Vampire Killers 5

 

   *

 

 合成樹脂の様な材質の扉を開けて駐車場に出ると、普段は空いているスペースに店のライトバン――エンブレムの形状からトヨタ製だということだけはわかった――が前向きで駐車されていた。

 後輪側が持ち上げられて、タイヤが取りはずされている。アルカードの姿は見えないが、カチャカチャと音がしているので死角になっている場所にいるのだろう。

 車体の右側を覗いてみると、金髪の吸血鬼ははずしたタイヤの上に腰を下ろしてなにやら作業にいそしんでいた。

 もちろん、なにをしているのかは見当がつかない――八年ほど前に亡くなった父親は車いじりが趣味の人ではなかったし、そもそも若いころの事故で片目を失い、義眼を入れていたので運転免許自体持っていない。吸血鬼グリゴラシュに家族を殺され、そのまま聖堂騎士団に参加した彼女は、それ以降誰かが車いじりなどしている場面に出くわしたことも無かった。

 アルカードは小脇に置かれた抽斗式の工具箱の上に置いてあった青いビニール製のチューブ――WAKO'Sというロゴが入った青いビニールチューブに、『ブレーキプロテクター』という名称が印刷されている――を取り上げて中身をちょっと絞り出し、分解された部品の丸い板状の部分に塗りつけ始めた。

「……なにをしてるんですか?」

 声をかけると、アルカードは襤褸布で指先を拭いながら振り返った。

「ああ、おはよう――たいしたことじゃないけどな。ブレーキの部品を交換してる。ちょうどいいからブレーキフルードも交換しちまおうと思ってね」

「ブレーキフルード……?」 フルード――英語で油圧装置のたぐいの動作油とか動作液の意味だったと思うが。

「なに、ブレーキの動作油みたいなもんさ」

 フィオレンティーナの記憶が正しかったらしい――それ以上の説明をするつもりは無いらしく、彼は手元に視線を戻した。

「ところでお嬢さん――今からなにか予定あるのか?」

「ありません――けど、それがどうかしたんですか。貴方には関係無いでしょう」 棘のある返答に、アルカードが背中を向けたまま適当に首をすくめる。

「ま、そいつはそうなんだけどな。もし暇な様なら、あとでちょっと手伝ってくれないか――ブレーキフルードの交換は、ひとりじゃちょっと面倒でね」

 そんな言葉が、アルカードの私有車二台の間から顔を出した仔犬たちのほうへ歩いていくフィオレンティーナの背中を追ってくる――フィオレンティーナは黒いジープと赤いマスタングの間でマスタングのリアホイールにつながれた仔犬たちのそばにかがみこみ、かまってもらえそうな相手を見つけて尻尾を振っている仔犬たちの鼻先に指を差し出した。

 指先の匂いを嗅いでから舌で舐め始めたソバの顎の下を指先でくすぐってやりながら、

「なにをしろっていうんですか――貴方のやってる様なことを手伝えって言われても、わたしはなにすればいいかわからないですよ」

「なに、俺が声をかけたときに言った通りのやり方でブレーキを踏んでくれればそれで十分だよ――二回に分けなくちゃならないから、二度来てもらわないといけないが。どうせあと二十分くらいはかかるから、あとで呼びに行く」

「嫌だって言ったらどうするんですか」

「愛想のねえ女だな、君は」 アルカードがそう言って、盛大に嘆息するのが聞こえてくる。

「別に。ほかの暇そうな店子を見つけて頼むだけだ」

 

   †

 

 ブレーキドラムのバックプレートに残ったグリスは、摩擦材の粉がべっとりとくっついて真っ黒になっている。

 大雑把に襤褸布で拭い取ってから、パーツクリーナーを浴びせかける様にして吹きつけ、あらためてもう一度拭い取る。細々としたところに汚れが入り込むので、丁寧にやると時間がかかる――池上の父親が昔個人経営の整備工場で働いていたとき、女性の社長に急かされて清掃作業がおろそかになってばかりだったという。

