Vampire Killers 10

 

   *

 

「――それで、どうすればいいんですか」

 エンジンをかけたままのライトバンの運転席に乗り込んで、フィオレンティーナはそう尋ねてきた。アルカードはブレーキペダルを指差して、

「俺が合図したら、ブレーキを何度も踏んでくれ。そのあと、俺が声をかけるから、そうしたらブレーキを三回踏んで止めてくれ。踏んだままでいい。しばらくしたら、踏んでる抵抗が無くなると思う――そうしたら離していい。そのあとで、俺がもう一度合図するから、また踏んでくれ。これを繰り返す。いいな?」

 承諾したしるしにフィレンティーナがうなずいてみせたので、アルカードは助手席側のリアフェンダーのほうへと歩いていった。

「さて、と」 はずしたままのタイヤを爪先で押しのけて、ブレーキ機構の裏側を覗き込む。

 ブレーキキャリパーの裏側に、ゴム製のキャップが取りつけられた小さなねじが顔を出している。

 ブレーキのシリンダーに直接取りつけられたそれはブリーザーバルブと呼ばれる部品で、通常二面幅が八ミリか十ミリ、もしくは十一ミリの駆動用六角ボルスターがついている。

 ブリーザーバルブはブレーキの端末部分に打ち込まれていて、これを緩めると内部に充填されたブレーキフルードが出てくるのだ。

 ブリーザーのボルスター部分はボルトの頭と同様にボックスレンチやスパナで駆動するための、ただの六角柱だ。ボックスレンチにしろスパナにしろ、奥まで入りすぎると抜けてしまう。

 先端にチューブなどをつないで作業する都合上、ソケットレンチは使えない――正確にはそういった製品もあるのだが、噴き出してきたブレーキフルードを廃油缶に導くためのビニールチューブがなにかの拍子にはずれることがあるので、ソケットレンチを使った作業はする気になれない。

 結果、ボルスターに引っかかってそこで止まり、奥まで入り込まない様に作られた特殊な形状の専用のボックスレンチを使って作業することになる。

 長さは十二、三センチほど、短いボックスレンチのボックス部分をボルスターに掛けてから、先端に穴の開いたキノコの様な形状をした部分に細いビニールホースを差し込む――反対側の端末は青を基調とした『ワコーズ』のブレーキフルードの空き缶に繋がっていた。

 ブリーザープラグを軽く緩めてから、アルカードは声をかけた。

「いいぞ、踏んでくれ」

 その言葉を合図に、ブリーザーの先端から茶色く変色した液体が噴出してきた。

 使い古しのブレーキフルードだ――ブレーキフルードというのは油圧装置の一種であるブレーキ機構の作動油のことで、通常はグリコール系の液体を主素材としている。グリコール自体アルコールの一種で、そもそも『油』ではないため、作動油という言い方自体が適切ではないのだが。

 ハイブリッド車や電気自動車も含めた車やオートバイの主要なブレーキ機構は油圧によって動作するものが主流で、ライトバンもその例に漏れない――ブレーキの作動時に発生する摩擦熱や、配管がエンジンの近くを通っている場合はエンジンの発生する熱もだが、そういった熱によってブレーキフルードはあっという間に劣化する。実際油圧式クラッチを採用したオートバイのクラッチフルードは、ブレーキフルードに比べて劣化の速度がかなり早い。

「次、踏んだまま止めてくれ」

 五、六回踏んだところで、アルカードはフィオレンティーナを止めた――ブレーキ機構内に封入されたブレーキフルードの容量というのは本来、液漏れでも起こさないかぎり変わらないものだ。

 ブレーキフルードのタンクに残ったフルードが減っているということはブレーキパッドやシューの摩擦材が減って、そのぶんキャリパーやドラムシリンダーのピストンが突出し、そちらに残るフルードが増えているのだ。

 ブレーキの摩擦材を新品に交換してピストンの位置が新車と同じ状態に戻れば、マスターシリンダー部分のブレーキフルードの容量も元に戻る。

 それがばんばん出てきているということは、ブレーキフルードを溜めている車体側のリザーブタンクの内容量がどんどん減っていることを意味する。

 アルカードは一度ブリーザーのねじを締めてから車体の前に廻り込んで、ブレーキペダルに直結したマスターシリンダーという部品の上部に取りつけられた樹脂製のリザーブタンクを覗き込んだ。

 油圧装置は基本的にパスカルの定理によって動作するので、運転手が直接操作するマスターシリンダーとキャリパーやホイールシリンダーのピストンの受圧面積の差が大きいほどブレーキの力は大きくなる。

