The Otherside of the Borderline 7

「環か」

「はい」

 どこからともなく返事が返り――同時に一瞬ではあったが吹き荒れる強風が完全に止まる。振り返った視線の先で黄金色に輝く粒子が渦を巻き、一瞬ののちに小柄な金髪の少女が虚空から溶け出す様にして姿を現した。

 硝子細工の様な儚げな雰囲気で、幼い見た目にも関わらず妙な落ち着きも感じさせる。特異なのは、身に着けた重ね着の衣装のお尻のあたりから金色の毛並みに覆われた九本の尾が伸びていることだった。あらためて振り返って見遣ると、尾と同じ色の髪の中からも尖った獣の耳が生えている。

 明らかに、人にあらざるものだ。

 虚空から姿を見せたその少女は鋼板と鋼管、クランプを組み合わせて作られた工事用足場を物珍しげに見回していたが、やがて腰のあたりの高さの鋼管――落下防止用の安全帯のフックをかけるためのものだ――に手を添えて、陽響に向かって口を開いた。

「隔離区画の結界の構築が終わりましたわ。ちょっと早いですけれど――あとは『式』に霊力を流し込めば、それで結界は起動します」

「わかった」 陽響はうなずいて、肩越しに振り返った。

「月之瀬は、見つかったか」 その質問に、環が上品な仕草でかぶりを振る。

木の蔦アイヴィーはまだ目標を捕捉していません。ですがじきに発見すると思います」

「そうか――どうした?」

 何事か言いたげに口ごもっていた環と呼ばれた少女が、やがて口を開く。

「よろしいのですか? 姉さまをこの作戦に参加させて」

「正直言って俺も気が進まない。だが本人が聞かないから仕方無い――悪いが環、美音の監視を怠るな。必要が生じたら、作戦行動を放棄してでも美音の護衛に回ってくれ」

「はい」 陽響の言葉に、少女が従順にうなずく。

 空で輝く星に視線を戻したとき、不意に背後で環が声をあげた。

「あら?」

「どうした」

 肩越しに振り返ると、遠くを走る高速道路に視線を向けていた環がこちらに向き直って、

「今、かなり離れた場所ですけれど――凄い力が通りましたわ。魔力強度だけなら、わたくしとそう変わらないかもしれません」

 その言葉に眉を顰めて、陽響は再び背後を振り返った。

「なんだって?」

「大丈夫、すぐにわたくしの検索範囲からは出て行きましたわ。ここからかなり離れた場所に高速道路がありますから、たぶんそこを通過したのでしょう」

 アイン・ソフ・アウル――刃も鍔も無い柄だけの剣を手にした少女が、はるか彼方に視線を向けてそう答えてくる。その視線を追って俯瞰すると、数キロ離れたところに高速道路を通るヘッドライトの河が見えた。

 ならば当面の作戦の邪魔にはならないか――胸中でつぶやいて、彼は腕時計に視線を落とした。

 作戦開始予定時刻までは、まだ三時間以上ある。

 環の展開した隔離結界は、特定の帯域の音声や光、振動が媒体中を伝播するのを阻害するものだ――ありていに言ってしまえば、銃声などの大きな音や光、地中を伝播する振動などを遮断して、外部に漏れない様にする結界である。

 同時に内部にある物の検索機能も織り込んであるので、環には内部で移動しているものを手に取る様に検知出来る。だがそれだけに内部で大量の人間が動き回っていると処理が煩雑になり、内部状況の把握にも特定の個人を探すのにも手間がかかるので、作戦は午前二時――巷の人々の大部分が寝静まったころに開始する予定だった。

 それに合わせて、外部から結界内への一般人の侵入を防ぐ、人払いの術を展開する――それで一般人の大半は、彼らの作戦行動に気づかなくなるはずだ。

 その時間であれば、ことによるとターゲット――月之瀬将也も眠っているかもしれない。

 知り合いの筋から得た情報によると、吸血鬼というのは二十二時から午前二時までが活動時間のピークなのだそうだ――考えてみれば当たり前の話で、品定めの簡単な人の多い繁華街は午前零時を過ぎるとめっきり人がいなくなる。それを過ぎると、今度は民家を個別に襲う様になるのだが。