 まあ、自分で作業をしない人間のいうことなどそんなものだろう。そんなことを考えながら、アルカードは手近に置いてあったハンディタイプの掃除機を手に取った。ドラムの内側にくっついた黒い粉を吸い取れるだけ吸い取ってから、足元に落ちた粉も吸い取る。それから、彼は続けてスプリングやアジャスターの汚れ落としに取り掛かった。

 アジャスターを分解して雄ねじ雌ねじともにねじ山の汚れを取り、グリスを吹きつけてねじを奥まで廻し入れる――簡単に緩む様でなければ意味が無いので、軽く入れるだけでいい。

 スプリングの粉もパーツクリーナーで洗い流し、アルカードは新品のブレーキシューを手に取った。

 短冊状の鉄板を弧を描く様にして曲げた、その外側に貼りつけられた摩擦材の角を落とし、軽く息を吹きかけて粉を吹き飛ばす。

 アルカードは横に置いた樹脂製のトレーに手を伸ばし、WAKO’Sのブレーキプロテクターを手に取った。ブレーキ鳴きの抑止などを目的とした、稠度ちょうどの高いグリスだ。

 固いグリスをバックプレートのシュートの接触面に、薄く塗り広げてゆく――シューはバックプレート全体に接触しているわけではないので、塗布するのはその場所だけでいい。

 と、塀のほうからがちゃっという開閉音が聞こえてくる――誰かがアパートの裏庭との間の扉を開けたのだ。人の気配に気づいたらしい仔犬たちが、にわかにそわそわし始めた。

「……なにしてるんですか?」

 扉をくぐって視界の端に姿を見せたフィオレンティーナが、そう声をかけてくる――ブティックの店員に見繕ってもらったらしい赤いTシャツにデニムのミニスカートといったいでたちだ。アルカードはいったん作業の手を止めて肩越しに振り返ると、

「ああ、おはよう――たいしたことじゃないけどな。ブレーキの部品を交換してる。ちょうどいいからブレーキフルードも交換しちまおうと思ってね」

「ブレーキフルード……?」 単語の意味がわからないのだろう、フィオレンティーナがそう尋ね返してくる。

「なに、ブレーキの動作油みたいなもんさ」 と、返事をしておく。

 ブレーキフルードはブレーキの動作液で、グリコールを主原料とするために厳密には『油』ではない――したがって動作『油』という言い方自体が実際には適切ではないのだが。

 そこまで詳しい説明をするつもりは無かったので、彼は手元に視線を戻した。

「ところでお嬢さん――今からなにか予定あるのか?」

「ありません――けど、それがどうかしたんですか。貴方には関係無いでしょう」

 作業の手を止めないまま投げた問いに対する答えの、最後の一言が思いきり刺々しくて辛辣だ――アルカードは適当に肩をすくめて、

「ま、そいつはそうなんだけどな。もし暇な様なら、あとでちょっと手伝ってくれないか――ブレーキフルードの交換は、ひとりじゃちょっと面倒でね」

 その言葉に対して――

 こちらに向けられた気配が、まるで犯罪者の意図を窺う様な気配だ。正直ちょっと傷ついたが、そう言っても彼女は信じてくれないだろう。

「なにをしろっていうんですか――貴方のやってる様なことを手伝えって言われても、わたしはなにすればいいかわからないですよ」

 そう返事をする声が遠ざかっている――仔犬たちがきゅうきゅう鳴いているところからすると、仔犬たちをかまうためにそちらに移動したのだろうか。

「なに、俺が声をかけたときに言った通りのやり方でブレーキを踏んでくれればそれで十分だよ――二回に分けなくちゃならないから、二度来てもらわないといけないが。どうせあと二十分くらいはかかるから、あとで呼びに行く」

「嫌だって言ったらどうするんですか」

「愛想のねえ女だな、君は」 盛大な溜め息に載せる様な口調でそう言って、アルカードは工具箱に手を伸ばした。

「別に。ほかの暇そうな店子を見つけて頼むだけだ」

 そう続けながら工具箱の抽斗を探り、目的のものを探し出す。

「どうする? 手伝ってくれるんなら、昼飯くらいは御馳走するけど」

 