 そのためブレーキキャリパーなどのピストン部分の直径はかなり大きく、突き出し量が大きくなってキャリパー内の空間が大きくなると見かけ上のブレーキフルードの減りはかなり多くなる。

 あまり減りすぎてタンク内のブレーキフルードが底をつくと、シリンダー内部に空気が入り込んでブレーキが効かなくなる――内部に入り込んだ気泡を圧縮するためにブレーキを踏む力が浪費され、実際にピストンまで圧力が伝わらないからだ。

 まあ、たいていはそうなる前に摩擦材が完全に無くなってブレーキが効かなくなるだろうが、今の作業の様にブレーキ液の交換中にフルードが底をついてしまっても同じ状態になる。なので、リザーブタンクの液量には常に気を配っておく必要がある。

 リザーブタンクに残ったブレーキフルードの液量がかなり減っている――足元に置いておいた『ワコーズ』のブレーキフルードを取り上げて、中身をタンクの中へと注ぎ込む。

 タンクの中がいっぱいになったところで、アルカードは手を止め、ブレーキフルードの缶の栓を締めた。タンクの蓋も元に戻す――リザーブタンクの蓋をせずにブレーキを動作させると、配管内から戻ってきたブレーキフルードがリザーブタンクから噴き出してくることがあるのだ。グリコール系のブレーキフルードには塗装を冒す性質があり、そこらに附着すると悲惨なことになる。

 タンクのキャップがちゃんと締まっているのを確認してから、アルカードはまたもとの位置へ戻ってブリーザーを緩めた。

「踏んでくれ」

 フィオレンティーナが何度か踏んでいるうちに、やがて茶色く変色した液体は透明度の高い黄色みがかった液色へと変化する――配管内部のブレーキフルードが、新しいものに入れ替わったのだ。

 回数から考えて、まだいけるはずだ――が、アルカードは再び立ち上がって、マスターシリンダーのタンクにブレーキフルードを注ぎ足した。タンクの中身が足りなくなるとマスターシリンダーの中に空気が入り込んで、今までの作業が台無しになってしまう。

 液体の特徴は圧縮出来ないことで、この特徴が油圧装置に利用されているのだ――が、空気が入り込んでしまうと、空気の塊が圧縮されてブレーキ自体が効かなくなるのだ。この状態になってしまったら、エア抜きの作業を最初からやり直さなければならない。

 アルカードは再びタンクの蓋を閉めると、元の位置に戻った。

「よし、何度か踏んでから踏んだままで止めてくれ」

 その言葉に、フィオレンティーナが何度かペダルを踏んでから止める音が聞こえた。同時にドラムがカタカタと揺れる。

「止めました」

 フィオレンティーナの声にブリーザーを一瞬だけ緩めると、勢いよくブレーキフルードが流出してくる。

 すぐにブリーザーを締め直し、再び声をかける。

「もう一度」 それを何度か繰り返してから、アルカードは手を止めてブリーザーをきちんと締めつけ、ビニールホースとコンビネーションレンチを取りはずしてから、襤褸布でブリーザー周りを綺麗に拭き取った。

 ゴムのキャップをかぶせて、立ち上がる――それに気づいたのか、フィオレンティーナが声をかけてきた。

「さっき、突然ブレーキペダルが深く沈みましたけど」

 それを説明するのを忘れてたな、胸中でつぶやいて、アルカードはうなずいた。

 ブレーキを踏み込むと止まるのは、ブレーキの摩擦材が摩擦面と接触するまで押し出され、その移動量ぶんのフルードがマスターシリンダーから送り出されたからだ――それ以上は送り出し様が無いから、限界まで送り出した時点でペダルの動きが止まるのだ。

 ブリーザーを緩めればフルードに逃げ場が出来るから、ペダルは機械的な限界まで沈み込む――逆に言うとブレーキ機構に深刻な液漏れが生じたり配管内部に気泡が入ると、ブレーキは機械的な限界まで深く沈みこんで踏み応えが無くなる。

 ブリーザープラグを緩めるのはブレーキ配管に漏れが発生するのと同じ状態なので、ブレーキフルードの逃げ場が出来てペダルは機械的な限界まで踏み込める――したがって、それはまったく正常だ。

「ああ、いいんだ。それで正しい」

 そう答えてから、アルカードはライトバンの右後輪側へと移動した。

「でもこれ疲れるんですけど」 もうちょっと楽な方法無いですか?とフィオレンティーナが質問してきたので、アルカードはちょっと考え込んだ。普通に爪先で操作していると、この作業は確かに疲れる。

