Vampire Killers 6
シューが押し拡げられるたびにオートアジャスターのねじが回転し、逆回転を防ぐためのラチェット機構が動作して隙間を自動調整しているのだ。
だが、それだけでは巧くいかない――交換の際はきちんと手で調整してやる必要がある。特に後輪駆動車の場合抵抗が大きく、判断が難しい。フロントタイヤが駆動するフロントドライブ車の場合はリアタイヤはフリーなので、調整がやりやすいのだが。
サイドブレーキのラチェット機構の作動音がカチカチと二回聞こえるまでレバーを引いてから、アルカードはメインスイッチを廻してキーをオンにした。その状態でブレーキペダルを片手で押し込み、もう一方の手でシフトレバーを操作する。レンジをNに入れてからメインスイッチを切り、アルカードは車体後方に廻り込んだ。
トラックのことは門外漢なのでアルカードにもわからないが、普通車であればパーキングブレーキのレバーを二ノッチ引いてドラムの回転が極端に重くなり、三ノッチ引いて完全に動かなくなれば車検は通るし実用上も問題無い。注意しないといけないのは、左右の効き具合の差を無くすためにクリアランスを出来るだけ均等に近づけなければならないことだ。
こうやってレバーやブレーキペダルを何度か動かせばある程度隙間は詰まるが、アジャスターのねじの加工精度からくる回転の重さの個体差や生産段階の摩擦材の厚みなどの個体差などにより、自動調整だけでは必ずしも左右の重さは均等にならない。また最適なクリアランスにも到底足りないので、最終的にはやはり手で作業する必要がある。
二ノッチ引いた状態で、ブレーキドラムを手で回転方向に動かす――回転は重いが、それはディファレンシャルを介して反対側のドラムが共回りしているだけだ。ブレーキ自体はまるで効いていない。
それはわかっていることなので別に気にせずに、アルカードは運転席に向かってパーキングブレーキを解除した。
ドラムをはずすと、少しではあるがアジャスターのねじが抜けてきている――こうしてねじが抜けてくると、当然ながらアジャスター全体の長さが変わる。そのぶんブレーキシューは外側に押し出され、それによって定位置が徐々に広がっていく――そうやってドラムブレーキは必要なクリアランスを確保するのだ。
さて――池上の話だと、BZ11のキューブなんかはラチェット機構が百二十ノッチ近く動作するまでクリアランスが確保出来ないそうだが。
これで、何ノッチぶん回ったのだろう。首をかしげつつ、アルカードはブレーキの調整ツールを取り出した。
とりあえずは二十ノッチくらいいってみようか。
先ほどそうした様にパーキングブレーキのラチェットを二ノッチ動作させたとき、まあ人並みの力で回れば問題無い。
ただし軽すぎてもまずい――もちろん重すぎてもまずい。
軽いということはクリアランスが広いということでブレーキを踏んでも十分に効かないし、逆に重いということはブレーキが引きずっている。
どちらも事故の原因になる――ブレーキを踏んだときに確実に動作し、ブレーキを離しているときはドラムの回転の妨げにならず、かつ左右で効き具合に差が無い、ぎりぎりのところまで詰めなければならない。
ラチェット機構が二十回動作するまでアジャスターのギアを回してから、アルカードは再びドラムをかぶせてナットを仮止めした。
運転席に向かって二ノッチ音がするまでパーキングブレーキのレバーを引いてから、再び後輪のところに戻り、生身の人間と同程度の腕力に調整してドラムを回転方向に向かって動かしてみる。
かなり重いが、動く――左右ともに同程度の重さなので効きの偏りは無い。
続いてもう一ノッチレバーを引いて、アルカードはもう一度ドラムを手で回そうと試みた。
ドラムがかなり重いながらも回転したので、アルカードは再び運転席に向かってパーキングブレーキを解除した。
クリアランスが少し広い。あと二、三ノッチくらいは詰めてやってもいいだろう。
そう判断して、アルカードは再びドラムをはずす作業に取り掛かった。
*
吸血鬼は大まかに分けて、二種類に分類される――そのうち一方は
言葉の本義は『劣るもの』――すなわち真祖の形質を完全に転写出来なかった劣化コピーに対する、ある種の蔑称であると言われている。
対してその
真祖、もしくはノスフェラトゥ、あるいはロイヤルクラシックと呼ばれる非常に強力な個体である。すべての
吸血鬼に噛まれた人間が変化することがはっきりしている
その一方で大蒜を嫌う、十字架や聖水を忌避するといった傾向は無く、川を越えられないとか招待されないと家には入れないといったことも無い。ただしその一方で、本人が心底苦手にするものが個体ごとの弱点となることはありうる――川に落ちて溺死しかけた経験を持つ吸血鬼が川を心底怖がったり、火事に遭って焼死しかけた経験を持つ吸血鬼が火を見るとパニックに陥ったり、といった様なことだ。これはどちらかというと心的外傷後ストレスに近いと言えるかもしれないが、こういった吸血鬼を無理矢理にストレス源に近づけようとすると即座に塵になるのだそうだ。
対して、ロイヤルクラシックは基本的に太陽に対して完全な耐性があるとされている――といっても、実際の目撃例があるわけではないのだが。
だが通常の
それが
アルカードも、『剣』の一個体だ――ドラキュラの『剣』であるとされ、つまり彼はドラキュラに絶対の服従と奉仕を誓い、そうと望んで吸血を受け吸血鬼になった個体であるとされている。
彼は晴れた昼間のあの倉庫にやってきた――ということは、彼は日中の太陽光下でも問題無く活動出来るのだ。実際、教会が記録しているアルカードの目撃例には昼間が多い。
だがその一方で、アルカードは上位個体から離反した吸血鬼だ――強い力を持つ半面真祖からの精神支配の影響ももっとも強く受けている『剣』がどうやって真祖から離反するのかは、わからない。しかも吸血の経験が無いということは、彼は
たしかに
五百年前に数多くの人間の命を喰らって自己強化を繰り返し、『剣』に伍するほどの戦闘能力を誇るにいたった吸血鬼の群れをことごとく虐殺し尽くして、アルカードは当時の真祖カーミラを瞬殺したという――その事実から察するに、当時のアルカードの戦闘能力は『剣』とはいえ
その彼がカーミラを殺せるかどうかわからないと言った、その理由ははっきりしている。
否、実際に死んではいないだろうが、それに等しい甚大なダメージを負ったのだ――そしてその後遺症によって、彼はいまだに全盛期の力を取り戻せてはいないのだろう。
『
アルカードが言っていた様に、彼は人間の血をすすればあっという間に元通りの力を取り戻せるはずだ。なにしろ、弱体化した今でも八十年間生き延びられるほどの力を維持しているのだ――進んで吸血行為に手を染めれば、彼はあっという間に往時の力を取り戻せるだろう。
なのに――なぜ、彼はそれをしないのだ?
