不穏な空気と異変と……

 ザーリアー軍の兵士達だ。

 何の目的でこのような場所をうろついているのかは知らないが、どうやら休憩がてら、このカフェに立ち寄ったようだ。

 他の客も皆、静かに過ごしているのに、この兵士達はマナーというものを知らないのか、大声で騒いでいる。

 その様子に店員も苦い顔をしているが、注意も出来ず、ただ黙っていた。

 加えて、プリーネとディルクにとって災難だったのは、彼らはよりによってプリーネの直ぐ後ろの席に着いた事である。

 折角、美味しいザッハトルテを食べて気分も良くなっていたのに、背後で馬鹿騒ぎされたのではたまらない。


「空気悪くなったな……」


 ディルクが顔を顰める。

 そんな二人を尻目に、兵士たちは声のトーンを落とす事もなく、プリーネの直ぐ後ろで不穏な会話を始めた。


「それにしても聞いたか? 司令部はポラン共和国のワルシャワやマジャル王国のブダペストまで前戦の後退を決定したそうだ」

「スターリングラードでの被害が余りにも甚大だったからな。海軍もバルト海から撤退したと聞いたぞ?」

「ブダペストも陥ちれば、いよいよロマノフ軍もこのエステルライヒ領に進軍して来るだろう。そうなれば戦況を覆すのは不可能に近いだろうな」


 連合国軍の反撃により、ザーリアー軍も大分苦境に立たされているようである。

 それにしても、こんな話を街中のカフェで話していて良いのだろうか? 軍事機密なんじゃないかとも思える内容だ。


「意外とこいつら、規律が緩くなってるのかもな」


 ディルクが小声で呟くが、プリーネは反応も無く、自分のケーキ皿を凝視して押し黙ったままだ。


「まあ、仮にウィーンが戦場にでもなったら、街に火をかけて撤退でもするかぁ?」

「ギャハハ! それもひとつの手として有るかもしれんな! 灰燼に帰した都市など、防衛機能は皆無となるからな」


 不謹慎にも程がある。

 彼らは兵卒の中でも、ひどく程度の低い連中のようだ。


「聞いてて腹が立って来るな。そろそろ出よう……プリーネ」


 しかし、プリーネはディルクの呼び掛けに反応する事もなく、先ほどからずっと同じ一点を睨み続けるばかりだ。

 様子がおかしい。


「プリーネ……?」


 プリーネは……カタカタと震えていた。呼吸も荒く、思考が不安定になって来ている。


「はぁ、はぁ、はぁ……ディ……ディルク……あたし……何だか変だ……」


 苦しげに喘ぐ。

 しかし、どういう訳か顔は半笑いであった。

 プリーネ自身も、なぜ笑っているのか理解できない。何もおかしい事など無いのに、口もとが歪み、頬は顔の片側だけ引き攣り、不気味な笑みを浮かべている。

 瞳孔が開き、やがて歪んだ笑みを浮かべたまま、目から涙が零れ落ちた。


「あ、あはは……何だろう? あたし……どうしちゃったんだろう?」

「プリーネ! どうしたんだよ! しっかりしろ!」


 ディルクがプリーネの両肩を掴んで揺するが、全身が弛緩してしまったかのように、頭だけがされるがままにカクカクと振られている。


「そ、そうだ!」


 ディルクはふと、ある事を思い出して、ジャケットのポケットから小さなガラス瓶を取り出した。

 中には薄茶色の錠剤が入っている。


「プリーネ……これを飲んで……」


 手のひらに二錠出すと、それをプリーネの顔の前に持って行く。

 しかし、プリーネは苦しそうに喘ぐだけで、一向に薬に手をつけようとしない。


「医務室のドクターに渡された薬なんだ。もしも、プリーネの様子がおかしくなったら飲ませろって」


 それを聞いて少しだけ安心したのだろう。

 プリーネは震える手で錠剤を摘むと、変に歪んだ口へと運んだ。



 ——プリーネが倒れた晩の事である


 プリーネが穏やかな寝息を立てているので、ディルクは時折、プリーネの様子を伺いながらもドクタービエロフカと談笑していた。

 そんな最中さなか、ドクタービエロフカは神妙な面持ちで、


「そう言えば……これをディルクくんに渡しておくわ〜」


 と、錠剤がこれでもかと言うくらい詰め込まれたガラス瓶を手渡した。


「何? これ」

「プリーネちゃんの事だけどねぇ〜。また今日みたいに様子がおかしくなったら、これを一回に二錠飲ませてあげて欲しいのよぉ」


 つまり、今回の症状は再発する恐れがあるという事を暗に示していた。

 ディルクはてっきり、心労に因るものだろうとばかり思っていたから、こんな薬をわざわざ自分に渡すなどという事を妙だとも思ったが、言われるままガラス瓶を受け取る。


「これは魔力も込められた、いわゆる魔法薬の一種なのよぉ。本当なら、さっきプリーネちゃんに投与してあげた薬を血液に直接送ってあげた方が効き目は有るんだけどねぇ。万が一、お姉さんが近くに居ない場所で症状が出る事も考えられるでしょ〜? だから保険としてね」

「はあ……。まあ、別にそれは構わないけどさ。でも、それだったらオレじゃなくて、プリーネに持たせてやれば良いじゃんか」


 すると、ドクタービエロフカは「チッチッ」と人差し指を立てて振る。


「今回みたいに意識を失っちゃったら、もちろんお姉さんのお注射じゃないとダメだけどぉ〜。意識が有る場合であっても、十中八九、プリーネ自身が意識して薬を飲める状態じゃなくなるからね〜」


 よく分からないが、発作的なものなのだろう。


「そういう事なら、まあ……。でも、何でオレなのさ?」

「それは、ほら……ディルクくんって、いっつもプリーネちゃんにつきまとってるじゃない?」

「つきまとうって……人聞き悪いな」


 口を尖らせるが、事実は事実だ。

 ディルクも身に覚えが無いかと問われれば、否定はできない。

 結局、ドクタービエロフカはプリーネの身に起こった症状が何であるのか知っていた様子だったが、ディルクが訊いても詳しくは教えてくれなかった。

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