The Otherside of the Borderline 31

「アサカ、大丈夫か?」

 アサカは地面の上で体を折って咳き込みながら、口の端から血の滲む顔で微笑んだ。

「貴方とチークダンスでも踊れる様に見えるかしら? それならわたしも安心なんだけどね」

 そう答えてから、再び咳込む――先ほどの打擲で肋骨を何本か骨折したのだろう。下手を打つと、骨が肺に突き刺さっているかもしれない――口蓋から咳と一緒に吐き出される血の量がかなり多い。

「落ち着け、体を横に向けるんだ。仰向けになってると血で咽喉が詰まるぞ」

 激痛で身動きもままならないらしいアサカの体を横向きに横たえる。気丈に痛みに耐えているアサカの背中を見下ろしたとき、アサカが彼の名を呼んだ。

「ネメア、わたしの、……銃を取って」

「なんだって?」

「わたしはまだ生きてる……まだ戦える。だからわたしに武器を頂戴」

「馬鹿言うな――こんな状態でなにが出来るっていうんだ。あいつは俺たちの手には負えない。撤退だ――あとは陛下かシンにでも任せればいい」

 その言葉に、アサカが頑なにかぶりを振る。

「うるさい――ここで、退いたらほかのみんなが危なくなる。あいつはここで仕留めないと、駄目なのよ――」

「馬鹿を言え。シンや陛下がいつもいつも口を酸っぱくしてなんと言ってたか忘れたか――俺たちの戦死は恥だぞ」

 香坂の武装である二本の短鎗は、一種の呪術兵装である。黒い鎗は受傷部位の周囲の組織を死滅させ、紅い鎗は出血を止まらなくさせる呪いがかけられている。アサカは先ほど、右手首を紅い鎗で貫かれた――動脈は切れていない様だが、すぐ近くでも変わり無い。

 彼女の手首はとめど無く流れ出す血液で真っ赤に染まり、指先は血の気を失い真っ白になっている。この状態で、よくも反撃を仕掛けられたものだ。

「もういい、わたしが自分で拾う」 そう言って無理矢理に体を起こすアサカを見ながら、ネメアは空社環を呼び出した。

「ネメアよりベガ――ペンタ・ワン・ワンほか数名が交戦により負傷。緊急の後送を請う、以上」

 あの老人の真紅の鎗は永続出血の呪いを持つ呪術兵装だ――彼を実験台にしたあの魔術師が教えてくれた数少ない知識が正しければ、この手の武器はたいていの場合、使用者が死ぬか武器を破壊するまで効果が止まらない。

 だが顕界派遣執行冥官として受肉している橘美音は、因果を崩壊させることで呪詛の効果を無効化する神通力を持っている。彼女なら呪詛を無効化し、さらにはアサカの重傷も『無かった』ことに出来るだろう。

 余計なことを――そう言いたげな表情でこちらを睨みつけているアサカの体が霧の様に溶けて消失した。

「ベガ。三十秒後にエクスロード、メイヴ、ロックオンの三名を転送します。時間は稼げますか? ジョルジュ」

 環の声が脳裏に響く――いまだ集中砲火を浴びている香坂に視線を戻すと、その周囲で負傷した騎士たちが霞の様に消えていくのが視界に入ってきた。

勿論Celto」 短くそう返し、ネメアは片足を引きずって立ち上がった。もはやこの状態では勝ち目は無い。だが、要は時間を稼げばいいのだ。実際に戦わなくても、ただ会話で香坂の注意を惹きつけておくだけでも役目は果たせる。

 なにより、今の状態では火力が足りない。先ほどは九人の騎士たちがいて突破されたのだ、今の結果は推して知るべきだろう。

 幸いなことに膝から下が『殺された』だけなので、注意していれば立つことは出来る。手にした長剣の柄を握り直し、ネメアは隙を窺って老人を睨み据え――仲間たちが弾倉交換で弾幕を切らした瞬間に飛びかかろうとした香坂に、背後から攻撃を仕掛けた。

 香坂が振り向き様に短鎗を翳し、ネメアの一撃を受け止める――その口元に余裕の笑みが浮かんでいた。信じ難いことに、老人の創傷はすでに完全に再建を果たしている。

「ほう――まだ向かってくるか、小僧。とうに逃げ出したものと思うておったわ」 嘲弄の笑みとともに、老人がそんな言葉を口にする――その言葉に、ネメアは唇をゆがめた。耳障りな声ではあるが、時間稼ぎになるのならつまらない会話にも乗ってやろう。

