The Otherside of the Borderline 8

 

   *

 

 下腹部に剣を突き立てられたまま身動きを取れない彼の体に覆いかぶさる様にして、ドラキュラがかがみこんできている――吐き出す息は異様に血生臭く、歯が紅く濡れている。それがほかの者の血で濡れているのだと気づいたときには、異様に尖った犬歯がめりめりと音を立てて長く伸びてきていた。

 なんだ、これは――おそらく生まれてはじめてであろう未知のモノに対する純粋な恐怖に戦慄しながら、彼は小さくうめいた。

 だが考えるのは後回しだ。まずはこの状況を凌ぐ手段を考えなくてはならない。

 どうしてこの男が致命傷を負わせても、死なないのかはわからない。だが五体をバラバラにされても、まだ生きていられるとは思えない。

 それに、屋敷の中で襲ってきた使用人の何人かは殺すことが出来た――この男にだって、生命力の限界はあるはずだ。

 街の雑貨屋の中で死んでいた家族の屍や、ゲオルゲの首に残っていたふたつの傷跡――あれはこの異常発達した犬歯によってつけられたものだろう。

 ということは、父にそうした様に首に噛みつくつもりなのか――

 ならば今度は――

 その思考がまとまりきるより早く、大きく口を開いたドラキュラが、かかえ起こした彼の首筋にかぶりついていた。

 みぢみぢという強靭な皮膚が裂ける感触とともに、ドラキュラの牙が首筋に喰い込む。そのすさまじい激痛とともに首筋に触れるドラキュラの唇の蛞蝓の様なおぞましい感触に、彼は生まれてはじめて悲鳴をあげた。

「が――ぁぁぁぁッ!」

 指に力が入らない――せっかくドラキュラが最接近して、死角から刺す好機だというのに。まるで首筋から熱が抜けていく様な喪失感を感じながら、彼は指先から感覚が徐々に失われていくのを自覚していた。

 ドラキュラの唇の隙間から漏れて肌を濡らす血液量は、異常なほどに少なかった――そう、まるでドラキュラが血をすすってでもいるかの様に。

 自分の体をまるで子供が人形を壁に投げつけるかの様に軽々と振り回したあの人間離れした膂力といい、致命傷を幾度与えても死ぬこと無く向かってきたあの不死身といい、いったいドラキュラは何者へと成り果てたのだ?

 これではまるで――

 吸血鬼ノスフェラトゥ……?

 やがてドラキュラの喉から漏れる嚥下音が止まり、口の周りを血塗れにしたドラキュラが立ち上がった。

「さて――おまえは果たして私の下僕たり得るのか? ヴィルトールよ」

 なにを――言っているんだ? こいつは……

 馬鹿な――動かなくてはならないだろう。せっかくあの男が最接近していたというのに――

 思考が乱れて、うまく働かない。全身が冷たくなって、妙な寒気がする。手足の感覚はとうに消えて失せ、視界はまるで靄がかかった様にぼんやりとして、暗くなってきていた。

「なんの変化も起こらぬな。失敗か……」 幻滅した様なつまらなそうな口調の、ドラキュラのつぶやきが聞こえてくる。

「使える下僕になると思ったが……残念だ」

 その声を最後に、ドラキュラが踵を返したのだろう、足音が遠ざかっていく。


 ……死ぬ……?


 不思議と、死に対する恐れは無かった。あるのは、手も足も出なかった自分に対する怒りだけだった。多くの守るべき人々を虐殺し化け物に作り変えたドラキュラと、一矢報いることすら敵わなかった自分に対する怒りだけが、彼の思考を支配していた。


 ……奴にあと一撃……


 ……眼が見えない……


 ……せめてあと一撃……


 ドラキュラの足音はどんどん遠ざかっていく――否、耳が聞こえなくなってきているのか。眼はとうに見えず、思考も薄れていく。それはまるで、冷たく深い湖の底に引きずり込まれていくかの様で――


 ……力……


 ……力がほしい……


 あとほんの一分間動けるだけでかまわない。そのあとでなら、どんな苦痛を味わって死ぬことになってもいい――あのドラキュラの傲慢に見下しきった顔を、恐怖に引き攣らせてやれるだけの力。それだけでいいのだ――力を。


 せめて――せめてあと一撃!


 力を!





 ――オオオオォォォォォォォォォォッ!





