The Otherside of the Borderline 54

 

   *

 

 いまだ異能が復活する気配は無い――ブラック・ナインティと符号の振られた大型の交差点の角でネッツトヨタの看板の上に降り立つと、アルカードは周囲を見回した。

 陽が落ちてかなり経っているせいか、吹き抜けていく風が冷たい。だがそれでいい、風は冷たいくらいがちょうどいい。

 どういう事態になっているのか、今ではアルカードはおおよそ理解していた――頭の中で、数多くの情報が飛び交っている。

 月之瀬将也の現在位置、状況、魔殺し空社陽響の現在位置と現状、彼が指揮する討伐部隊の各部隊の配置と状況――

 作戦全体の統制を行っているのは、コールサイン『ベガ』と呼ばれる通信所の様だ――視界の中で明滅している部隊配置図や行動に若干の齟齬があり、どうにも効果的に運用出来ているとは言い難い。

 感染魔術を応用した魔術通信網は、魔力の性質から判断するに、ベガが構築し運用しているのは明らかだ――おそらく通信網の通信サーバーとしての役割を果たせるのがベガしかいないからなのだろうが、指揮官として掌握下の兵を効果的に運用するにはメンタル面が甘い様に見受けられる。

 そして――それはこの魔術通信網の構築にも表れている。

 魔術式は同じ内容であっても術者によってかなり個癖が出るもので、それは一目見ればすぐにわかる。特に独学の術者の場合は個癖が出やすいのだが、見る者が見れば術式というのは簡単に読み取れるものなのだ。

 ファイアーウォールを構築する手腕は非常に優秀ではあるもののいささか詰めが甘く、自分の構築した魔術式に対する検証も今ひとつ、同質の魔術通信網による傍受を避けるための暗号化もされていない――もっとも、これは自分自身の構築した魔術に対する絶対的な自信からくるものだろうが。

 実際、ここまで効率的に構築された魔術式はそうあるものではない。実際にその『式』を目にすれば、それはきっと硝子細工の芸術品の様に繊細、かつ複雑に構成されているに違い無い――アルカードが同じものを作れと言われたら、たぶんもっと効率的でコンパクトなものになるだろう。魔術師としては才能に恵まれているし実際優秀ではあると思うが、客観的な検証を行うことによる『式』の洗練が甘い。経験の浅い独学の魔術師によくみられるものだ。

 展開されたあまりにも複雑な『式』は、歴史に名を遺す様な高位の魔術師であってもそうそう介入出来るものではないだろう。並みの術者は、干渉に最低限必要な『式』を構築するための魔力容量を確保することすら出来ないに違い無い――それに自信があるのか、術式に残った欠陥セキュリティホールを見落としている。

 要するにそこらの魔術師には到底干渉出来ない様な大容量の術式なので、術者が警戒していないのだろう――いずれにせよ結構なことだ。ベガがまったく警戒していなかったおかげで、アルカードはシンに貼りつけられた『式』を解析して端末を偽造するためにファイアーウォールを破る必要すら無かった。

 アルカードがシンの仕掛けてきた戦いを受けたのは、かなり早い段階から彼らが物理的な通信装置ではなく魔術通信網を使用していたのに気づいていたからだ――左腕の激痛で集中力を欠いたアルカードの今のコンディションでは魔術通信網の全体を制御する『式』には干渉出来ないが、個体に貼付された端末の『式』程度ならどうにか扱える。個別制御の手間を減らすために機能を絞り込んで、容量を抑えてあるのだろう。

 おかげでアルカードは戦闘中にシンに貼りつけられた『式』を解析してシステムの偽造端末を構築し、もっぱら受信専用ながら魔術通信網に入り込むことに成功していた。

 構築したダミーの『式』は今のところ問題無く機能しており、本物同様周囲を飛び交う情報を拾い出している――発信アクセスを行うとアカウントの偽造がシステム管理者であるベガに露見してフィルタリングを受ける可能性があるので、今のところ発信は出来ない――SNSサイトで他人のログインパスワードを解析し、別な端末からログインしてアカウントの持ち主の動向を監視する様なものだ。自分から発信すれば即座に露顕するが、覗き見ているぶんにはなんの問題も無い。