「踵で踏み抜く様にして操作すると疲れにくいぞ」

 そう答えてから、アルカードは右後輪のドラムを裏側から覗き込んだ。

 

   *

 

「着替えましたけど」 フィオレンティーナがそう声をかけると、テレビを見ていたアルカードが振り返った。

「似合ってるじゃないか」

「――なんですか、これは」 妙に楽しそうな表情でこちらを眺めているアルカードに目いっぱいの威嚇をこめた視線を向けて、フィオレンティーナは口を開いた。

「なにって言われてもな」 ソファーの背凭れに肘をかけてだらんとした姿勢で腰を下ろしたアルカードが腹立たしいくらいににこにこしながら、指先に引っ掛けたベレー帽をくるくる回してみせる。

「制服?」

「なにのですか」

 言いながら、フィオレンティーナは自分の格好を見下ろした――青と白と基調にした、涼しげな色合いの夏用のエプロンドレス。アルカードはというと背もたれにしなだれかかる様にしてその様子を眺めながら、心底面白そうにニヤニヤ笑っている。そのままひっくり返ればいいのに。憎たらしい笑顔を崩さないまま、アルカードは口を開いた。

「ここがアパートだって、言っただろう? 経営者のご夫婦がな、別にルーマニア料理のレストランをやってるんだよ。俺もそこで働いてるんだけど」

「それがどうしたんですか」

「ご夫婦が今、人手不足で困っててな」

 ……まさか。

「日本には働かざる者食うべからずって言葉があってな」

「まさか、わたしにそこで働けっていうんじゃ――」

「ご明察」 アルカードはそう言って、硝子テーブルの上にベレー帽を置いた。

「いやあ、助かったな――人手が足りなくてちょっと困ってたんだ」 突っ込みどころは山ほどあったがそれはあえて突っ込まず、フィオレンティーナは刺す様な眼差しでアルカードを見遣った。その視線をさらっと受け流し、アルカードが口を開く。

「ん? 厭なら別にかまわんぞ、ただその場合部屋は貸してやれないな――それに君、現状では一文無しだし教会にも連絡取れないだろ。路上生活のうえで行き倒れるのと食住つきで働きつつ、俺の監視を常時出来る環境で生活するのとどっちがいい?」

 答えはわかってるんだけどな――そう言わんばかりの口調で、アルカードは笑いながらフィオレンティーナの顔を見た。

「大丈夫、大丈夫――日常会話くらいはこなせるんだろう? 俺とご夫婦でちゃんとフォローするから、君は普通にバイトしてればいい」

「わたしはローマでアルバイトなんかしたこと無いんですけど」

 恨めしげなフィオレンティーナの言葉を軽く流して、アルカードが肩をすくめる。

「心配するな、別に君にコーヒー淹れろとは言わないから。ウェイトレスだけやってくれればいいよ」

 反論したい。反論したいが、アルカードの言うとおりだ――吸血鬼になりかけの自分が教会に帰れば、どんな扱いをされるかわからない。いくら夏の暖かい時期とはいえ、路上生活を繰り返していれば、じきに行き倒れるのが目に見えている。

 抗魔体質の効果は体調の影響を受けるから、栄養失調などで衰弱すれば吸血鬼化の進行は加速することになるだろう。

 かといってウェイトレスというのもどうか。懊悩するフィオレンティーナを面白そうに眺めながら、アルカードが先を続けた。

「あれだな、おじいさんたちにはもう新しいバイトが見つかったって言っちゃったしな――もし糠喜びになったら、ふたりともさぞかしがっかりするだろうな。きっとお嬢さんも、数日の路上生活の末におなかを空かして行き倒れた挙句に、巡回中のお巡りさんに連れてかれたりするんだろうな――」

 これである。アルカードはフィオレンティーナの良心と路上生活に対する恐怖心を針でつつくみたいにしてちくちくと刺激しつつ、

「俺もな、俺が殺されたら俺の雇い主とか困るしねえ。あの人たちパソコン使えないから、うちの店の経理とか発注とか、全部俺がやってるからなあ。経理に行き詰って株とかに手を出した挙句に変な詐欺とかに引っかかって自殺する様な羽目になったらいたたまれないし、どこかのお嬢さんに殺されたりはしたくないな――」

 そんなことも言ってくる。そこで言葉を切って、アルカードは上目遣いにフィオレンティーナを見遣った――フィオレンティーナは思わず半泣きになりながら、アルカードの提案を了承したのだった。

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