 次の瞬間周囲に響き渡った雷鳴のごとき轟音が自分の喉から発された咆哮だということを、彼は一瞬遅れて自覚した。

 意識は一気に鮮明になり、腹に突き刺さった長剣の激痛はもはや無い――ただ異物感だけが残っている。彼は手を伸ばして刀身を掴み、長剣を引き抜いて投げ棄てた。

 折れたはずの左腕も潰れたはずの眼も踏み砕かれた右拳も、何事も無かったかの様に機能している――ラルカに父祖の剣で穿たれた腹の傷も、もはや痛みは感じない。大量出血による嘔吐感も、脳震盪による眩暈も無い――まるで傷など最初からただのひとつも負っていなかったかの様だ。地面の上で体を起こし、彼は長剣の柄を握って剣を拾い上げた。

 ドラキュラが足を止めて振り返っている――こちらに視線を向けたその表情が、慮外の事態に直面した驚愕に彩られていた。

「成功した――のか?」

 そんなつぶやきを漏らすのを無視して立ち上がり、彼は地面を蹴った。

Aaaaaa――raaaaaaaaaアァァァァァァ――ラァァァァァァァァッ!」

 その挙動に、ドラキュラが身構える――耳元で大気が渦を巻いて音を立て、先ほどまでとは比較にならないほどの速さで景色が流れる。そして次の瞬間には、彼はドラキュラの間合いを侵略していた。

「……ッ!」 ドラキュラが小さなうめきを発するのが聞こえる。彼は腰に吊った長剣の柄に手をかけ、引き抜く暇は無いと判断したか、鞘の吊り金具を引きちぎって鞘に納めたままの剣を翳して彼の一撃を受け止めた。だがそこで剣が限界にきたのか、彼の手にした剣の刀身がぼろりと折れる。

 まあ、ドラキュラが彼を串刺しにするのに使ったこの剣の刀身は、もとよりボロボロだった――負け戦で補給も無いまま、さんざん酷使された剣なのだから無理もない。ろくに手入れをする暇も無かったはずだ――飛び散る鋼の砕片を見ながら、そんなことを考える。

 自分でも驚くほど思考が早い――次の瞬間には、彼はこちらを弾き飛ばそうと振るわれたドラキュラの剣鞘の尖端から逃れて数歩ぶん一気に後退していた。

「なるほどな――成功したのではなく、おまえもまた私と同じものだったということか」 わけのわからないことを、ドラキュラがなにやら得心いった様につぶやいている。

「ふん。これほどの力を持ちながら、従えられぬか。惜しいことよ」

 そのつぶやきを無視して、彼は剣を投げ棄てた。左腕に喰い込んだままになった変形した手甲を毟り取って手近な茂みの中へと放り棄て、水平に右手を翳す。

 彼の足元で水音が鳴る。次の瞬間、ドラキュラの表情が驚愕に罅割れた――彼の足元に出来た、人間数千人分もの量の血の池を目にして。

 そう、血の池だ――この屋敷で、否、ブカレシュティの領下で死んでいった者たちの血、血、血。

 階段を、勾配を、――丘の小路を流れ続けてここまで集まってきた、ブカレシュティに住んでいた平民たちの血液。

 ごぼりと音を立てて、足元に生じた血の池の水面の一点が盛り上がった。固体化したわけではないのか表面を細かく震わせながら、まるで石筍の様に腰のあたりまで盛り上がったその血塊に手を伸ばす。

 一瞬の躊躇も無い――これは俺のものだ。そんな確信をいだいてぬるりとした手応えとともに血の中に手を差し込むと、指先に固いなにかが触れた――それが剣の柄だと理解するより早く、握り締めて血の中から引きずり出す。

 血塊の中から取り出したのは、黒い刀身の長剣だった――柄も刀身も一体で出来ていて、中ほどから若干湾曲している。金属で出来てはいないのか、その刀身は光を吸い込む様な漆黒でいささかの照りもない。

 剣の鋒が引き出された瞬間、盛り上がっていた血塊が途端に支えを失ったかの様にべしゃりと潰れ、血の池は地面へと染み込んでいき――

 そして――周囲に無数の絶叫が響き渡った。

 ギャァァァァッ!

 ヒイイイィィィッ!

 アァァァァァァァッ!