「冗談だろ? あんたがまだ生きてるのに、俺がどこに逃げるっていうんだよ」

「それは残念だ――ネズミの様にどこぞで縮こまっておれば、あるいは命を拾うたかもしれんのに」

 ふん!という掛け声とともに香坂が手にした鎗を振り抜いて、ネメアの体を吹き飛ばす――鉄骨に背中から叩きつけられ、後頭部を打ちつけて、ネメアは小さくうめいた。

 脳震盪を起こしかけているのかぐらぐらと揺れる視界の中で、香坂が背後を振り返り、一般騎士たちに襲いかかるのが見えた――残ったふたりの隊員たちが瞬く間に撃ち倒され、老人がこちらに向き直る。

 騎士たちはいずれも死んではいない――だが放っておけばいずれ死ぬ。

「それにしてもおかしな体をしておるな――まあいい。おまえさんに関しては血を戴いて、儂の配下に入ってもらうとしよう」

「ほざけよ」 言い返しながら、ネメアは鉄骨に体重を預けたまま手にした荊の刺刑Rosethorn Executeを構え直した。

 まだか……?

 胸中でつぶやいたとき、再びベガから――ただし今度は背中の寒くなる様な――通信が入った。

「ベガよりネメア。増援の転送は不可能」

 なに……!?

 冗談ではない――それはつまり、この状況下において、当面の支援が一切望めなくなったということを意味していた。

 

   †

 

 ネメアと香坂が交戦している工事現場から約七百メートル離れた交差点に、シンがいる――魔術通信網を介して彼に転移魔術の『式』を纏わりつかせながら、環は次に現場から一キロほど離れたところにいるロックオンを掌握し、彼を現場から二百メートルのビルの屋上に転送すべく『式』を組み立て始めた。

 最後にメイヴを掌握し、転送現場に出口になる『式』を送り込む――環の目には複雑極まり無い紋様の刻まれた工芸品の様に見える『式』の構造物が現場に構築出来たところで、環は魔術を発動させるために『式』に魔力を流し込もうとして、そこで愕然と動きを止めた。

 これは……!?

「どうしましたか?」 焦燥も顕わに、シンがそう問いかけてくる――どう説明したものかわからずに、環は一瞬沈黙した。

 空間中に展開した『式』に問題は無い――会心の出来だと言ってもいいくらいだ。『式』の発動に必要十分な魔力も注ぎ込んだ。なにも間違っていないのに、術が発動しない。

 彼女の転送術式は、安全上入口と出口、両方が『開口』してからでないと発動しない――出口が開いていない状態で術を発動すると、転送対象が転送先の座標で『復元』されずに消失してしまう危険性があるからだ。

 『入口』に問題は無い、『式』も正確。となると、あとは『出口』が開口していないことになる。

 思い当たる原因は――

 まさか!?

 小さくうめいて、環はあわてて結界内を走査した。ネメアたちのほうに気を取られて失念していたが、『正体不明アンノウン』はどこにいる?

 ――いた。

 ネメアたちのいる工事現場から二百メートルもない。

 大きなスクランブル交差点にある日産の自動車販売店の屋上に、彼がいた。

 原因は彼か――この結界内にいる中で、環に次ぐすさまじい魔力を持つ、おそらくは人間外。あれが転送先座標に近すぎるせいで周囲の大気魔力が不安定になり、術式が誤作動を起こしているのだ。

 あの男がどういうつもりなのかはわからない――だが、あれがあと百メートルは離れない限り、術式は正常に作動しない。

「ベガよりネメア。増援の転送は不可能」 即座にそうネメアに報告してから、環は今度はシンに回線を開いた。

「ベガよりエクスロード。現場状況の不適切により、転送術式が使用出来ません。急いで現場に移動してください」

 返答は無かったが、シンの動揺が伝わってくる――了解、と返したときにはシンは移動を開始していた。

 どうすればいい――?