   †

 

「どうする? 手伝ってくれるんなら、昼飯くらいは御馳走するけど」

 しゃべりながらも手は止めず、アルカードがそんなことを口にする。

 この吸血鬼、実は人手が足りないときには自ら厨房に立っていたりするので、料理の腕はなかなかだ――自分の作ったものが手抜きだったり失敗モノだったりするのが許せないタイプらしく、下拵えから調理まで、基本的に妥協を一切しない。自分で食べるぶんに関しても不味い物とかが許せないのか、時々管理人部屋を覗きに行くと、たまに練習がてら新作を開発している場面に出くわしたりする――ちなみに彼は、日本国内の調理師免許もちゃんと持っているらしい。

 時々賄いの料理を彼が作ったりもするのだが、フィオレンティーナにはそう指摘されなければそれがアルカードが作ったものか、それとも老夫婦が作ったものか区別がつかない――アルカードに言わせると、ひと口食べれば丸わかりなのだそうだが。

 アルカードの言葉を借りるならば、『味の方向性が違う』のだそうだ――フィオレンティーナにはさっぱりだが、老夫婦にはそれで通じているらしい。

 フィオレンティーナは腕組みして考え込んだ――暇なのは事実だし、現時点においてフィオレンティーナはヴァチカンの命令系統からはずれている。

 なにしろ、吸血鬼に噛まれているのだ――最悪処分される可能性がある以上、のこのこと教会に戻るわけにもいかない。

「ま、俺と差し向かいってのは嫌かもしれんがね。部屋での食事が全部食パン一枚って食生活よりかはましだと思うぜ」

 知られざる食生活をあっさり暴露しつつ、アルカードが仔犬たちに対してだろう、なー、と声をかけた。無論その意味がわかっているわけでもないだろうが、仔犬たちがいっせいにきゃんとひと声鳴く。

「どうして知ってるんですか!」

「ごみの分別チェックしてるのが誰だと思ってるんだよ」 フィオレンティーナのあげた大声に気だるげな口調でそう返事をしてから、アルカードは続けた。

「ちなみに以前、約一名誰とは言わんが、よれよれになったパンツをそのままゴミに出した女がいてな。それが原因で変態がつきまとった実績があるから、君もゴミには気をつけろよ」 そんなことを付け加えてから、アルカードはあらためて車の陰から顔を出したフィオレンティーナに視線を向け、

「否、嫌だったら別にいいよ――都合が悪いんだったらそう言ってくれ」

「いいえ、別にかまいません」

「そうか」

 手元に視線を戻し、アルカードが短く答えてくる。

 こちらの沈黙をどう取ったのか、アルカードは適当に肩をすくめ、

「じゃあ、あとで呼びに行くよ――ああ、よかったら犬たちを連れてって餌をやってくれないか?」

 

   †

 

「じゃあ、あとで呼びに行くよ――ああ、よかったら犬たちを連れてって餌をやってくれないか?」

 というアルカードの言葉に、フィオレンティーナが承諾を示してうなずいた。

「わかりました」 そう返事をして、少女がマスタングのアルミホイールのスポークにつないでいた犬たちを連れて去っていく。それを見送って適当に肩をすくめ、アルカードはスプリングの一本を使ってアジャスターをフロント側のシューに仮組みした。

 リア側のシューには、サイドブレーキを作動させるためのリンクが取りつけてある――結合を確実にするためにコイルスプリングを巻きつけられたワイヤーの先端をリンクに固定し、アクスルシャフトの下をくぐらせる様にしてバックプレートにあてがい、裏側から固定用のピンを差し込むのだ。バックプレートとシューには正しい位置にあれば穴位置の合う穴が開けられていて、裏側からここにピンを差し込むことが出来る。ピンの先端は平たく丸く、ちょうどご飯をよそうのに使うしゃもじの様な形状をしている――シューの固定はこのピンの突き出した部分に反力でシューを固定するためのスプリングと、スプリングを抑えつけるための皿状の部品を噛ませることで行われる。

