第四章:血と和解の境界線
第38話 意外な来訪者
深遠な夜闇が公爵邸を包み込み、窓の外には、星々の光が瞬いていた。
グラン王国への出立を翌日に控える夜、グナイティキ公爵邸は、激戦を終えた静寂と、新たな旅立ちを準備する微かなざわめきが複雑に交錯していた。公女ユリア・ルクス・グナイティキが苦難の逃避行を経てユグドラシルの継承者であることを内外に公言し、聖剣をレオンハルト王から奪還した出来事により、この国の勢力図は大きく変動しつつあった。そして、今は束の間の休息を得て、館全体が明日からの旅に備え、深い呼吸を繰り返しているかのようだった。
レリュート・レグナスは、公爵邸の一室を間借りし、来るべき旅路に備え、自身の装備を手入れしていた。彼の心には、ユリアが聖剣ユグドラシルを覚醒させ、王家の権威に立ち向かった歴史的な転換点を目の当たりにした興奮が、明日からの危険な旅への警戒心と複雑に混ざり合っていた。
その時、控えめなノックと共に、部屋の扉が静かに開かれた。レリュートは手入れしていた剣から目を上げ、不審そうに眉を顰めた。
桃色の髪をしたユリアの近侍、ティーユは、控えめに頭を下げながらそう告げると、その客人をレリュートの部屋へと促した。
「あの……レリュートさん。お客様がお見えです」
「……俺に客だと?」
レリュートは手入れをしていた剣を指先で弾き、戸惑いを口にした。彼の声には、場違いな来訪者への警戒感が混ざっていた。
そこに立っていたのは、この国では珍しい漆黒の髪をした少女だった。その容姿は、レリュートの養父であるロウガの出身国であるワユカ共和国の人間の特徴である黒髪、黒目の少女、すなわち彼の義妹にあたることを示していた。レリュートは、まさかの来訪者に、手元の装備を握ったまま動きを止めた。
カレンは目に涙を浮かべ、安堵の色を浮かべ、そのまま駆け込むように部屋へと入った。
「やっと会えた、レリュート兄さん!」
レリュートは驚きを隠せず、握っていた剣を音もなくテーブルに置いた。三年の時を経て目の前に立つ妹の姿に、彼は呆然としていた。
「カレン……? なぜ、ここにいるんだ? 連絡もなしに、こんな遠いアルベルクまで何をしに来たんだ」
彼は思わず立ち上がった。
レリュートの視線を受け、カレンは唇をきゅっと結び、不安を滲ませた。
「なぜって、兄さんが三年も、ろくに連絡もせずに帰ってこないからです!」
カレンは一瞬、兄の胸元をじっと見据えた。
「
レリュートは深く息を吐き、気まずそうに頭を掻きながら、困ったように笑った。
「すまない、ろくに連絡もせずに心配をかけて済まなかった。……だが、なぜこの時期なんだ? 今この国が戦争中で危険なのは知っているだろう。何をしに来た? 生存確認なら父上に頼めば済んだはずだ」
「……それは」
カレンは俯き、静かに頷いた。言いかけた言葉を飲み込み、そっと顔を上げた。代わりに兄の顔をじっと見つめた。彼女が最も案じているのは、三年間という長い間、彼が任務として護衛をしている護衛対象――そして、組織の意向など関係なく彼自身が守りたいと父に告げたと言う少女の事だった。
そんな二人の様子をティーユは、興味本位に立ち止まり、二人の会話に聞き耳を立てていた。
ユリアは、つい先日、聖痕励起の力で白銀の
その時、開いたままの扉の向こうから、亜麻色の髪をポニーテールに結んだ少女、ユリアが、そっと顔を覗かせた。その手に持つトレイには、湯気の立つティーカップが乗っている。
「レリュートさん、お茶をお持ちしました。一休みしませんか?……あら? お客様でいらっしゃいますか?」
カレンは、ユリアの姿を一目見るや否や、先程の不安や心配の色を消し去り、強い探究心に満ちた表情へと一変した。
(きれいな人……この人が、レリュート兄さんが、守りたいって言ってる、好きになった人――)
カレンは直感的にそう確信し、ごくりと喉を鳴らした。緊張した面持ちで、ユリアに近づき、静かに会釈した。
カレンは背筋を伸ばし、淀みない口調で言った。その声には、緊張と共に、確かな敬意が滲んでいた。
「あなたがユリア・ルクス・グナイティキ様でいらっしゃいますね」
「私は、レリュート兄さんの妹の
ユリアは驚きに一瞬目を見開いたが、すぐに優しく微笑み返した。
「貴女がカレンさんですか。お会いできて嬉しいです。レリュートさんから、妹さんがいると伺っていまして、いつかお会いできればと思っていました。どうぞ、お上がりになってください」
ユリアが淹れたばかりの温かいお茶を差し出すと、カレンはそれを両手で受け取り、レリュートがいたベッドの端に静かに腰を下ろした。
ユリアはトレイを片手に、興奮したように目を見張った。
「……サイトウ、とおっしゃると、まさかお父様は、エストゥーラ王国との戦争で活躍して英雄と称えられた、あのロウガ・サイトウ様でいらっしゃいますか?」
カレンは思わずレリュートの顔を見た。「しまった」と言いたげに、彼女は慌てて口元に手を当てた。
「……グナイティキ公爵には伝えていたが、ユリアには話していなかったな。俺の両親は15年前に亡くなっていて、父の友人だったロウガ・サイトウに引き取ってもらって、家族となった経緯がある。養子ではあるが、姓は元々の姓を維持している。別に貴族ではないが、俺の代でレグナス家を絶やすのは忍びなくてね」