 受信に徹している間は、端末の偽造が露見する危険は無いだろう――今の通信内容を傍受している限り、ベガは今のところ戦場指揮に忙殺されている様だ。それに偽造した端末が通信網から排除されてしまっても、それはそれで問題無い――月之瀬の位置は掴んでいるし、魔術通信網によってもたらされる情報から現在の状況推移もおおむね把握している。多層視覚によって示された方角から、月之瀬本人の魔力と思われるものも見つけた。

 空社陽響本人の現状に関しては、どうにも断片的な情報しか入ってこない――そもそも魔術通信網に端末登録が存在しない様にも見受けられる。おそらく彼の異能の影響で、彼自身には通信端末として機能する『式』が貼りつけられないのだ。

 『灼の領域ラストエンパイア』――そう呼ぶらしい。空社陽響が展開した様な無効化型の異能は、基本的に範囲を狭めれば狭めるほど強力になる。また、基本的に発動を止めることも出来ない。

 空社陽響は正確には異能の結界を発動したのではなく、それまではなんらかの方法で範囲を狭めるか、もしくは抑え込んでいた異能の範囲を拡大させたのだ。

 異能の範囲が自分の肉体だけに収まるまで圧縮した場合、密度が極限まで高まって、いかなる魔術の影響も受けなくなるだろう――当然魔術通信網の『式』もだ。

 だがだからといって、ベガと空社陽響の間で通信が確立していなければ運用に支障をきたすから、おそらくなんらかの手段でベガが通常の通信機の内容を中継しているのだろう――ベガがシステム内でアクセスする端末として『シリウス』という送信専用アカウントが存在しているから、たぶんこれがそうだろう。

 ほかにもいくつか、部隊編成されたコールサインとは異なる、黄色の光点で表わされるユニットが存在している様だ。

 『ネメアNemean』。

 『エクスロードEx Load』。

 『キロネックスChironex』。

 『アイヴィーIvy』。

 『レイヴンRaven』。

 『メイヴMaeve』。

 『フォボスPhobos』。

 『ロックオンLock On』。

 『スコールSquall』。

 ほかの戦術単位ユニットが『サークル』『スクエア』『トライ』『ペンタ』『ヘキサ』と図形の名前で呼ばれており、また五人ごとのチームをひとまとめにしているのに対して、彼らは個人ごとにコールサインを割り振られているらしい。

 ネメアは確か香坂と戦っていたおかしな皮膚を持つ男が、同僚の娘にそう呼ばれていた。棍棒も弓矢も徹さぬ装甲のごとき皮膚を持つ異形の獅子、ネメアの谷の獅子Nemean Lionがその名の由来か。

 『かつての君主エクスロード』というのはシンのことだ。アルカードの偽造した通信端末のコールサインがEx Loadとなっている――自ら一族の長を名乗りながら他者の統制下で行動している事実は、まさにその在り様にふさわしい。

 アイヴィー――蔦のことか。どういう意味を持ったコールサインかは知らないが、ここ数十分の間には更新履歴が残っていない。

 レイヴンは確か白隼のことだったと思うが、これもどういった意味の名かはわからない。

 キロネックス――キロネックス・フレッケリ Chironex Fleckeri のことだろうか。キロネックス・フレッケリはオーストラリアウンバチクラゲ、オーストラリアのクィーンズランドでヒューゴー・フレッケルによって発見された、別名殺人海月と呼ばれる立方海月の一種だ。地球上でもっとも強力な毒を持つ有毒生物の一種で、人間の場合刺されると成人でも二十分以内に命を落とすことが多い(記録上の最短は三分だという)。

 『キロネックス』だと思われるのは十代半ばの痩せこけた少年で、笠神との戦闘現場に移動する最中に見た限りでは、霊的な触手を展開してそれに触れたものの細胞に強制的なアポトーシス、もしくはネクロージスを引き起こすことで殺傷するという、危険極まり無い能力だ――触れただけで敵を破壊し、海月でありながら眼球を持つことでみずから狩りを行い、必殺の毒を持つ、まさに最強の有毒生物の名にふさわしいといえるだろう。

 性質としては香坂の黒禍に近いが、接近しなくてもというその一点において、黒禍よりもはるかに危険な能力だと言える。

 メイヴというのは、たしかケルト神話においてクー・フーリンが聖誓ゲッシュを破って死ぬことになるきっかけを作ったコハナタ(Connachta、アイルランド北西部位置する一地方。英語ではコノート、ConnachtもしくはConnaughtと表記される)の女王の名だったか――それがどういうふうに由来しているのかは知らないが。

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