The Otherside of the Borderline 56

 だが、状況はおよそ最悪と言ってもいい展開だった――反応が早すぎる。環が『それ』を察知したときには、すでに『正体不明アンノウン』は動き出していた。

 顕界派遣執行冥官、橘美音。

 数分前に彼女が勝手に結界の内部に入り込んだことによって、環の計画は致命的に狂い始めていた。

 重傷を負ったケンゴを治療しようとしたのだろう、すでに彼女は結界の内側に入り込み、ケンゴのもとに到着している。

 血の臭いを嗅ぎつけたのか月之瀬はそちらへ移動し、それに気づいてか『正体不明金髪の男』もまっすぐそちらに向かっていた。

 『正体不明金髪の男』の意図はいまだわからない――美音が標的で、彼女になにか危害を加えるつもりなのか、それとも月之瀬が彼女をターゲットにしていることを知って、先回りをするつもりなのか。

 もし月之瀬が狙いであるのならば――直接的な標的ではないにせよ、『正体不明アンノウン』が美音に危害を加える可能性は十分考えられる。

 受肉した高位神霊は吸血の対象になる――美音を噛まれ者ダンパイアに出来るかはさておき、少なくとも潤沢な魔力は自己強化に利用出来る。

 もし彼の目的が月之瀬の身柄確保もしくは殺害であるのなら――もしも月之瀬に美音が捕まっていれば、『正体不明アンノウン』は美音を救うよりも殺害することを選ぶだろう。月之瀬が美音の魔力を奪って自己強化を行う可能性を潰すには、彼女を奪い返して守りながら戦うよりもそちらのほうが手っ取り早い。

 一番確実な方法は美音とケンゴをまとめて結界外に転移魔術で放り出すことだが、『領域』の影響下にあってはそれも出来ない。

 たとえ再度『領域』の再収縮を要請したところで、異能の効果は即座に失われるわけではない――さらに現場にいる騎士たちの安全を考慮すると、陽響に『領域』の再収縮を要請することも出来ない。

 それと引き換えに現場が負うことになるリスクが高すぎるうえ、『領域』が引き戻されても即座に転移魔術が構築出来るわけでもない。

 たとえ陽響に『領域』の再収縮を依頼したところで、『領域』の影響を受けなくなるころには今度は『正体不明アンノウン』の接近による大気魔力の乱れで転移術の『式』は発動しなくなるだろう――結論から言えば、ふたりまとめて転移魔術で後送するという考えの成功率は絶望的に低かった。

 最悪徐々に力を取り戻しつつある月之瀬が、抑え込まれていた能力が全解放されたことで一気に攻勢に出ないとも限らない――そうしたら騎士団は即座に全滅、シンと陽響が現場に到着する前に月之瀬は美音のもとへとたどり着き、彼女をその牙にかけるだろう。

 美音のもとには、すでにシンと陽響が到着するまでの間月之瀬から美音を守るための戦力を派遣している――月之瀬を斃すことは望めなくとも、美音を守りながらシンと陽響の到着まで凌ぎ続けることは可能なはずだ。

 だが、『正体不明金髪の男』は無理だ。相手は手負いの状態でなお、シンと互角に戦った男なのだ。

 たがいに本気ではなかっただろうが、香坂や笠神との動きだけ見て判断しても、騎士団の誰を差し向けても勝つのが難しいということはわかる。

 あの男が霊体武装を手にしているのが、現状における最大の問題だった――通常の霊体武装であれば、『領域』の内側に入り込んだ時点で消えてしまう。

 だが環の結界を破ったときの破壊状態、それにこうして『領域』の内側でも消えずにいることを考えると、あの霊体武装は陽響の異能の効果を排斥する機能があるらしい――そして、それが問題だった。

 霊体武装や関連付けペアリングされた魔具は、霊的武装と違って魔力供給を使用者との間に形成された回路パスによって行う――そのために、『領域』の内側でも問題無く魔力供給を行うことが出来るのだ。

 それはすなわち、あの『正体不明アンノウン』が霊体に対する攻撃力を持つ――つまり『領域』の内側であっても月之瀬やシンを霊体を破壊して確実に殺害することの出来る武器を所持した、唯一の人物になったということだ。『領域』の内側に戦場を限定すれば、シンであっても彼には絶対に勝てない――武器が、彼の霊体武装だけだからだ。

