する障害物に影響を及ぼしていなかったから、攻撃対象は生物だけだ。遠距離攻撃を防がれることは無い。本体は生身の子供にすぎないから、斃すのは簡単だ。

 レイヴンとメイヴとフォボス、スコールは見かけていないのでなんとも言えないが、ロックオンに関しては少々厄介だと言える――銃弾が標的を追尾してくる以上、回避すればそれで終わりというわけではないからだ。ただし、アルカードの身体能力なら、『灼の領域ラストエンパイア』の影響下にあっても、飛来する弾丸を叩き落とすくらいは出来る。

 さすがにいったん完全に静止した状態から、弾頭が再加速することは無いだろう――この結界の範囲は狭いから、その内部にいるロックオンを見つけ出して攻撃を加えることはさして難しくない。

 厄介なのはシンくらいか――塵灰滅の剣Asher Dustを具現化させた今の状態ならば、少なくともさっきまでよりはいい勝負が出来るだろう。

 胸中でつぶやいて、アルカードは手にした霊体武装を見下ろした。

 塵灰滅の剣Asher Dustは、今は沈黙を保っている――アルカードはこれ以降塵灰滅の剣Asher Dustを消さずに持ち歩くことに決めていた。

 理由はふたつ――ひとつは『領域』が発動してしまえば、塵灰滅の剣Asher Dustを消していると具現化出来なくなるからだ。

 別段体内における魔力運用には問題無いから身体能力の制御に問題が生じるわけではなく、したがって別段格闘戦の能力が低下するわけではないが、ほかの霊的武装と違って『領域』の内側に取り込まれていても霊体に対して損傷を与えることが出来る点が大きい。

 ほかの霊的武装と違ってアルカードの霊体に直接『関連付けペアリング』されているので、『領域』の内側に取り込まれた状態でも接続された霊的な回路パスを通して魔力供給は問題無く行える。

 このまま塵灰滅の剣Asher Dustを維持しておけば、再度『領域』に取り込まれても霊体を破壊しうる武器を少なくとも一点は確保し続けられる。『領域』が再展開される可能性が否定出来ない現状では、再展開されたあとからでは構築出来ない塵灰滅の剣Asher Dustを消すわけにはいかない――異能の影響による塵灰滅の剣Asher Dustの機能障害は『作れなくなる』ことだから、それさえ回避してしまえばあとは問題にならない。

 ふたつめは、月之瀬の戦闘能力が未知数なことだった――月之瀬が空社陽響を退けるに至った経緯や、空社陽響が異能を解除した経緯はわからない。

 だが、魔術通信網から流れ込んでくる情報を総合すると、空社陽響は月之瀬の説得を試みて失敗し、交戦に及んで敗れたのだ。

 『領域』が引き戻されたことに関しては、可能性はふたつ考えられる――異能が維持出来なくなるほど甚大なダメージを受けたのか、あるいは魔術通信網を回復させるために異能を引き戻したのか。

 前者であれば、アルカードとしてもそれなりに警戒してかからなければならなくなる――それが自分にも通用しうるか否かはこの際置いておいて、侮ってかかるのは失敗のもとだ。

 シンはすでにこちらの目的を知っている――こちらを止めにくることは無いだろう。

 空社陽響のものと思しい気配が、異様に小さくなっている――相当なダメージを受けている証拠だ、並の人間なら死んでいてもおかしくない。

 だが問題は無いだろう――そちらはシンが回収するはずだ。それよりも問題は――

「よせ、魔術師阿呆――奴らを止めさせろ。余計な犠牲を増やしたいのか」

 小さく舌打ちして、アルカードはそう毒づいた。

 アルカードの察知出来る範囲内にいる空社陽響の配下たち――情報をあてにするなら『帝国騎士団』の構成員たちの気配が、次々と小さくなっていく。魔術通信網の内部に悲鳴が飛び交っていることから察するに、月之瀬と接敵した者たちが次々と斃されているのだ。

 騎士団の構成員たちは包囲網を完成して、月之瀬を抑え込む作戦に出たらしい――空社陽響を後送するまでの時間稼ぎが目的なのか、彼らだけで捕えるつもりかはわからないが、いずれにしても無駄な犠牲を出すつもりでいるとしか思えない。

 ベガがなにを考えて作戦を運用しているのかは知らない。今のところ死者は出ていない様だが、それはあくまで月之瀬の気紛れによるものだ。

 月之瀬が死者を出さない様にしているのか、あるいは脱出を優先してとどめを刺さずに放置しているのかは知らないが、放っておけばいずれ必ず死者は出る。

 今のところ、月之瀬は一方向を目指して進んでいる様だ――どうやってこの結界を抜ける算段をつけるつもりかはわからないが。

 ……待てよ?

 苛々と歯を噛んで視線をめぐらせ――月之瀬の進行方向の先におかしな気配を見つけて、アルカードは眉をひそめた。

 すさまじい聖性、否神性に近いか。強烈な魔力を持つ怪物の様な気配が、結界の内側に入り込んできている。

 なんというすさまじい魔力――これではほとんど受肉した神霊に近い。否、そういえば綺堂桜は空社陽響をなんと表現していた?