教会の推測にある様に、一度も血を吸わない状態のままドラキュラを斃すことで人間に戻るのが目的なのだろうか。
否――盗み聞いた電話でのあの吸血鬼の口ぶりは、まるで最初から彼には人間に戻る余地など無くて、その上で本人に吸血の意思が無い様にも取れる。それにあの電話の内容――あれはまるで、自分の処遇を話し合っているかの様な内容だった。
いったい彼は何者で、誰と話をしていたのだろう――?
*
アルカードの部屋は鍵が開けっ放しになっているので、入るのは簡単だ――フィオレンティーナは仔犬たちが勝手に外に出ていかない様にするための網戸を閉めてから、仔犬たちの引き綱を首輪からはずした。普段はハーネスでつないでいるのだが、散歩に連れ出すわけではないので今日はハーネスはつけていないらしい。
仔犬たちが廊下を走り回ってじゃれあっている――それを見ながら靴を脱いで部屋に上がりこむと、フィオレンティーナはキッチンを目指して歩いていった。
キッチンの床下収納の中に、ドッグフードの缶詰があるから――アルカードの言葉を思い出しながら、床下収納の蓋を引き開ける。
床下には町内の制式ゴミ袋や缶ビールのケースと一緒に、これも箱買いしたらしいBOSSブラックの缶コーヒーが十ケースばかり納まっていた。
「……」 店に置いてある五ケースだけじゃなかったんだ――よっぽどボスジャンがほしかったのかしら。気を取り直して、ドッグフードの缶詰を取り出す。
体が小さいから、缶詰を三等分――アルカードの言葉を思い出しながら、フィオレンティーナは洗って水切り籠の中に入れてあったプラスティック製の小鉢を取り上げると、缶の蓋を開けて中身のドッグフードをスプーンでよそって入れた。
食事の用意がされているのに気づいて、三匹の仔犬たちが足元にじゃれついてくる。それをあしらいながら、フィオレンティーナは床の上にみっつの小鉢をひとつずつ置いてやった。
「はい、どうぞ」
賢いことに、自分たちの取り分が分けられているのは理解しているらしい――それぞれ自分の鉢に鼻面を突っ込む様にしてドッグフードを食べている仔犬たちを見遣って、フィオレンティーナはくすりと笑った。
アルカードはまだひとりで作業を続けている――アルカードは午後から出勤なので、それまでに作業を終わらせるつもりでいるらしい。
結局のところ、なにをするのかは説明してもらっていない――アルカードとしても門外漢のフィオレンティーナに作業の細かい内容まで説明しても意味は無いと判断したのか、細かい作業の内容までは話さなかった。
満腹になったテンプラとウドンが、互いに絡み合う様にしてじゃれあっている――それを眺めていると、ソバが床の上でお腹を見せてコロンとひっくり返り、フィオレンティーナの爪先に引っかかった。じゃれついてくるソバのかたわらにかがみこんで鼻先に指を差し出すと、ソバはフィオレンティーナの指先をぺろりと嘗めた。
「貴方たちのご主人様は、わたしになにをさせるつもりなんでしょうね?」 しばらくの間犬たちの遊び相手をしてから、ソバのお腹をさすってやりながらそうささやいたとき、
「別に妙なことをさせるつもりは無い」 憮然とした口調で言いながら掃き出し窓の向こうから姿を見せたのは、当のアルカードだった――彼は真っ黒になった手を気にしているのか、網戸越しに寄ってくる仔犬たちの頭を撫でたりはせずに、フィオレンティーナに声をかけた。
「用意が出来たから来てくれないか――なに、簡単だ。俺が声をかけたらブレーキを踏んでくれるだけでいい」
その言葉に、フィオレンティーナはうなずいて立ち上がった。
「わかりました」
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