 ゆえに、再びシンをぶつけることは出来ない――彼には彼の仕事があるし、なによりも戦場を『領域』の内側に置く限り、たとえシンでも絶対に『正体不明アンノウン』を殺せない。逆は可能である以上、シンをぶつけるのは危険すぎる。

 とはいえ『正体不明金髪の男』の目的がわからない以上、これ以上彼に状況を引っ掻き回されるわけにはいかない。

 かといって、あの吸血鬼がどこまで『やる』つもりなのかがわからない以上、下手な手出しも出来ない――彼がこちらと敵対するつもりが無いのならば、こちらから刺激しなければ攻撃してくることは無いだろう。積極的に彼ら『騎士団』を攻撃してくるつもりがあったのなら、キロネックスやロックオンを見掛けたときに見逃すはずが無い。 

 あの男が本気になって暴れれば、その被害は極めて深刻なものになるはずだ――あの男に対抗出来る可能性があるのは、環の手駒の中ではシンしかいない。そしてそのシンであっても、『領域』の内側では絶対に彼に勝てない。

 生身のままの状態では、陽響では高位の吸血鬼に及ぶべくもない――あの霊体武装は魔術構成を分解して魔術の『式』を破壊する機能がある様だから、直接相対すれば(『領域』の中であろうが外であろうが関係無く)環でも勝てないだろう。

 すでに『正体不明金髪の男』は数人の遊撃騎士に接触している――ネメアとシン、それに遠距離から観察する様な形ではあるがキロネックスとロックオンに接触している。

 そのときに彼らに手出しをせずに放っておいたのは、いざ相対しても問題にならないと判断したからだろう――そしてその判断は正しい、キロネックスの自壊触手は無生物に対してはなんの効果も無いから遠距離攻撃を防ぐ手段は無いし、ロックオンの攻撃は能力の内容さえ理解してしまえば上位の吸血鬼であれば容易に凌げる程度のものだ。

 下手に手を出せば、火傷するのは間違い無い――だがだからといって放っておけば、月之瀬と『正体不明アンノウン』が接敵することはこれも間違い無い。月之瀬の下僕たちを出会うそばから屠ってきたこれまでの行動から推すに、彼が月之瀬と接触すれば戦闘になるのはほぼ確実だろう。

 連絡の取れる要員を差し向けて、シンを再度『正体不明金髪の男』のもとに再び向かわせるか?

 駄目だ。月之瀬と陽響の距離が離れすぎてしまっている。

 陽響を再び月之瀬と相対させるためには、シンの『脚』が必要不可欠だ――彼を呼び戻すことは出来ない。ことに、陽響の伴侶たる美音の生命が危険にさらされている状況とあっては。

 負傷した犬妖のひとりを治療するために、美音は単騎で結界内へと乗り込んできた――状況もなにもわきまえずに。

 その心根は評価されてしかるべきだろう――いかに人間ではなくなったとはいえ、彼女自身はその神威を戦闘に転用することはしていない――正確に言うなら、もともと幼いと言ってもいいほど奔放かつ爛漫なうえに天然の性格、おっとりとした気性が災いして、彼女は到底戦闘には向いていない。自身の非力をわきまえていてなお、危険の只中に仲間を助けに踏み込んでくることの出来るその心根は、環にとっても家族として誇るべきものだ。

 ただし、自身の身すら守ることの出来ない者の博愛は、この状況ではなんの役にも立たない――最悪の場合、月之瀬に格好の食餌を提供するだけに終わる可能性すら否定出来ない。

 その意味では、彼女を顕界派遣執行冥官に選んだ胡散臭い神々のキャスティングは、三流もいいところだった――そもそも神々(陽響いわく『ヤブ』)も、最初から彼女自身にはなんの期待もしていなかったに違い無い。

 環が彼らの立場だったとしても、美音には一切期待などしないだろう――彼女はただ単に、たまたま適性が高かっただけであって、精神的にはそもそも神々の手足となって悪神や邪霊を狩る下っ端の神様など到底向いていない。

 美音は単に陽響を屈従させるための人質に過ぎず、ゆえに陽響はたいていの場合彼女を戦闘の現場から遠ざけていた。

 実際今回だってそうだ――陽響は最初から美音を現場に近づけるつもりは無かっただろう。むしろもともとは家に置いてくるつもりだったのだ。

 だが、状況は陽響が懸念していた中で最悪のものになりつつある――美音が月之瀬将也と接触し、その危害を受ける可能性。

 月之瀬の霊体武装『蝕』には斬った相手の生命力を奪い取る作用があるらしく、『領域』解除後の月之瀬の動きは瞬く間に当初の鋭さを回復しつつある――先ほどの『領域』の再展開によって『蝕』こそ消えてしまったものの、すでに月之瀬の動きはまるで今戦闘が始まったばかりであるかの様に俊敏だった。

