本国から通達
——ザーリアー軍欧州東部方面軍司令部
ウィーンの中心街から北へ数キロ行った郊外——ドナウ川沿いに建てられた鉄筋コンクリート製の無骨な建物である。
この一帯はワインの産地として知られ、ゲシュプリツターというワインを炭酸水と一対一の割合で割った飲み物が名物となっている。
が、昨今の戦争、そしてこの地にザーリアー軍の司令部が置かれた事もあってか、近頃では訪れる客も激減しているというのが地元住民の悩みの種であった。
司令部施設の廊下を早足で司令官執務室へと向かう男の姿がある。
淡いブラウンのサングラスをしているが、レンズの向こうに見える瞳は冷やかで、感情というものが欠如しているかの様な……そんな冷たさを見る者に与える。
彼とすれ違う将兵達は皆一様に立ち止まって敬礼をするが、彼は僅かに頷くだけで、さっさと行ってしまう。
それが許されるのは彼が他ならぬ、この司令部に於ける参謀長ヴェルナー・ゲルリッツ少佐だからである。
「失礼します、閣下」
司令官執務室に来ると室内では古めかしい蓄音機からクラシック音楽の演奏が流れていた。
「やはりアマデウスは良い……」
司令官ことオットー・ブンゲルト中将は牛革のゆったりとした椅子の背もたれに身を沈め、南米産の葉巻を咥えながら感じ入るように目を閉じている。
流れている曲はエステルライヒ出身の音楽家アマデウス作曲の『フィガロの結婚』であった。
ゲルリッツ少佐はその様子に思うところでもあったのか、僅かに眉を顰める。
「ゲルリッツ……キミは音楽は嫌いかね?」
目を閉じているのにゲルリッツ少佐の僅かな表情の変化に気づいていた様だ。薄眼を開けていたのだろう。
「いえ……決してそのような事は……」
表情の変化も一瞬のこと。ゲルリッツ少佐は感情など持ち合わせていないかの様な冷たい表情に戻っていた。
(まるで鉄仮面だな……)
ブンゲルト中将はこの部下をあまり快く思っていない。
優秀だから使う。所詮は職業軍人に於ける上官と部下の関係。そこに私的感情は必要無い。ただそれだけだと割り切っていた。
「血生臭い軍人と言えど、音楽や芸術を愛でる器量はあらねばな。そうでなくては無機質な殺戮兵器と何も変わらん。知っているかね? 総統閣下も美というものを殊更に愛しておられる。リンツの地下に収蔵庫を作らせ、ヨーロッパ各地の名画を戦火から守る為に一時保管させておるのだ」
「風の噂には聞き及んでおります」
ブンゲルト中将はザーリアー第三帝国の指導者たるヒンケル総統を心酔している。
彼自身はもともと音楽や芸術に関する知識など殆ど持っていなかった筈だ。しかし、そういった美というものに傾倒する事が彼なりのヒンケル総統への忠誠心を示すものだと思い込んでいるらしい。
先進的な改革を行い、世界的な大恐慌から祖国を他のどの国よりも早く抜け出させた。その立役者でもあるヒンケル総統に対するブンゲルト中将の思いは、もはや狂信的とも言えた。
「まあ……キミが芸術に関心があろうと無かろうと、ここでは関係の無い事だし、私にとってはどちらでも良い事だ。酔狂な老人の戯言と思って聞き流してくれたまえ」
「はい……」
機械的な返事であった。
(面白味の無い男だ……)
プライベートであれば、これほど自分と合わない男もいないだろうとさえ思っている。
あまりにも機械的で、あまりにも冷淡。事務的に与えられた職務を全うするのみ。参謀としては実に有能なれども、結局は仕事人間でしかない。
このゲルリッツ少佐という男からは、そんな印象しか受けなかった。
「それで……? ここに来たからには何か要件があっての事なのだろう?」
満足に雑談も弾まない男とこれ以上、無駄話をしていても面白くないとばかりに本題へと切り替えた。
「はっ! 本国からの電文です。『
ゲルリッツ少佐は手にした電文を読み上げると直立不動のまま、ブンゲルト中将の返答を待つ。
「ふふん……」
ブンゲルト中将は葉巻の火を灰皿に押し付けると鼻で笑った。
「予想通りの回答だな。もっとも……もう少し早く決断して貰いたかったものだが……。どうも本国参謀本部の連中は腰が重くてイカン」
「『貴官ノ具申セシ』とは、先日の……?」
「ああ……。手ぬるい交渉など、いつまで続けていても平行線を辿ったままだからな。こちらからちょっと脅しをかけてやったら、本国で温かいスープを啜ってる連中もようやく事の重要性を理解したようだ」
ブンゲルト中将は状況判断力に乏しい参謀本部の連中に対して唾を吐いてやりたい気分でいた。
それがここへ来て、ようやく自分の提案に賛同の意を見せたのだ。
(これで却下していようものなら、我が国は亡国に成り果てるだけだ)
各地で戦況は一進一退の攻防を繰り返しているが、参謀本部の判断がこれならば、まだ見込みはある。ブンゲルト中将にはそう思えた。
「作戦実行はいつがよろしいでしょう?」
「明後日だ。
ブンゲルト中将は席を立つと蓄音機を止め、ゲルリッツ少佐の手にしていた電文をひったくる様に掴んで握り締めた。
「はっ! では、直ちに手配致します」
「うむ……」
背を向けて窓の外を見つめるブンゲルト中将に敬礼をすると、ゲルリッツ少佐は回れ右をして出て行った。
「これで我が国は優位に立てるな……」
外の様子を見ながらブンゲルト中将は目立たぬくらいの含み笑いを浮かべる。
西風の中、昼下がりの正門にザーリアー第三帝国の旗がはためいていた。
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