 あの男はなんの目的があるのか、ビルからビルへと飛び移りながらまっすぐに工事現場に向かって移動している。

 『正体不明アンノウン』がそれまで腰に吊っていた巨大なリボルバーを抜き放ち――スライドする様にして展開した長大な銃剣バヨネットが、ビルの屋上に設置された常夜燈の明かりを照り返して兇悪に煌めいた。

 

   †

 

 ぎゃりぃん、と音を立てて、手にした長剣が短鎗の穂先に弾き飛ばされた――勢いに押されて後退しながら、小さく毒づいて体勢を立て直す。だがそのときには、すでに老人の左足が跳ねていた――下顎を蹴り上げられて吹き飛ばされ、背中から地面に叩きつけられる。

 何度目の打擲になるのかももはや覚えていない――左腕は黒い鎗に突かれて神経が死滅させられ、右足は膝に続いて太腿も殺されたためにもはや立つこともままならない。

 背中から叩きつけられたときに後頭部を強打したために朦朧とした意識は、しかし右腕の骨がへし折られる激痛とともに一気に鮮明になった。

「っがぁぁぁッ!」

 悲鳴をあげるネメアの腕を片足で踏みつけながら、老人が首をかしげる。どうやら工事用足場の構造材の単管の上に載っていた腕を、手首側を踏み抜いて単管を支点に踏み折ったらしい。

「まだまだ甘いな、若いの」

 その言葉とともに、老人がゆっくりと笑う。

「それにしても頑丈よのう」

 感心した様な口調で、香坂が腕組みするのが見えた――彼は興味深そうに傷ひとつ無いネメアの皮膚を見ながら、

「やはり使えそうだな――あの若造に対する楯にも使えよう。どれ、おまえさんの命、儂が頂戴するとしよう」

 そんなことを言いながら、老人がネメアの頭を掴んで引き寄せた。メキメキと音を立てて、開かれた口蓋の中で犬歯が伸び始める。老人が首筋に口元を寄せ、血腥い息が顔にかかった。

 こいつ――俺をつもりか!?

 戦慄に背筋が粟立つ――なんとか逃れようと身じろぎしたとき、響き渡った銃声とともに老人の体が揺れた。血飛沫とともに老人の体を背中から貫通した五・五六ミリ口径のライフル弾が、ネメアの胸に着弾する。スティールコアを仕込んだライフル弾が強靭な皮膚に衝突して変形するのを感じながら、放り出されたネメアはコンクリートの地面に仰向けに倒れ込んだ。

 次の瞬間再び轟音が響き渡り、振り返りかけた老人の体が横殴りに吹き飛ばされた――マスターキーの銃声だ。

 誰かがまだ動ける状態で、背後から銃撃を加えたのだ――残っているのはトウマとアヤノのふたりだけで、トウマはM240分隊支援火器で武装している。

 M240分隊支援火器はファブリック・ナショナル社製の軽機関銃だ――もともとの呼び名はFN MAG、七・六二ミリ口径だから今発砲したのはトウマではない。

 その一斉射はおそらく負傷しているからだろう、かなり弾着にばらつきがあったが、おおむね胴体附近に命中していた。この集弾性も、反動が軽く重量があるために連射時に銃を安定させやすいSR-16ならではだ――おそらく意識を失ったふりをしていたのだろう、香坂の背後で倒れていたアヤノが上体を起こし、ライフルとアンダーバレル・ショットガン、双方の銃口から硝煙をあげるSR-16ショートカービンを据銃した姿勢のままでにやりと笑う――ライフルの銃撃で隙を作り、続いてスラッグ弾に装填し直したマスターキーを発砲したのだ。

 合鍵マスターキーというのはもともとはナイツ・アーマメント社が開発したアンダーバレル・ショットガンの名称だが、今では取り回しを良くするために銃身やストックを切り詰めソード・オフしたショットガンやアンダーバレル・ショットガンの俗称として使われることも多い。

 CQBの現場においてはソード・オフもアンダーバレル・ショットガンも同じ使われ方をするからだ。

 ショットガンのバックショットは大雑把に照準して撃ってもそれなりの制圧能力を期待出来るのが特徴だが、球形の形状は空気抵抗が大きく射程距離が短いため、ジャングル戦ではともかく野戦ではあまり役に立たない。

 逆にいえば狭い間合いで戦うことになる室内戦では、非常に有用な火器だと言える――理由は簡単で、一発発砲するのが一ヶ所に十発集弾させるのと同義だからだ。

 照準さえ正確ならば、ショットガンは近距離では対物狙撃銃アンチマテリアルよりも危険な兵器だと言える。かつ照準が多少甘くても、撃ち出された散弾が標的に命中する可能性は高い。

 だがそれとは別に、ショットガンには利点がある――弾薬の種類が豊富であることだ。

 ショットガンの薬莢である樹脂製のショットシェルは、基本サイズが拳銃弾やライフル弾よりずっと大きい――それだけに仕込みがしやすい。

 スラッグ弾というのはショットガンから発射することを前提に作られた単体の弾頭で、弾頭自体がかなり大型になるために特殊な構造の弾薬が作りやすい。

 合鍵マスターキーという名称自体の由来は扉の蝶番を吹き飛ばすための専用のスラッグ弾、ハットン弾を使ってどんな扉も開けられるからだが、さらにはタングステン・カーバイト鋼の弾芯を仕込んだ軽装甲車の装甲の大半を貫通する徹甲弾や車一台を吹き飛ばせる高性能爆薬スラッグ、煙幕、あるいは擾乱ガス弾まで、選択の幅が極めて広い。