 月之瀬将也は基本的には、昼間でも屋外で行動出来る。だが、上位個体によって注ぎ込まれた魔素の影響で昼間は能力が低下し、日光を浴びると消滅はせずとも苦痛は伴うらしい。なので、出来れば襲撃は昼間に行いたかった――周辺被害がどの程度になるか想像もつかなかったので、考えるまでもなく断念せざるを得なかったが。

「環、周囲の索敵を頼む。俺は少しあたりを見て回ってくる」

「わかりました。お気をつけて、兄さま」 少女の声を最後まで聞かぬまま、陽響は鉄骨の上から身を躍らせた。

 

   †

 

 マーチ、クラウン、スープラ、ベンツのCクラス――通常車線と追越車線を縫う様にして、次々と車を追い抜いていく。

 吸排気機械制御式デスモドロミックの一リッターVツインエンジンが、スロットルの開放に合わせてうなりをあげ――すさまじい勢いで眼前に迫ってくる高速道路の防風壁を見ながら、アルカードは唇をゆがめて笑みを刻んだ。あくまでもスロットルは戻さないまま、腰の位置をずらして車体を寝かしこむ――タイヤが有効な接地面積を保っていられるぎりぎりまで車体を倒しこむと、ステップのバンクセンサがアスファルトと接触してがりがりと火花を散らした。

 サーキットと一般道では路面の摩擦係数が違うので、サーキットで走行会をやるときの様な無茶は出来ない――だがだから出来ることもある。

 ほんのわずかだがグリップを失った後輪がずるりと滑って、車体の角度が変わる――そのときにはすでに車体のバンクは元に戻り始めていて、そのスリップは車体の向きを若干変える結果になった。

 わずかにスロットルを戻して後輪のグリップを取り戻し、再び加速し始めて――かすかに眉を顰める。

 今のは――

 だが疑問はとりあえずサービスエリアまでお預けにすることにして、アルカードは加速に専念した。

 どのみちサービスエリアまでは、あと二キロ――この速度なら一分もかからない。

 十秒もしないうちに『あと二キロ』の表示が通り過ぎ、アルカードは若干速度を落とした。

 サービスエリアの分岐に入ったところで、四十キロ程度まで速度を落とす――さらに徐行して、アルカードは駐輪場にモンスターを近づけた。もっとも、別に休憩するつもりがあったわけでもない――ただ単に車が来ないから、落ち着いて考え事が出来るというだけだ。

 バイクを止めて、少しだけ考え込む――今のはなんだ?

 隣に駐車されたCBR900RR Fire Bladeのテールランプに視線を投げながら、アルカードは首をかしげた。

 数キロほど離れた場所に、高位神霊クラスの――多神教においては神と位置付けられる霊体と同レベルの、凄まじい魔力を感じたのだ。

 凄まじい魔力だった――その気になれば、一帯を焦土に変えることなど難無くやってのけそうなほどの、圧倒的な魔力。

 何者だ?

 以前北海道のツーリングでキャンプ場に泊まったとき、大型のムカデの姿をした土着の神様とやらを殺したことはあるが――それとは比べ物にならないほどの、すさまじい魔力だった。

 どうする? 探りを入れて殺しに行くか?

 そんなことを考えてから、彼はかぶりを振った――魔力の質に堕性や悪意が感じられなかったから、恐らくその必要は無いだろう。

 もうひとつ、戦っている様な気配の動揺は感じられなかったが、おそらくそれと一緒にいたもうひとつの気配――これもどうにも人間とは違う気がする。なにかいる様な――

 とはいえ、特に戦闘を行っている様な気配でもない――害が無いなら介入する必要も無い。そう考えて、アルカードはその気配のことを意識から消した。

 さて、高速に乗ってから十分が経過している。

 そろそろ急ごう――目的地に着いても、訪問相手が寝てしまっていては話にならない。

 

   †

 

