老婦人の屋敷

 薬を飲んだ事で呼吸も少しは落ち着いては来たが、まだプリーネは苦しそうに顔を歪めていた。


「とにかく、ここを出よう。学校までは……ちょっと距離があるな……」


 現在、プリーネとディルクの居るカフェから学校までは、直線距離でおよそ六、七〇〇メートル。

 普通に歩けば大した事は無いが、プリーネがこの様子では、そこまで自力で歩けるとも言えない。どこか近場で横になって休ませてやる必要がありそうだった。


「そうだ! ここからなら……」


 思い当たる事があった様で、ディルクはプリーネの左腕を自分の肩に回し、身体を支えて立たせてやる。


「ここから三つ先のブロックになるけど、知り合いの家が有るんだ。辛いかもしれないけど、何とかそこまで歩けそうか?」

「ん……」


 満足に返事もできない状態ではあったが、プリーネは弱々しく頷いた。



 ディルクに支えられ、やっとやっとの足取りで辿り着いたのは、コールマルクト通りから学校とは正反対の方角に一〇〇メートルほど行った場所にあるドロテーアガッセという少々道幅の狭い通りであった。

 ホテルなども数軒建ち並ぶ通りではあるが、ディルクの目的はそんな宿泊施設ではない。

 休ませてやる為とはいえ、そんなところに泊めたりでもしたら、後でプリーネから、どんな罵声を浴びせられるか知れたものじゃない。

 やって来たのは、同じ通りにある他の建物よりも、ひと際大きな邸宅である。

 庭園こそ無いものの、三階建の大豪邸だ。煌びやかな装飾などは無く、白い外壁も長い年月を経てくすんでいるが、昔、貴族が住んでいた邸宅を今の家主が買い取って、そのまま使っているふうであった。

 玄関には、この辺りの家にしては珍しく、表札が掛かっている。

 楕円形の木板をチェーンで吊るしたもので、家主が自分で塗ったのであろう黄色い下地に黒文字で『Petra Kleffel』と書かれている。


「ペトラ……クレッフェル……?」


 薬が効いて来て、随分マシになって来たのだろう。プリーネは吐き気がするのを抑えながらも、顔を上げて尋ねるように声を発した。


「オレの伯母さんさ……。オレが産まれるずっと前から、ここに一人で暮らしてる。いや……一人、メイドさんが居たかな」


 玄関の前まで来ると、ディルクは扉を壊さん勢いで荒っぽく叩き始める。

 無論、人が素手で殴ったくらいで壊れるようなヤワな扉ではないが……屋敷が大き過ぎる為に、これくらい乱暴に叩かないと、気づいてくれないのだそうな。

 やがて、「はいはい、ただいま〜」と間の抜けた婆様らしき声が聞こえて来た。


「おや? 坊っちゃま?」


 現れたのは腰の曲がった老女であった。白髪頭で、深い皺が刻まれた顔に大きな鷲鼻がニョキっと生えている姿は、あたかも童話に登場する悪い魔女の様だ。


「いい加減、『坊っちゃま』はやめてくれよ、ヒルダ」

「本家の坊っちゃまには違いありませんからな……へっへっへっ……。ところでどうかなさったのです? そちらのお嬢様は……?」


 ヒルダと呼ばれた老婆は首を傾げる。が、プリーネの様子を見るなり、おおよその事は察した様だ。


「学校の友達さ。ちょっと休ませてやって欲しいんだ」

「え〜え〜。それはもちろん構いません。ささ、一階の空いてる寝室をお使いくださいな。奥様ぁ! 奥様ぁぁ!」


 ヒルダは声を張り上げて、屋敷のあるじを呼ぶ。

 この広い屋敷に、このメイドと家主であるディルクの伯母しか住んでいないのだから、互いを呼ぶ際は実に不便だろう。


「はいはい。相変わらず騒々しいこと」


 二階の奥から初老の婦人が顔を見せる。

 こちらは品の良さそうな、しかし全く嫌味の無い、細身の穏やかそうな老婦人であった。


「伯母さん、ちょっとだけ部屋借りるよ。あと、いい加減に呼び鈴くらい付けろよ」


 呼び出す時は、ああやって乱暴に扉を叩かなければならないから、手が痛くなるのだ。


「そんな事よりも、奥様。このお嬢様、お身体の加減が……。お部屋で休ませて差し上げませんと」

「あらあら、お友達? それなら空いてる部屋を好きに使ってちょうだい。何か必要な物は有るかしら?」


 何だか、ちょっとした騒ぎになってしまった。


「す、すみません……」


 プリーネはか細い声で謝る。

 が、老婦人は優しい笑みを携えて、


「気にしないで良いのですよ? どうせこんな無駄に広い家に、年寄り二人で暮らしてるんですもの。貴女の様な若い子が居てくれた方が、私も寂しい思いをしなくて済むわ」


 突然の来訪を歓迎してくれた。

 それはきっと、この老婦人の本心なのだろう。社交辞令で言っている訳じゃない事は、全てを包み込んでくれる様な、穏やかで優しいあの笑顔でわかる。

 プリーネは未だ頭や胸、胃に残る不快感に苦しみながらも、この老婦人に対する不思議な安心感から、何か救われるものを感じていた。



 ——どれくらいの時間が経ったのだろう?


 気がつくと、ふかふかの大きなベッドの上に寝かされてた。

 体を起こして辺りを見回す。

 寮の自室と比べ、四倍はあろうかという広さ。置かれた調度品や装飾も、あまりゴテゴテしておらず、上品な内装である。

 だが、まるで生活感というものが感じられず、長い事使われていない部屋の様だった。

 記憶を辿ると、この屋敷に連れて来られた事までは、朧げながら覚えている。どうやら、この部屋に寝かされて、いつの間にか眠ってしまった様だ。

 今では体の不快感も全く無く、頭の中もスッキリとしている。

 この部屋に時計が置いてないので、正確な時間はわからないが、窓の外はもう真っ暗になっていた。


「お礼言わなきゃ……」


 部屋を出ると、屋敷の中はまだ煌々と明かりが灯っていたが、シンと静まり返っている。

 初めて来た屋敷で、しかもこれだけ広いと、どこに何があって、どこに人がいるのかもわからない。


「どこにいるのかなぁ……」


 トボトボと廊下を歩いているうち、不意に、


「おや! お目覚めですか?」

「うひゃっ‼︎」


 背後から声をかけられ、プリーネは驚きのあまり飛び上がった。


「ありゃ、申し訳ありません。驚かせてしまいましたか」


 メイドのヒルダが決まり悪そうにペコペコと頭を下げる。


「あ、い、いえ……。こちらこそ、お世話になってるのに、ごめんなさい」

「いやいや、そんな……」


 プリーネとヒルダ……二人して何度もペコペコしている。


「ささ。こちらに奥様がいらっしゃいますので、元気なお顔を見せてあげてくださいな」

「はい! お礼を言わなきゃと思ってたので、是非」


 ヒルダは奥へとプリーネを誘ってくれるのだが、如何せん年齢的なものもあってか足が遅い。

 これでメイドが勤まるのか不思議ではあったが、要はこの屋敷の老婦人ペトラが、たった一人では寂しいと、主に話し相手として雇っているのだという事が後でわかった。

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