ウィーン市街へ

「何だか距離を感じるんだけど……気のせいか?」


 ディルクは後ろを振り返って苦笑い。

 プリーネはディルクの二、三歩後ろを歩いている。


「何でそんなに離れて歩くんだよ」

「良いでしょ? 別に……。これくらいの距離感が丁度良いの」


 此の期に及んで、まだプリーネはむくれっ面である。

 借りがあるから一応義理立てしてやっているが、渋々付き合っているという姿勢は変わらないのだ。


「並んで歩かないか?」


 ディルクがもっと近寄るよう促して立ち止まるが、彼が止まるとプリーネも立ち止まる。


「そんな契約した覚えない」

「契約って……つれないなぁ……」

「う……」


 悲しそうな顔でそんな事を言われてしまうと、自分が悪い事をしている気分だ。

 どうもあの一件以来、ディルクに対して負い目を感じてしまい、以前のように辛辣になり切れない自分がいる。


「わ、わかったわよぉ〜! しょうがないなぁ」


 それでもプリーネは、ディルクの直ぐ後ろまで近づいただけで、決して隣りに並ぼうとはしない。


「まあ、いっか……。オレとしても、あんまり無理強いはしたくないし……。それで……どこか行きたいとこ有るか?」


 行きたいところと言われても困る。

 そもそもプリーネは休みの日以外、学校の外に出る事は無いし、今日の様な休日であっても、他の学生と違って生活費にあまり余裕が無いから、学生から徒歩で数分程度の距離にあるカフェと生活必需品のお店くらいしか行った事が無い。

 加えてウィーンに来てから、まだ一ヶ月も経っていないから、どこに何があるのかも良く知らないのだ。


「今日は一日、あんたに付き合う約束だから、好きにしたら?」

「乗り気じゃないみたいな言い方だなぁ」

「当然……」


 プリーネはクッと親指を下に向ける。

 強く反発できない自分自身の気持ちに精一杯抗った結果が、この「地獄に堕ちろ」とでも言いたげなジェスチャーだった。


「まあいいや。んじゃ、適当に良さそうなとこぶらつくかぁ。プリーネも連日、例の魔法について頭が一杯だったみたいだし、たまには気分を変えた方がいいだろ?」

「え……?」


 思いもしなかった事だ。

 許可証を偽造する見返りとして一日デートという話だったから、どうせ自分の都合しか考えて無いのかと思っていた。

 けれど、何だかんだ言いながら、プリーネの事もちゃんと考えていてくれたらしい。


「ま、まあ……確かに……それはそう……かも……」


 不覚にも顔を赤らめてしまう。それを悟られないよう、プリーネはディルクの背後で俯いてしまった。


(な、な、何でこいつの言う事なんかに動揺してんのよ! よりにもよって、こんなヤツに……!)


 プリーネはブルブルと首を振る。

 一瞬でもドキッとしてしまった自分が嫌になる。


(確かにこいつの言う通り、疲れてるのかも……。うん! それだ! 間違いない!)


 動揺してしまった理由を半ば強引にこじつけて自分を納得させた。

 もはやプリーネにとって、ディルクにドキドキしてしまうなど、あってはならない事なのだ。

 話しかけられても、見ているだけでもイライラする。嫌いだからこそ頑なに拒み続けている。そこに一点の曇りも無い筈なのだ。


「どうかしたか?」


 プリーネが黙ったままでいたので、ディルクが振り返って問いかける。


「何でもない……。とにかく行き先は任せるわ」


 ようやく落ち着いて来た。

 しかし、不意にプリーネは背中に何やら刺す様な視線を感じた。

 恐る恐る、顔を半分ほど後ろへ向けると……物陰からこちらを恨めしそうに睨みつけている女の姿がある。


「あ〜……ディルク? あれは?」

「ん?」


 プリーネがこっそり指差す方に、ディルクも目をやる。

 そして、げんなりとした様子で、


「ああ……またかよ……」


 ため息混じりにぼやいた。

 どういう訳かデニーゼがプリーネとディルクの後をつけていたのだ。


「プリーネ……あいつを撒くぞ」

「は? わっ! ちょ、ちょっと!」


 早足で歩き始めたディルクに手首を掴まれ、何度か路地を折れる。

 何とか追っ手を撒いた様だが、かなり複雑なルートだったから、プリーネは既に帰り道がわからなくなっていた。


 しばらく歩き回り、やがて旧市街のコールマルクトという通りに出た。

 この通りを含む四つのメインストリートが合流するミヒャエル広場へと繋がる繁華街で、ミヒャエル広場に出れば、直ぐ目の前に国王の住む王宮ホーフブルクがある。

 コールマルクト通りには、高級宝飾品のお店やカフェなどが建ち並ぶ。

 ディルクの話では、この辺りの宝飾品店は王室御用達の名店が多いそうな。

 だから通りを行き交う人々も、見るからに裕福な家柄と思しき紳士淑女が多い。


「何だか場違いなとこに出た気がしない?」


 プリーネから見ても、これらの宝飾品は素敵だと思うし、憧れもするが、中流か、それ以下の家庭で生まれ育ったプリーネにとっては、何となく分不相応なところである様な気がしてならなかった。

 しかし、一方のディルクは、


「そうかぁ? 別に普通だと思うけど?」


 と、まるで気にしていない様子。

 ディルクの服装だって、ヨレヨレのサファリジャケットに、下はベージュのハーフパンツといった姿だから、とても高級ショッピング街に相応しいとは思えないのだが……彼はその辺り、あまり頓着しないタイプのようだ。


「まあ、いいけど……はっ——‼︎」


 ミヒャエル広場へと歩みを進めるプリーネの視界に一軒のカフェが飛び込んで来て、プリーネははたと足を止めた。

 外観もクラシックな雰囲気のオシャレなお店で、店名は『デーメル』とあった(※注1)。

 店の窓からジッと……それこそ穴の空くほど、店内に置かれたショーケースを凝視する。


「ん? どうした?」


 店内の商品に目を奪われているプリーネに、ディルクは近寄って声をかけるが……固まってしまったかの様に返事すらしない。

 プリーネの視線の先を目で追う。

 プリーネが見つめているもの……それはショーケースの中に並んだザッハトルテであった。

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