 皿状の部品は、名前がなんというのかよく知らない――どうせメーカーによって違うのだから、あまり真剣に覚えても仕方が無い。

 皿の中心にピンの先端に合わせた長方形の穴が開いていて、ピンの先端を通してから九十度回転させることでロックするのだ。

 皿状の部品には長方形の穴と対角になる様にくぼみがつけられていて、そこにピンの先端が填め込める様になっている――くぼみにピンの先端を嵌めることで動きが規制され、不用意にはずれることは無くなる。

 フロント側のシューはまずシューの下端同士をつなぐ短いスプリングを引っかけて二個のシューを接続してから、下からぐるっと廻り込ませる様にして取りつける。このときにアジャスターの二股の部分を先に取りつけたリア側のシューに巧く差し込まなければならない。ダイハツやスズキの軽乗用車ならなんてことないのだが、ライトエースのドラムブレーキはアクスルシャフト先端部にじかにホイールを止める構造のためハブが邪魔になってやりにくいのだ。

 幸いにして、二股の部分は巧くシューの定位置の切り欠きに入り込んだ――あとはフロント側のシューを固定してから、スプリングを取りつけていけばいい。

 首尾よく一回目で成功したことに気を良くして、アルカードは鼻歌交じりにスプリングを取りつけた――強いスプリングだが、アルカードにとってはどうというものでもない。

 ちょうど丁字の形状をした専用の工具ではスプリングを定位置の穴の縁に引っ掛けることは出来ても、フック部分をきちんと穴に引っ掛けてことは出来ない――最終的にはマイナスドライバーかなにかで突いて、スプリングの端のフック状になった部分を穴に落とし込んでやる必要がある。

 アルカードは工具箱をあさって、年代物のマイナスドライバーを取り出した――軸もハンドルも先端もボロボロだが、両端が欠け角が丸まった先端部分の中央付近が三角形に削られている。

 三十年くらい使っていたおんぼろドライバーの先端を真ん中の部分だけ少しくぼませる様にグラインダーで削り、スプリングの端の部分を巧く咥え込んでずれない様に加工したものだ。

 先端を削り込んで作った三角の切り欠きの部分にスプリングのフックに近い部分を咥え込む様にしてドライバーをあてがい、そのまま膨らんだグリップの頭を軽く叩く。パンっという金属的な音とともに穴の縁に引っかかっていたフックがきちんと穴に嵌まり、それで取りつけは終了だ。

 シューの固定用のピン、スプリングのフックの引っかかり、その他の取りつけ状態を確認してから、アルカードはサンドペーパーでシューの表面を軽く磨いた。きちんと拭き取ったつもりでも、グリスなどの汚れは指紋などに入り込んで残っている。シューを固定する際にどうしても触ってしまうので、あとからきちんと落としておけばそれに越したことは無い。

 最後に息を吹きかけて細かな削り粉を飛ばしてから、アルカードはドラムを取り上げた。内側をサンドペーパーで研磨したドラムを、ブレーキ機構にかぶせる様にして取りつける。

 巧く入らないときは、シューの位置がずれているのだ――ドラムの位置とシューの位置が合っていないから、巧く入らない。そういうときは、シューを上下左右に何度か動かしてやればそのうち入る。

 ドラムをかぶせてから、アルカードはホイールナットを手に取った。センターキャップのあるホイールなので、袋ナットにはなっていない――片側がテーパー状になったナットを裏返しにして、ナットの面がドラムに接触するまで回していく。

 ナットの平面がドラムに接触し、ドラムが斜めに傾かなくなったのを確認して、アルカードは立ち上がった――ドラムはきちんと押さえてやらないと、クリアランス調整の際に手前にずれたり斜めになったりして正確に効きが確認出来ない。

 反対側に廻り込み、きちんと組まれていることを再度確認してから、アルカードは運転席に向かった。

 組み立て自体は終わったが、まだ間隙クリアランス調整が残っている――ドアを開け放って、汚れない様にパーキングブレーキのレバーに綺麗な布をかぶせてからリリースボタンを押したまま何度かレバーを引くと、車体後方からカリカリという音が聞こえてきた。

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