複雑な事情 その1

 プリーネが通されたのは、屋敷のダイニングルームであった。

 縦長の室内に、これまた細長いダイニングテーブルが置かれていて、たった二人で暮らしているというのに、テーブルの両サイドに椅子が十脚は並んでいる。

 恐らく、かつて貴族の大家族が使用していたものをそのまま使っているのだろう。

 現在では貴族の殆どは、その地位を失い、かつて数百年に渡って栄華を誇ったエステルライヒ王家も零落の一途を辿っている。

 巷では、近い将来、王家はその地位も権力も剥奪され、このエステルライヒにも民主化の波が押し寄せるだろうと囁かれているほどだ。

 元貴族の屋敷を商人の一族が買い取ったこの家も、それを象徴する一例と言えるだろう。

 屋敷の主、ペトラ婦人はその長細いダイニングテーブルの端にいた。

 プリーネがここに通された時には、丁度、夕食を済ませたところだったようだ。


「あらあら! お目覚めのようね。調子はいかが?」

「はい。お陰さまで随分良くなりました。ありがとうございます」


 プリーネはペコリと頭を下げる。


「それは良かったわ。ここへ来た時は随分と具合が悪そうだったから、お医者様を呼んだ方が良いのかと思ってたのだけど……元気になったのなら何よりだわ」


 初めて会った相手だというのに、ペトラ婦人は自分の娘の事であるかの如く、安堵の表情を浮かべた。

 ここへ来て、ふとプリーネはディルクの姿が無い事に気づく。

 プリーネが窺うような顔であった為、その事を察したのか、


「あの子なら、先に学校へ戻らせたわ。あなたの事を学校へ電話で伝えたのだけど、詳しい話を直接聞きたいと言われたみたいでね……渋々帰って行ったわ」


 ペトラ婦人はそう答えた。


「明日になったら、また迎えに来ると言ってたし、あなたの事も大まかな事情はあの子から聞いたわ」

「そう……ですか……」


 大まかな事情というのが、どこからどこまでの事を言ってるのか分からないが、この人になら全て話しても良さそうな気がした。


「お夕飯がまだだったわね。お腹が空いたでしょう? ヒルダ……用意してあげてちょうだいな」

「はいはい……イッヒッヒッ……」


 ヒルダ婆さんは不気味な笑い声を残して隣室へと消えて行く。

 見た目だけじゃなく、笑い声まで童話世界の悪い魔女のようだが、別に他意があるわけじゃなく、ただの癖なのだそうな。


 やがてプリーネの前に真っ赤なトマトベースのスープ……いわゆるボルシチが運ばれて来た。


「昔、ヒルダはロマノフに住んでた事があったそうなの。その時に食べたロマノフ料理に惚れ込んで、週に三日はそれなのよ。おかしいでしょう?」


 ペトラ婦人は口もとを手で隠し、さも楽しげに笑う。


「あたしゃ特にボルシチとフォルシュマークが好きでしてね。戦争が終わったら、また本場へ食べに行きたいものですわ」


 ロマノフ・ツァーリ正教国は東欧から極東アジアにかけて広大な土地を持つ大国だが、今は連合国側で、ザーリアー第三帝国とは敵対関係にある。当然、ザーリアーの属国となっているエステルライヒの国民が自由に出入りできる状況では無かった。


「ホント……こんな戦争、早く終わって欲しいですね」

「プリーネさんもお辛い思いをしたのね……。私などでは力になれるか分からないけど、困った事があったら遠慮なく言ってちょうだい?」

「ありがとうございます……」


 プリーネは少しはにかんでお礼を述べるが、老婦人の優しさが心に痛くもあった。

 別にこのペトラ婦人の事を悪く思ってはいない。寧ろ、その優しさ、心遣いといったものに救われる思いだ。

 けれど、心の拠り所を失って、さほどの時間が経っていないプリーネにとっては、その優しさにどう反応して良いのか困惑してしまうのだ。


「奥様は……」


 プリーネが言いかけたところで、ペトラ婦人はそれを遮った。


「ペトラで良いわ。奥様なんて呼ばれると、どうもむず痒くて……。そんな大層な身分じゃないのにねぇ」

「あはは……。じゃあ、ペトラさんって呼ばせて頂きます」


 気取りの無い婦人に、思わずプリーネも笑いがこぼれる。


「ペトラさんは確か……ディルクの伯母さまなんですよね?」

「ええ。その割りにはお婆ちゃんに見えた?」

「あ……いえ、そういう訳じゃ……」


 そういうつもりで言った訳では無いのだが、確かに言われてみれば「伯母さん」という割りに随分と老齢である。「祖母」と言ってもおかしくないくらいだ。


「ディルクの父親の姉にあたるわ。まあ、彼の父親も六十過ぎだから、ディルクは一人息子とは言っても、随分遅くに生まれた子なのよ」

「どちらも魔導士の家系なんですか?」


 プリーネはこれが聞きたかったのだ。

 その質問にペトラ婦人は頷く。つまりペトラ婦人も魔導士の一族という事だ。


「私は学生時代、ヘルマ・クルークハルトさんの四年下の後輩だったのよ。あの頃からの付き合いで、今でも懇意にさせて頂いてるわ」


 ヘルマ・クルークハルト……つまり王立魔導学院の校長であるヘルマ校長の事だ。

 これにはプリーネも驚きを隠せない。


「じゃあ、あたし達の大先輩になるんですね!」

「ふふふ……大先輩だなんて……。彼女はともかく、私は大して才能が無いから凡庸の魔導士よ。資質に関して言えば、ディルクの方が私なんかよりも上じゃないかしら?」

「ええぇぇっ⁉︎ そ、そうなんですか⁉︎」


 ヘルマ校長と同時代に同じ学校に在籍していた事もだが、それ以上にペトラ婦人よりもディルクの方が魔導士としての資質が上である事の方が驚きであった。

 単に謙遜して、そんな事を言っているのじゃないかとすら思える。


「ふふ……あの子、学校じゃ真面目にやってないのでしょう?」

「え……あ……それは……そのぉ……」


 いくらディルクの事が好きでは無いとはいえ、さすがに身内の前で本音は言えない。

 プリーネが答えにくそうに目を泳がせていると、


「いいのよ……ちゃんと分かってるんだから。それに、プリーネちゃんがあの子の事を苦手にしてる事もね」

「——!」


 プリーネはドキリとして、言葉を失った。全て見透かされている。

 この心優しい老婦人に嫌われてしまうのでは無いかと、内心ハラハラして俯いてしまった。


「あら? 別にあなたを責めてる訳じゃないのよ? 人それぞれ相性というものが有るんだもの。それは仕方ないわ」

「す、すみません……」


 責めている訳じゃないと言われても、やはり自然と謝りたくなってしまう。

 プリーネが申し訳なさそうにするものだから、却ってペトラ婦人も困った顔をする。言わなければ良かったと思ったのだろう。


「まあ、不真面目にしてるから、人によって好き嫌いがハッキリ分かれるタイプではあるわね。ただ、ああして不真面目でいるのは、あの子なりに父親に対して反発してるからなのよ……」

「そう……なんですか? あ……でも、それは聞かないでおきます。他人の家庭の事情に、あたしなんかが踏み込んで良いものじゃないって思いますから……」

「そうね……。つまらない話だし、話題を変えましょう?」


 何か深い事情があるらしいが、ペトラ婦人は諦めている様なふうでもあった。

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