 ベッドの枕元に置いた腕時計が、就寝時間を告げるアラームを鳴らす。フィオレンティーナはそれを見遣ってから、テレビのリモコンに手を伸ばした。

 リディアたち姉妹は、すでに自室へと戻っていた――水道とガスがきていないので不便なのは事実なのだが、この部屋で三人寝るのは到底無理そうだったからだ。

 ヴァチカンの状況やほかの友人たちについてもう少し話を聞きたかったのだが、ふたりとも時差ボケのせいで欠伸を連発する様になってきたので、もう睡眠を取る様にと勧めたのだ。

 自分もそろそろ眠ったほうがいいのかもしれない――明日は仕事がある。そう考えてから、フィオレンティーナはそこで思い出した――アルカードに借りていたお金を返さなければならない。

 先日までは着替えも無いし洗濯も出来ない様な有様だったので、仕方無くアルカードにお金を借りて着替えを買ったり、家電品を買いそろえたりしていたのだ――『主の御言葉』に私物を置きっぱなしにしていたからだが、今回持ち帰った私物の中に着替えの下着も私服もキャッシュカードもトラベラーズ・チェックも全部入っている。

 彼が出した金額は合計で六十八万円。二ヶ月ぶんの給与――約百二十万円を日本円に換金して持ってきてあるので、これであの吸血鬼に対する借りを無しに出来る。

 リモコンを放り出して財布に手を伸ばしたとき、消したはずのテレビが再び映像を映し出した。どうやらベッドの上に放り出したときに、たまたま電源ボタンに圧力がかかったらしい。

「――では次のニュースです。田中真●子元外相が鳥取県米子市内で開かれた民●党の演説会で、アルツハイマー患者を引き合いに出し中国へのコメ輸出を奨励する発言をした麻生○郎外相を同じ患者に例えて批判した問題で――」

 ニュースキャスターの男性が原稿を読み上げている背景に、分割された男女の写真が表示されている――どちらが田中真●子でどちらが麻生○郎なのかは知らないが、太郎というのは男性名だから男性のほうが麻生○郎なのだろう。

「それでは次のニュースをお伝えします。茨城県日立市に端を発した、連続殺人事件の続報です。徐々に犠牲者が首都圏に移りつつあるこの事件について、すでに県内で被害者が出ている茨城・神奈川両県警、ならびに警視庁は――」

 その言葉に顔を上げて、フィオレンティーナはテレビに視線を向けた。昼間空港へ出かけるときに、検問を張っていたあの警察官が言っていたあの事件だろう――事件のことはアルカードの部屋に置いてあった今朝の朝刊に詳しく記載されていた様だが、フィオレンティーナにとっては古代文字も同然だった。

 あの警官が言うには――被害者は全身の血液を抜き取られ、いくつかの死体は収容先の病院から無くなっていたという。ここ三十時間ほどの間に数十人規模の行方不明者が出ていることは、フィオレンティーナもニュースの内容で知っていた――警察が掌握しているだけで、だ。

 子供ならばともかく、大人ならば一晩帰らなかった程度で警察に通報したりはしないだろう――家族の方針やひとり住まいの単身赴任者に独身者、普段から仕事や遊びであまり家に帰らないケースも考えると、実際の行方不明者数はさらに跳ね上がるに違い無い。

 無論、ただ行方不明になった例もあるだろう――どこかで蒸発することはよくあることだ。だが、言うまでもないことだがこのニュースでやっているのは茨城県と東京の間だろう――それに関するニュースなのだから当然のことだ。

 聖堂騎士の職務として、人間に害をなす吸血鬼がいるのならば斃さねばならない。問題は、吸血鬼がどこにいるのかまったくわからないということだった――理由はふたつある、ひとつは立花深冬が警視庁から姿を消した時点で、実質的に特殊現象対策課が機能しなくなったことだ。これによって、警察の組織力が使えなくなった。

 ふたつめは、日本はヨーロッパほどにヴァチカンの影響力が及ばない。日本人はあまり他人の宗教を気にしないし、過去の切支丹弾圧や廃仏毀釈、八百万の神々を排して仏教を広め統治に利用したという歴史のせいだろう、他人の信仰に介入しない傾向が強い――無論、カルト宗教に属する連中の中には例外もいるだろうが。