 無論、今回の任務でハットン弾になど用は無い――アヤノが持ち込んでいたのは徹甲弾かなにかだろう。

 横倒しに倒れている香坂の姿を横目に確認すると同時に、ネメアは行動を起こした。

 右腕は確かに骨折していたが、外骨格並みの強度を誇る強靭な皮膚が固定材の役割を果たして骨の位置はずれていない――激痛は伴うが、なんとか動かせる。

 ネメアは荊の刺刑Rosethorn Executeの柄を右手で握り直し、上体を起こし様に香坂の胴体めがけて刺突を繰り出した。

 いかにこの老人が怪物とはいえ、この剣にこめられた魔力強度は老人のそれを圧倒的に上回る。たとえこの男が相手でも、創傷を負わせて魔力を体内に流し込みさえすればそれで終わるはずだ。

 だが――上体を起こした香坂が左手の親指と人差し指で荊の刺刑Rosethorn Executeの刃を摘んで止める。それ以上突けもしないし離れもしない。まるで万力の様に固定された刃を引き戻そうと躍起になって、ネメアは選択を誤った。

 寝転がったまますさまじい勢いで撃ち込まれた踵に鳩尾を撃ち抜かれ、ネメアはその場で仰向けに転倒した――おそらく内臓がどれか破られたのだろう、風邪をひいたときの唾液の様な酷く苦くて熱い液体が喉の奥からこみあげてくる。

「が――はぁッ!」 喉頭にまで達した熱い塊をなんとか吐き出し、ネメアは立ち上がることも出来ないままその場で身を折って咳き込んだ。

「――ふむ?」 上体がずたずたにされたはずの老人が、立ち上がりながらそんな声をあげる――対ボディアーマー用のSS109――スティールコアを仕込んだ貫通能力の高い五・五六ミリ口径弾をフルオートで浴び、そのうえでスラッグ弾で胸郭を撃ち抜かれたにもかかわらず、香坂は平然と姿勢を整えてネメアを見下ろした。

「手癖が悪いの」 その言葉とともに、老人が剣を握ったままのネメアの右手を踏み潰す。

 四本の指が厭な音ともに砕けた。香坂が足元に転がった荊の刺刑Rosethorn Executeの柄を爪先で適当に蹴飛ばして、手の届かないところに放り出す。

 馬鹿な――驚愕に表情を崩すアヤノに向き直り、香坂はかぶりを振って口を開いた。

「なかなか良い腕をしておるな、娘よ。だが詰めが甘い。せめて頭か心臓を狙うべきだった。儂等の再生能力がどの程度のものかは試しておらぬから知らぬがの、急所をはずしては殺れるものも殺れぬよ」

 そんなことを言いながら、老人が左手に握り込んでいたものを足元に投げ捨てた。発射ガスで薄汚れた、巨大な弾頭。

 振り返ったときに掴み止めたのか。だとすると先ほどの銃撃で倒れたのは受け止めたときに勢いに負けただけで、弾頭は体に入っていなかったのだ。

 歯噛みするネメアの顔面に爪先で蹴りを入れてから、香坂はアヤノのそばに歩み寄った。左腕が動かなくなっているために弾倉交換に手間取っている彼女の髪を掴んで乱暴に持ち上げ、

「――のう、小娘?」 そう告げてアヤノの体を仰向けに放り出し、その下腹部にすさまじい勢いで踵を落とす。

「……ッ!」

 悲鳴もあげられないまま体をくの字に折って咳込むアヤノの腹に、香坂が爪先でヤクザ蹴りを入れる――その一撃で彼女の体を仰向けに転がすと、香坂は値踏みする様な視線でアヤノの姿態を嘗め回す様に見つめた。

「ふむ。なかなか悪くないの。先の悲鳴を聞いていた限り、声も悪くない――どうじゃ、若いの? そこの雑魚どもにこの娘を犯させるというのは。なかなか楽しい見世物になると思うがな」

 肩越しに背後を振り返ってネメアに視線を向け、香坂がそんなことを言ってくる――彼はそのまま頭上を振り仰いで声をあげた。

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