ユリアは目を見張ったまま、まるで物語の登場人物に出会ったかのように、興奮した面持ちで尋ねる。
「……なるほど。そんな縁があったのですね! その、アルメキアでは、平民の傭兵と大貴族の令嬢の身分違いの恋物語として、今でも語り継がれているのですよ?知ってましたか?」
「……そうらしいな。庶民受けするように多少は史実と異なる過剰な演出が多いそうだが」
カレンは身を乗り出して、純粋な好奇心を込めて尋ねる。
「兄さんは、その本を読んだことあるんですか?」
レリュートは苦笑を浮かべ、頭を掻いた。
「ああ、一応は読んだ。……ただ、父上から当時の話を聞かされて、母上が嬉しそうに惚気るのを見ていたから、史実に詳しいだけだ」
ユリアは俯き、恥ずかしそうに眼をそらして小さな声で囁く。その頬は、今や林檎のように朱く染まっていた。
「……なんだか、私たちの関係に、少しだけ似ていると思いませんか?」
レリュートは顎に手を当てて視線を逸らし、小さく呟いた。
「……そうかもな」
カレンは、その兄の珍しい反応を見逃さなかった。一転してその探究心に満ちた瞳で、ユリアの顔をじっと見つめた。そして、少しだけ身を乗り出す。
「ユリア様。突然で大変申し訳ないのですが、兄さんのことで、少しだけお尋ねしたいことがあります」
カレンの口調は落ち着いていたが、そのまっすぐな視線には、ユリアに詰め寄るような威圧感はない。ただ、長年兄を見てきた家族として、どうしても聞きたい核心的な質問がある――その強い意志が瞳に宿していた。
「兄さんは、昔から女性との付き合いに奥手というか……仕事一筋で、結構モテる感じなのに、浮いた話なんかほとんどない、趣味の
カレンは温かい湯気が立つカップをそっと見つめ、少し声を落として控えめに続けた。
「それで、ユリア様は、兄さんの心をどうやって開かせたのですか?」
カレンは質問を終えると、まっすぐな探究心に満ちた瞳で、ユリアの反応を待った。
ユリアは、カレンのあまりにも素直な質問に、頬をほんのりと赤く染めた。一方、レリュートは、妹のあまりにも率直な言葉に耐えかねたように、低く唸り、思わず片手で顔を覆った。
「おい、カレン! 一体何を言い出すんだ!」
しかし、ユリアはレリュートの制止に構わず、カレンに向き直り、その亜麻色の瞳を輝かせた。彼女自身、レリュートとの間に存在する身分の壁に悩んでいたため、カレンの質問は、彼女にとって非常に興味深いものだったからだ。
「その……レリュートさんが私のことを大切にしてくださっているのは、私も感じています。でも、心を開かせたなんて、私には大それたことすぎて……」
ユリアは居心地悪そうに、自分の指先を見つめた。
「あの、カレンさんのお話、もう少し聞かせていただけませんか? レリュートさんの、私にはわからない過去の部分を……」
カレンは満足げに微笑み、その表情を真面目なものへと変えた。彼女は、淹れたての茶を一口飲んでから、声を弾ませて語り始めた。
「はい! もう、兄さんは本当に仕事一筋なんですよ。例えば―――」
レリュートは、二人の会話に水を差すように、間を置いた冷静な口調で告げた。
「カレン、すまないが、明日からはさらに重要な任務でグラン王国へ向かう。今が最も忙しい時なんだ。せっかく来てくれたのに悪いが、観光案内はしてやれないぞ」
カレンは、まっすぐにユリアを見据え、その申し出を当然のものとして受け止めているようだった。
「そうなの? それならば私も同行させて。私は兄さんの補佐をする為にここへ来たんだから」
レリュートは、妹の真剣さに、目を細めた。
「……お前が俺の補佐?
「そう。別に観光をしにきたわけじゃないのよ。まあ、興味はあるけどね」
「お前がそれなりに戦えるのは父上から聞いている。だが、この任務はお前が思っている以上に危険だ。父上には俺から報告するから帰るんだ」
カレンは、レリュートの制止を無視し、ユリアの顔をじっと見つめた。
「いいですよね? ユリア様」
ユリアは、少し考えた様子を見せ、レリュートの顔とカレンの顔を交互に見る。そして、くすりと笑って答えた。
「そうですね。カレンさんともっとお話したいです。それに……レリュートさんの意外な過去の話も、私もぜひ聞きたいな」
カレンは快活に、両手を合わせて言った。
「決まりだね!」
レリュートは、目元を一度きつく閉じ、深くため息をついた。ユリアの手前、ここで妹を力ずくで引き止めることはできなかった。彼は観念したように、カレンの方へ向き直った。
「……フン。勝手にしろ。俺の足手まといにならないよう、己の身を守り、俺の指示に絶対に従うのなら連れて行ってやってもいい」
レリュートは、厳しい口調とは裏腹に、その瞳の奥にわずかな諦念と、隠しきれない心配を滲ませていた。
「本当? ありがとう兄さん」
「よかったね。カレンさん」
レリュートは、二人の少女の楽しげな会話から逃れるように、そっと窓の外に視線を向けた。明日からのグラン王国への旅路は、この物静かだが探究心旺盛な妹と、純粋で愛しい思い人という新たな組み合わせによって、さらに波乱に満ちたものになるだろう。そう予感しながら、彼は深く、長く息を吐くのだった。
以下、執筆メモ
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