 結果、ヴァチカンの最大の情報供給源である信者の報告が、日本ではそれほど機能しないのだ――無論、中国などの共産圏ほどではないが。

 『主の御言葉』に滞在していたとき、柳田司祭は――日本国内に滞在するすべての聖堂騎士を監督する権限を有するはずのあの司祭は、この事件について触れなかった。

 それはつまり、ヴァチカンもなにも掴んでいないということなのだろう。

 フィオレンティーナはしばらく考えてから、立ち上がった――出来ることならあの吸血鬼に頼みごとなどしたくないが、今現在自分の周囲で一番情報を持っているであろうアルカードに聞かない手は無い。

 少なくとも、この街は彼の縄張りなのだ――近隣についても情報は持っているはずだ。

 彼から情報を引き出し、そのまま吸血鬼を殺しに行く。そう考えて、少女は玄関へと足を向けた。

 サンダル――もともとはアルカードの部屋にあったものだが――を履いて部屋の外に出る。

 サンダルは底が木製なので、歩くとカランカランという音が響いた――ゲタという日本のサンダルを履いて歩くと、きっとこんな音がするのだろう。通路の天井に取りつけられた蛍光燈に、蛾と蚊が群がっている。一緒に取りつけられた誘蛾燈が、時折ばちっという音を立てていた。

 アルカードの部屋の扉の前に歩み寄って、チャイムを押す――不在時はこちらに連絡してください(と書いてあるらしい、アルカードが言うには)という貼り紙を見ながら、彼女は家人の反応をうかがった。だが、待てど暮らせど反応は無い――焦れて電気のメーターに視線を向けると、ほとんど動いていなかった。

 寝ているわけではないのだろう、あの吸血鬼はいつも深夜零時くらいまで起きている。たいていこの時間帯になると、テレビを見るか音楽でも聴きながら、ひとりで優雅に酒を飲んでいるのだが。

 となると――出かけてる? 最近めっきり乗らなくなったらしい――仔犬を飼う様になってから休日でも長時間家を空けられなくなったからだ、もちろん――オートバイとこんな時間から戯れにでも行ったのだろうか。それは可能性としてはありうることだったが――

 建物の裏手に廻り込んでみると、リビングの照明は落とされていたが廊下の照明は点けたままになっているのがわかった。

 三匹の仔犬たちがリビングを縦横無尽に走り回っている――だが、肝心の吸血鬼の姿はどこにもない。

 彼の部屋の窓から中を覗き込んでみても、誰もいない。

 と――窓のそばに置いてあるファクスが動いているのが見えた。アルカードの部屋にはほとんど使わないものの、黒い固定電話が置いてある。初日によくよく見てみたが、メーカー名も型番も刻印されておらず、ファクス機能を備えているらしい。

 ただ、あの吸血鬼だって昼間はほとんど部屋にいないのだから、電話回線を引いていても使い道はインターネットとファクスくらいのものだろう。

 そう考えたとき、折しもファクスが吐き出しつつある用紙の内容が視界に入ってきた。

 誰かの身上書らしい――ファクスの機械がそれほど新しくはないものなのだろう、目の粗い写真は、それでも掲載されたバストアップの顔写真が自分のものだと読み取ることは出来た。

 わたしの身上書……?

 胸中でつぶやいて、フィオレンティーナは眉を顰めた。あの吸血鬼が、どうして自分の身上書など必要とするのだろう? 認めたくはないが身近にいるのだから、直接聞けば済むだろうに。そこで彼女は、その書類の内容に気づいた――聖堂騎士団の身上調査書は病歴などの身体データと経歴、参加作戦の履歴で構成されているのだが、送信されてきたのは経歴、特に彼女の子供時代に関する部分だけだった。

 あの吸血鬼が自分の身上書をほしがる? 理解出来ない行動に、フィオレンティーナは眉根を寄せた――しかも自分が聖堂騎士団に入る前の、まだ子供だった時代の身上書だ。

 そんなものを手に入れてどうしようというのか――そんなことを考えたとき、視界が不意に暗くなった。

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