 顕界派遣執行冥官助手? つまり顕界派遣執行冥官は別にいるということだ。

 顕界派遣執行冥官――それについて桜はなんと言った? 八百万の神々の尖兵? 若い神を地上に受肉させ、彼らを使って自分たちに敵対する魔や異端の神々を滅ぼす?

 もしこの神性の持ち主がそうだとしたら?

 まずい。受肉しているということは吸血の対象になる。これだけ強大な魔力を取り込めば、月之瀬は確実に瞬時に全快する――否、下手をすれば自分でも梃子摺るほどの強大な力を手に入れる可能性もある。

 これほどの魔力の持ち主が戦闘技術を身につけていれば、本来助手など必要無い――アルカードと同等の戦闘技術の蓄積をこの神性の持ち主が持っていれば、今の弱体化した自分では間違い無く勝てない。セイル・エルウッドと戟を交える以前の全盛期の自分でも、勝てるかどうか怪しい――ドラキュラの影響が完全に排除されてしまえば、この結界の構築者にもこの神性の持ち主にも決して負けはしないだろうが。

 にもかかわらず、今まで顕界派遣執行冥官は前線に出てこなかった。戦力を出し惜しみしていただけなら、空社陽響が敗退した時点で出てくるはずだ。にもかかわらず今まで出てこなかったということは、すなわちこの神性の主がろくな戦闘能力を持たない、お飾りでしかないことを意味する。

 すなわち――月之瀬と単独で相対すれば、間違い無く餌になる。

 くそッ!

 毒づいて、アルカードは看板を蹴った。

 

   †

 

 視界の端に展開された広域戦況図の中に表示された『正体不明アンノウン』の所在を示す光点が高速で動き始めるのを見て取って、環は小さくうめいた。

 待機要員で構成したイージス・チームを含む騎士団は徐々にその戦力を削り取られ、戦況は徐々に月之瀬に傾き始めている――ただ空社陽響が戦線復帰出来る可能性が出てきたために、それを再び覆せる可能性は高くなってきた。

 シンと陽響が合流して現場に到着すれば、月之瀬と真正面から戦っても負けることはまず無いはずだ――それまでに月之瀬が美音をその牙にかけていなければの話だが。

 だが、そこに『正体不明アンノウン』が首を突っ込んでくれば、全体の図式がすっかり変わってしまう――シンと『正体不明アンノウン』は『領域』が解除された時点でたがいに戦闘を放棄し、シンはすでに陽響のもとへと向かっている。

 時間稼ぎをさせるためにシンを『正体不明アンノウン』にぶつけたのは、失敗だったかもしれない。

 失敗したかもしれない――とは決して考えるな、兄の教えを思い出しながら、環は唇を噛んだ。

 『領域』の解除に伴って再開された魔術通信はシンが途中から発信にプロテクトをかけてしまったために、アイン・ソフ・アウルが記録していた会話の履歴が途中までしか残っていない。

 会話の内容はせいぜい二、三言程度だが、どちらも別段負傷している様な会話内容ではなかった――実際『正体不明アンノウン』は、シンと別れてすぐに行動を開始している。

 その点から考えても、たがいに手傷らしい手傷は負っていないのは間違い無い――まあ当然か。

 『領域』の影響下では、霊的武装は一切稼働させられない――霊的武装を稼働させるためにはその呼び水となる魔力を流し込む必要があるのだが、『領域』の内部ではたとえ対象となる霊的武装にじかに接触していても体の一部ではないために魔力を送り込む作業が出来ないからだ。

 これは笠神の太刀もシンの瓶割も、ともに実体を持つ霊的武装であったために起こった弊害であると言える。このため『領域』の内側にある霊的武装は極めて頑丈ではあるものの、霊体に対して破壊力を持たない通常の武器に成り下がる。

 すなわち、シンに出来る足止めは戦闘を継続し続けることであって――彼と『正体不明アンノウン』はたがいに相手に決定打を撃ち込むことは出来なかったのだ。

 環はほかにも懸案事項があったためにシンと『正体不明アンノウン』の戦闘が始まった時点で現場をモニターするのをやめてしまったので、その後の状況推移など知りようはずも無かった。

 事情を問い合わせようにもシンはすでに人間態を放棄しており、電子通信機器も投棄してしまっている――『領域』が起動している今、もはや魔術通信網を通じてシンに連絡を取ることも出来ない。

 問題は『正体不明アンノウン』の目的だった――陽響は今でも月之瀬の身柄を生きたまま確保することにこだわっているし、シンはすでに陽響を回収するために彼のもとに向かったあとだ。シンが『正体不明アンノウン』との戦闘を止めて公営住宅の公園から立ち去ったときに『正体不明アンノウン』がシンの不意を突いて殺害しなかったことから判断しても、彼の目的はこちらには無い。

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