「オオオォォォオオオッ!」

 喉も割れ果てよと、絶叫する――彼はそのまま、血の中から現れた長剣を手に地面を蹴った。

 そのときになって、ドラキュラが手にした長剣の鞘を払うのが見える――銀色の刀身が月光を照り返し、それが正面から視界に入って一瞬目がくらんだ。

 重い風斬り音とともに、ふた振りの剣の刀身が激突する――長剣の物撃ちが噛み合い、火花を撒き散らしながらがりがりと音を立てた。

 ドラキュラが力ずくでこちらの体を弾き飛ばす――よりも早く、彼は自分から後方に跳躍してドラキュラの繰り出した斬撃の軌道から逃れていた。

 数歩ぶんの距離を空けて、着地――

 ドラキュラがこちらの後退に合わせて間合いを詰め、追撃を仕掛けてきている。

 歴戦の勇者であるドラキュラの一撃は、さすがに速い。先ほどまでであれば、いつ攻撃を繰り出したのかさえわからなかっただろう。だが――

 だが――読める。軌道は見える――先ほどまでの様に光が爆ぜるかの様な圧倒的な速さには感じない。そのままの軌道であれば、こちらの右脇から入って左肩口へと抜ける逆袈裟に近い軌道の一撃。

 見えさえすれば、彼にとっては遣り様はいくらでもある。先ほどまでは無理だったが、今なら――

 斬撃を繰り出した右手の手首を掴み止められて、ドラキュラの表情が驚愕にゆがむ。唇をゆがめて笑い、彼は左手でドラキュラの右手首を捕まえたまま右手で保持した漆黒の曲刀の鋒をドラキュラの下腹部を狙って突き込んだ。

 ドラキュラが左足をステップし、左半身に体を開いてその零距離の刺突を躱している――こちらの右手首を捕まえようと左手を伸ばすより早く、ドラキュラは彼の頭突きを顔面に喰らって小さくうめいた。

 互いの脚が交わるほどに近接した間合いからの頭突きをまともに喰らって、ドラキュラが一瞬ではあったが体勢を崩す。続いて左腕で押す様にしてドラキュラの体を突き飛ばして間合いを離し、自分も一歩後退しながら――

 ドラキュラが小さく毒づいて後退し、同時に上体を沈めて、繰り出した廻し蹴りを躱す。

 躱しながらも再び踏み込み、ドラキュラが軸足を狙った低い軌道の斬撃を繰り出した――だが、遅い。

 そもそも――白兵戦で彼に挑むこと自体が愚の骨頂なのだ。先ほどまでならともかく、条件が同じ今は――

 ドラキュラの繰り出した斬撃は地面を浅く削るだけに終わり、同時に体の回転をそのまま利用して繰り出した軸足を蹴り足にした後ろ廻し蹴りが、ドラキュラのこめかみを襲い――

 左手で蹴り足の踝を掴み止められている。彼自身が先ほどやった様に長剣を突き込もうと、ドラキュラが右手で保持した長剣の柄を握り直す――当然ながら蹴り足にしていた右足首を捕まえられているので、一本足になっているぶん先ほどのドラキュラよりも条件は悪い。

 だが――

 逆手に握り直していた漆黒の曲刀の鋒を顔面を狙って真っすぐに突き込まれて、ドラキュラは捕まえていた足首を放して後退した――判断は悪くない。捕まえるのは大きな成果だが、こだわりすぎても仕方無い。

 ふっ――鋭く呼気を吐き出しながら、ドラキュラが前に出る。

 しっ――歯の間から息を吐き出しながら、彼も前に出た。

 苛烈な衝突音とともに、双方の保持した剣の物撃ちががっきりと噛み合う。ドラキュラのほうが体格に優れるぶん純粋な膂力では上なのか、彼は押し負けて吹き飛ばされ――るより早く自分から後退した。単なる力比べなら、身長で拳ひとつぶん上回るドラキュラと彼では勝負にならない。力勝負など挑むだけ無駄だ――速度と精度を以て翻弄してはじめて、彼の術理は真価を発揮する。

 だが着地するよりも早く、ドラキュラは追撃を放ってきた――続いて繰り出された横薙ぎの一撃は、この体勢からは防げない。

 そう判断して、彼はドラキュラの踏み出した前足の膝を思いきり踵で踏み抜いた。

 その反動を利用して、後方へと跳躍する――ドラキュラは踏み出した膝を蹴り抜かれて体勢を崩し、長剣の鋒は乱れた軌道で虚空を引き裂いて、彼の眼前の空間を横一文字に割っていった。

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