 すでに『騎士団』の一般騎士たちでは手も足も出ない様な状況になっており――彼らが自分とは違う種であることがわかっているからだろう、月之瀬が吸血を試みないことが唯一の救いだった。

 だが逆に言えば、『騎士団』では何百人差し向けても月之瀬は止められない――美音を捕えて吸血を行えば、莫大な魔力を吸収した月之瀬は当初よりはるかに強大な存在になるだろう。最悪、シンでさえも勝てない様な怪物に成長する可能性すらある。

 『正体不明アンノウン』の目的はいまだ知れないが、彼を優先して美音の生存確率を下げるわけにはいかない――だが美音を優先すれば、そも戦闘の目的である月之瀬の捕縛が難しくなる。

 と、なると――兄さまはいい顔をしないでしょうけれど、あれを使うしかありませんね。優雅な仕草で腕組みし、環は意識の隅で『式』を起動させた。

 

   †

 

 突然襲ってきた覚えのある嫌な感覚に、アルカードは足を止めた。息苦しさ、もしくは圧迫感を感じさせるこの感覚。

 『灼の領域Lust Empire』が再起動したのだ。

 『灼の領域Lust Empire』の展開に呼応する様に、手にした塵灰滅の剣Asher Dustがぎゃあぎゃあ悲鳴をあげている――これは結界を塵灰滅の剣Asher Dustが喰い潰しているときの反応だから、『領域』の中にいる間は抑え様が無い。

 塵灰滅の剣Asher Dustを黙らせることはあきらめるしか無い――無論持ち歩いていても稼働させていなければ静かになるだろうが、そうするとまたこの『領域』の影響を受ける。

 受けること自体は別にかまわないのだが、いざ戦闘状況に入ったときに塵灰滅の剣Asher Dustを基底状態から稼働状態にもっていけるかどうかということだ――稼働していない塵灰滅の剣Asher Dustは、ただ強靭なだけで普通の剣と変わり無い。もし再起動出来なかったら、わざわざ作った意味が無くなる――笠神の太刀、黒禍に紅華、素手での接触、いずれも笠神に魔力を通せなかった。

 それはつまり、この『領域』の内部では通常の器物に魔力を這わせたり霊的武装を稼働させて霊体に対する殺傷能力を得るやり方が一切使えないということだ――それはすなわちたとえ先ほどのシンとアルカードの戦闘がそれこそ一日中続いたとしても、たがいに相手を仕留めることは出来なかったということでもある。

 一度稼働を止めた塵灰滅の剣Asher Dustを再び稼働させられるかわからない以上、ここで稼働を止めてしまうのは賢いやり方ではない――なんといっても塵灰滅の剣Asher Dustはこの『領域』の内側で、敵の体内に魔力をじかに流し込み、霊体構造ストラクチャを破壊して確実にとどめを刺せる唯一の武器なのだ。

 とはいえ――

 塵灰滅の剣Asher Dustの絶叫は物理的に耳から聞こえているわけではなく、魔術通信網の音声送信と同じで頭の中に直接響き渡っている。当然耳栓をしようがなにをしようが聞こえなくなったりはしないし、聴力の良し悪しにかかわらず聞き取ることが出来る。

 耳をふさいでも静かにならないのがネックだよな――胸中でつぶやいて小さく溜め息をついたところで破砕音に似た轟音が連続して聞こえてくるのに気づいて、アルカードはそちらに視線を向けた。

 なんだ?

 胸中でつぶやいたとき視界の隅に動くものを捉えて、アルカードはそちらに視線を向け――

 ひゅ、と白銀の閃光が視界をかすめて、アルカードは上体をわずかにそらせた――攻撃の間合いが不意に広がっても対応出来る程度の余裕を保ちつつ、しかし自分の攻撃体勢を崩さない程度に。

 同時に――繰り出した反撃の中段廻し蹴りを鳩尾にまともに喰らって、襲撃者の体が二十五トントラックに撥ねられたみたいに吹き飛ばされた。

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